愛は多くの罪を覆う
2026年09月
万物の終わりが迫っています。それゆえ、思慮深く振る舞い、身を慎んで、よく祈りなさい。 何よりもまず、互いに心から愛し合いなさい。愛は多くの罪を覆うからです。
ペトロの手紙一 4章7節〜8節
初代教会の人々は基本的に後期ユダヤ教・黙示文学の考え方を受け継いでいたと言われます。その最大の特徴は「終末論」でしょう。それはつまり、歴史は同じことをいつまでも繰り返す「円環」のようなものではなく、確実に始まりと終わりがある一本の線のように終末に向かって直線的に進む、と考えられてきた歴史観です。
すべての人に誕生と死があるように、歴史にも始まりと終末があります。ただ歴史の終末は生物が段々と弱って、やがて息を引き取るという自然のプロセスではありません。むしろ終末は、神が「今こそ、その時だ」と思われる時に、突然来るのです。その時、最後の審判が行われ、主イエスが栄光の座についてすべての国民をその御前に集め、一人ひとりをその生き方に応じて吟味されるのです。
この手紙の著者であるペトロが「万物の終わりが迫っています」(7)と言うのは、終末の審判の時が近づいていることを意味しています。だから、その時がいつ来ても慌てないように、「思慮深く振る舞い、身を慎んで、よく祈りなさい。何よりもまず、互いに心から愛し合いなさい。愛は多くの罪を覆うからです」(冒頭聖句)と勧めているのです。
この箇所を読んで、マタイ25:31以下を思い起こされた方もいるでしょう。終末の時に人の子(主イエス)が栄光の座に着き、すべての民を、「羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に山羊を左に置く」という、あの有名な聖書箇所です。
その時、主イエスは右側にいる人たちに言われます。「さあ、私の父に祝福された人たち、天地創造の時からあなたがたのために用意されている国を受け継ぎなさい。あなたがたは、私が飢えていたときに食べさせ、喉が渇いていたときに飲ませ、よそ者であったときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに世話をし、牢にいたときに訪ねてくれたからだ」(34―36)。しかしそれが何のことか、言われた人たちには思い当たる節がないので質問すると、主はこう答えられます。「よく言っておく。この最も小さな者の一人にしたのは、すなわち、私にしたのである」(40)。それと正反対のことが、左側にいる人たちに対して言われるのです。「この最も小さな者の一人にしなかったのは、すなわち、私にしなかったのである」(45)と
毎日の暮らしの中で出会う人々。その人たちが困っているのを見たら、食べ物や水、あるいは一晩の宿や上に羽織るものを与えるかどうか。あるいは、病床や牢に訪ねて行くかどうか。そのような小さな愛の業を実践したか、しなかったか? 最後の審判のときに問われるのはこのことだというのです。ここで主イエスが問われているのも「どの宗教に属していたか」ということではないかもしれません。この手紙の送り主であるペトロが、終末に備えて「心から愛し合いなさい」、「不平を言わずにもてなし合いなさい」と勧めているのは、それを確かめているからでしょう。
その中でも、特に「愛は多くの罪を覆う」という美しい言葉に心を惹かれます。同じ意味の言葉が箴言10:12にも見られますが、箴言のような知恵文学にも出て来ることを考えると、おそらく昔からどの民族にも流布されていた格言だったのかもしれません。
そしてもちろん、これを最も深く受け止め、教えられたのは主イエスであったでしょう。主は罪人というレッテルを貼られ、肩身の狭い思いをしていた多くの人々に「子よ、あなたの罪は赦された」(マルコ2:5)と告げられ、生きる希望を取り戻されました。 ここに「罪を覆う」という本当の意味が示されています。それは決して罪を隠蔽するという意味ではなく、「めんどりが雛を羽の下に集める」(マタイ23:37)というイメージに近いように思います。
文:真壁 巌 牧師