日本キリスト教団

西千葉教会

死者の復活がなければ

2026年11月

 死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです。 そして、キリストが復活しなかったのなら、私たちの宣教は無駄であり、あなたがたの信仰も無駄になります。

コリントの信徒への手紙一 15章13節〜14節

 もう二〇年以上前のこと、神学校時代に奉仕していた阿佐ヶ谷教会の友人に、惨いとしか言いようのない出来事がありました。おばあ様が入浴中に気を失い、病院へ搬送されましたが間もなく死亡。母親が自宅の風呂場で倒れたとの知らせを受けたお母様はすぐに家を飛び出し、もう少しでおばあ様の家という所で車にはねられ、偶然、おばあ様と同じ病院に運ばれたのですが、亡くなられました。おばあ様の急を聞いて病院にかけつけた友人の父と兄は、いきなりお母様の遺体確認を求められ、言葉を失いました。実に痛ましい出来事です。
 この友人のお母様とおばあ様は教会員ではありませんでしたが、もしこのお二人が西千葉教会員であり、私が葬儀の司式をしなければならいとしたら、ご遺族に聖書をどう語れるだろうか、真剣な問いとなりました。
 そんな思いの中、その葬儀を担当することになった際に読むべき聖書の箇所として選ばせていただいた聖句が冒頭の箇所です。
特に、この後に続く箇所も心に留めていただければと思います。
 「この世にあって、キリストに単なる望みをかけているだけなら、私たちは、すべての人の中で最も哀れな者となります。しかし今や、キリストは死者の中から復活し、眠りに就いた人たちの初穂となられました」(19―20)。
 主イエスの復活という出来事を意地の悪い人たちは、「弟子たちは夢でも見ていたのではないか」、「師を失い、悲しみのあまり一時的に錯乱状態に陥って幻覚を見たのではないか」、更には「要するにこれは創作であろう」との見方をしたのです。なるほど信仰を除外すれば、そういう見方も可能でしょう。本来、主イエスの復活は証明する出来事ではなく、信じる出来事であるわけですから、私たちがそのことに目くじらを立てる必要はありません。

パンジー 花言葉「もの思い」
オレンジのパンジー「楽しい気分」

 しかし、こう考えることもできます。もし主イエスの復活が根も葉もない作り話や単なる幻覚であったとしたら、間違いなく時間と共に消えてしまったはずです。「歴史の審判」という言葉がある通り、真実なものは残り、そうでないものは消えてゆくでしょう。弟子たちが「主はよみがえられた!」「私は復活の主に出会った!」と叫び、その事実を命を懸けて真剣に宣べ伝え、しかもそれが二千年を経た今日においてもなお信じられているというのは、決して創作や幻覚ではない真実であったからにほかなりません。
 主イエスが死なれた時、弟子たちが絶望したのは間違いありません。もう駄目だ、すべてが終わったと感じたことでしょう。そんな絶望的な二日間が過ぎ去った三日目の朝、弟子たちの目が開かれ、主イエスが生きている間だけの師ではなく、死をも克服されたまことの神であることを悟ったのです。
 マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの四福音書すべてが、「十字架から三日目の朝、主の墓にはもはや遺体がなかった」ことを伝えています。一般的に墓は過去の累積であり、将来を期待できない場所でもあります。しかしそこにもはや主はおられず、復活なさったというのです。それは主イエスが今も、これからという将来も私たちと共に生きて働いておられる事実そのものなのです。
 数年前、末期がんを患われた方から病床洗礼の願いを受け、執行したことがあります。まさにその時、信仰生活がこの世における単なる道標ではないことを知らされました。むしろ、信仰生活とは神様が備えてくださる天上での歩みの先取りなのでしょう。
 冒頭で紹介した友人が、お母様とおばあ様の葬儀直後に送信してきたメール文を紹介します。
「考えてみると、母も祖母もお互いが亡くなっていることを知らないわけで、天国で会ってびっくりしているかもしれません。」

文:真壁 巌 牧師