日本キリスト教団

西千葉教会

復活の主を確かめる場所

2026年04月

 そこで、イエスは言われた。「なぜ、取り乱しているのか。どうして、心に疑いを抱くのか。 私の手と足を見なさい。まさしく私だ。触ってよく見なさい。霊には肉も骨もないが、あなたがたが見ているとおり、私にはあるのだ。」

ルカによる福音書 24章38節〜39節

 主イエスは「霊には肉も骨もない」と言われました。よく「幽霊には足がない」と言いますが、主イエスも同じようなことを言っておられるのが面白いと思います。「肉や骨がない」ということは、言い方を変えれば、捕らえることができないということです。つまり得体の知れないものということでしょう。
 それに対し主イエスは「私の手や足を見なさい。まさしく私だ」と言われます。更に「触ってよく見なさい」とまで言われました。得体の知れない霊に対して、復活の主は、「まさしく私だ」とご自分をはっきりとお示しになるのです。そしてつかみ所のない霊に対して、復活の主は「触ってよく見なさい」と言われるのです。ここで確かめておきたいのは、復活の主は確かな手応えをもった存在であるということです。それは確かめることができる存在であり、しっかりつながることができる存在であるということでもあります。

桜 花言葉は「優美」「誠実」

私たちは、復活の主を実際に見たわけではなく、触ったこともありません。しかしどこかで「確かに、主は生きておられる」という手応えを感じて信仰をしているのです。その確かな手応えがなければ、信仰生活は成立しません。今も生きておられる主が共にいてくださるということを確かめながら、そこに自分の身を置いて生きていくこと、それが信仰生活なのです。
 さて、ここには復活の主イエスが焼いた魚を食べられたという記事が出てきます。この直前の箇所にも復活の主がエマオに向かう二人の弟子たちと歩まれた記事の中で、食事の時に目が開け、主イエスが共におられることが分かったと記されていました。やはり食事の時です。主イエスは「人はパンだけで生きるのではない。神の口から出る一つ一つの言葉によって生きる」と言われ、また「何を食べようかと思いわずらうな」と言われながらも多くの人と食事をされましたし、結果、「大食漢で大酒飲みだ」(ルカ7:34)と悪口を言われたとも書かれています。
 主イエスは確かに食事を大切になさいました。食事とは単に生きるためだけではなく、愛の交わりに与ることでもあったからです。今日、家族でもバラバラに食事をする家庭が多くなったと言われますが、それは本来不自然なことだと思います。やはり誰かが一緒に食卓に座って時間を共有するということが大切なのだと思います。
 食事とは生きるための基本です。食事を共にすることによって、私たちは命を分かち合っていること、自分の命を生かすために他の命と向き合っていることを実感するのです。15年前、東日本大震災でのボランティア派遣の折に、被災者から聞いた言葉を思い起こします。「いっしょにお茶っこして、ご飯を食べてくれる相手がいることがどんなにうれしいことか!」
 この記事は復活の主イエスが弟子たち(私たち)と生活を共にされようとするお方であることを伝えています。しかもこの場面で、復活の主が真っ先に言われた言葉が「あなたがたに平和があるように!」だったことも印象的です。どうでしょう?毎日の食事ごとに私たちが主イエスを感じることができるなら、私たちは生活のすべてを主イエスと分かち合っているという平安に包まれるに違いありません。ですから毎日の食事は、私たちを生かす神さまとの交わりでもあるのです。
 この礼拝の場も主の食卓を囲む場所です。肉の糧だけではなく、霊の糧を主との交わりの中でいただくのが聖餐です。これがあってはじめて、主と共なる私たちの新たな生活が始まるのです。この場所で私たちは復活の主イエスが共に歩んでくださった一週の歩みを感謝し、更に鮮やかに復活の主を確かめる場所となることを願って日常の生活へ送り出されてゆくのです。今、心からの感謝と喜びをもって主の食卓を囲みましょう。

文:真壁 巌 牧師