新しい朝
2026年2月
しかし、わが名を畏れるあなたがたには/義の太陽が昇る。/その翼には癒やしがある。/あなたがたは牛舎の子牛のように/躍り出て跳ね回る。
マラキ書 3章20節
義の太陽がのぼりました。私たちは、深い闇の中を過ごしていました。その深く捉えることもできない闇の中で本当の救いを探していました。救いは、真の神が与えて下さいました。この深い闇の世にイエス・キリストを与えて下さいました。本当の光であり、本当の救いです。
神様は、創世記から始まる一連の出来事を記していきました。人類の始まりからイスラエルの民の祖であるアブラハム。奴隷からの解放であるモーセや約束の地での王ダビデもいます。律法や預言。あるいは、詩編に箴言など旧約聖書ができました。その最後に位置するのが、今日お読みいただいたマラキ書です。
このマラキという人物は紀元前450から430年頃に活躍した人物だと言われています。イスラエルの民は、バビロン捕囚から帰還しているもののエルサレム神殿はなかなか回復しませんでした。さらに、ペルシャ帝国の重税と経済的困窮にあえぎ、社会的不正義が横行していました。イスラエルの民は「神はどこにいるのか」「神の正義はいつ来るのか」そんな苦しい思いで問いかけていました。その鬱屈した時代の中でマラキは、預言しました。それが、「義の太陽が昇る」という預言だったのです。その太陽は「審判の火」であり「癒やしの光」であるのです。
主の日とは、多くの預言では「審判の火」として描かれていました。 それは、まず、悪人に対する裁きの火です。しかし、反対には、義人に対しての「救いの太陽」でした。その全てを明るみにする「光」は、私たちを練達する「救いの光」でもありました。
この「義の太陽」についてカルヴァンは、「信仰義認」と結び付けて考えます。カルヴァンは、正しくこの「義の太陽」をイエス・キリストとし、父なる神の「義と救い」がイエス様において完全に啓示されたと言います。
私たち人間は「暗闇と呪い」の中にいます。しかし、イエス・キリストという「外からの光」によって照らされ、義とされるのだと言うのです。旧約聖書の最後には、このような預言の言葉が残されていました。
わが僕モーセの律法を思い起こせ。
それは、私がホレブで全イスラエルのために
彼に命じておいた掟と法である。
大いなる恐るべき主の日が来る前に
私は預言者エリヤをあなたがたに遣わす。
彼は父の心を子らに
子らの心を父に向けさせる。
私が来て、この地を打ち
滅ぼし尽くすことがないように。
(マラキ3:22-24)
この預言は確実にイエス様を証ししています。モーセのような預言者であり、洗礼者ヨハネというエリヤを遣わし、父の心を私たちに、私たちの心を父に向けさせる。そして、御子イエス・キリストを通して、創造主のことを「父なる神」と呼べるようにして下さったのです。
イエス様が残したのは、律法を「主なる神を愛すること」そして「隣人を愛すること」という端的に本質を解く御言葉と教えでありました。イエス様こそ「律法の完成者」であり、やがて、来るその裁きの時の主は、復活のイエス・キリストです。それが明かされるのは、マラキが、この預言を残した400年後でした。神は、この預言の後、沈黙されました。イスラエルは苦しんでいました。しかし、沈黙しました。周りの大国の様子も変わりました。ローマが台頭し、イスラエルに偽りの王が立ちました。この400年をどのように私たちは捉えるべきでしょうか?長いのか短いのか、私たちにはそれを判断する尺度がありません。ただ、神は、沈黙し、そして、御子をこの世に計画通り遣わせて下さいました。神は、この計画を進めるにあたって、400年の沈黙を必要としました。それに対して、私たちは、高々、数時間の暗闇に耐えられません。眠ることのできない日々もありました。朝日を憎む時もありました。光を恐れて、影を踏んで歩きました。
しかし、義の太陽は昇りました。私たちの新しい朝です。私たちの新しい一日です。
文:蓮沼明伝道師