日本キリスト教団

西千葉教会

人の目や評価よりも

2026年07月

 その時、御前に水腫を患っている人がいた。 イエスは、律法の専門家たちやファリサイ派の人々に言われた。「安息日に病気を治すことは許されているか、いないか。」 彼らは黙っていた。すると、イエスはその人を引き寄せ、病気を癒やしてお帰しになった。

ルカによる福音書 14章2節〜4節

 この日、主イエスは安息日の会堂で説教をなさったのでしょう。そのお礼として食事に招待された。そう考えてよいと思います。安息日というのは、火を起こしたり、食事を作ったりすることが禁じられていましたので、さぞ冷たく、まずい食事を想像するかもしれませんが、違います。安息日の食事は日本の「おせち料理」と重なると思います。その日に作ったものではありませんが、祝いの食事、喜びの食事であって、大変なごちそうでした。きっと安息日の礼拝後、友人や親戚を招いて祝いの昼食を楽しく取るのです。それが、今日のイスラエルにも続いている安息日の食卓のようです。
 主イエスはここで、そんな安息日の食事に招かれました。そこに水腫を患っている人がいたというのです。この水腫がどういう病気なのか、詳しくは判りませんが、体の一部に水が溜まり、見た目にそれと判るものだったのでしょう。主イエスの時代、この病気は不道徳の結果と考えられていたようですから、なぜこの人がファリサイ派の家にいたのかよく判りません。1節に「人々はイエスの様子をうかがっていた」とありますので、安息日にこの人を癒せば律法違反でイエスを追い詰めようと思っていたのかもしれません。主イエスはそんな人々の思いをすぐ読み取ったことでしょう。3節で「安息日に病気を治すことは(律法で)許されているか、いないか」と問われています。そして、この水腫を患っていた人を癒されたのです。
 主イエスは、この水腫を患った人に対する律法の専門家やファリサイ派の人々の愛のなさ、冷たい態度の中に、自分はこの病人よりも上等で、偉いのだという高ぶりの思いを見抜かれたことでしょう。神に従うと言いながら、目の前の水腫を患っている人を見下している人々のあり方に怒りと悲しみを覚えられたはすです。そのうえで神に従うということは謙遜になり、神の前に自分を小さくすることだと教えられたのです。自分を小さくすると何が見えてくるでしょう。小さくされた人が見えてきます。小さくされた人の心の痛み、悩みが見えてきます。そこで、そのような人々との関わり方そのものが変えられるのです。見下すのではなく、隣人を愛し、仕える歩みがそこから始まるのです。

アストロメリア(別名ユリズイセン)
花言葉は「未来へのあこがれ」

 愛の業とは天に宝を積むことでもあります。この章の13~14節に「宴会を催すときには、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。そうすれば、彼らはお返しができないから、あなたは幸いな者となる。正しい人たちが復活するとき、あなたは報われるだろう」とある通り、主イエスはお返しが出来ない人々を、報いを求めず食事に招くようにと言われました。なぜ報いを求めないことを勧められるのでしょう? それに報いてくださるのは神ご自身だからです。
 こんな笑い話があります。「ある金持ちが死んで天国に行った。すると、そこに用意されていたのは、自分の体がやっと入るだけの犬小屋のような家だった。大金持ちは、天使に文句を言います。どうして、自分の家はこんなに小さいのか。すると、天使は悲しそうな顔をして、あなたが天に積んだ宝で作れるのは、この犬小屋が精一杯なのです」と。
 これは笑い話です。私たちは神の国を目指し、人からではなく神からの報いを求めて主イエスが歩まれた愛の道を歩んで行くのです。そんな私たちを周囲の人がどう見ているか気になることもあります。確かに人の目、人の評価が少しも気にならない人はいないでしょう。しかし、人の目や評価よりも神さまの目が注がれ、神さまがどうお感じなっておられるかに心を向けましょう。私たちは皆、すべてを支配しておられる神さまの御手の内にあるのですから。

文:真壁 巌 牧師