私はジョニーのものだった。

 確か、ハタチになったばかりのときだったと思う。大学でなにをしていても
ため息が出るくらい憂鬱で、退屈で、無気力で、イライラしている毎日だった。
誰と話をしていても本音を言うことができなかったし、本当に自分がやりたい
と思っていたことは何一つできずにいた。
 アパートを出て、ジョニーの部屋に転がり込んでも親には連絡をしなかった。
その時の私は、ジョニーのものになる運命だったのだと本気で思っていたし、
そのことを親に話をしても信じてもらえないことくらいわかっていた。そして
ジョニーが私のために余計な心配をしないよう、私は親にきちんと断ってから
アパートを出て、ここに住むことになったのだと嘘をついていた。もちろん、
そんな私の言葉が嘘だとジョニーは見破っていた。
 
 ジョニーは百九十センチくらいのほっそりとした体格で、ガリガリという程
痩せているわけではなかったけど、中肉というには細すぎた。私はジョニーの
首筋が大好きで、よくシャツから覗く鎖骨の美しさにうっとりしていた。髪は
赤毛に近い黒髪で、肌は少し黒かった。
「どこの国の人なの?」とジョニーに聞いたとき、彼は寂しそうな目をして、
「親が二人とも日系人だから、よくわからない。国籍は日本にある」と言った。
あんまり悲しそうな弱々しい声で答えたから、それ以上ジョニーのことは何も
聞かなかった。
 ジョニーという名前をつけたのは私で、ジョニーの本当の名前は知らない。
出会ったときに「ジョニーって読んでいい?」と聞くと、柔らかに頷いたまま
私の顔をじっと見ていたことをよく覚えている。
 彼は私の身体の中の深い深いところまで届くような低い声をしていて、話し
出す前にじっくりと間を置いた。

 毎日夕方になると、ジョニーは黒いリュックを背負って工業団地へ行く。
 残された私は、夕御飯と朝御飯の支度をしお風呂を掃除してすぐに寝ると、
夜が明ける前に身支度をすましてバイトに行く。私はジョニーのものだから、
ジョニーに負担をかけるわけにはいかない、と思っていた。だから、自分の
生活費はすべて自分で用意したし、ジョニーが困っていたら私のお金をすぐに
渡した。けれど安穏に生きてきた臆病な私は、給料の良い夜間のバイトだけは
することができなくて、明け方のバイトと仕送りと貯金でなんとか毎日を
しのいでいた。
 私はひたすら幸福だった。眩しいくらいに光が差す昼のジョニーの部屋で、
ジョニーは私の名を呼びながらゆっくりと愛撫してくれた。私は彼の髪を触り
身体のあちこちにキスをして、ジョニーが私の中にくるのを待ちながら、彼の
存在を確かめていた。そうやって私たちは睦み合った。ひたすら幸福だった。


 その幸福な日常が崩れたのは、深町くんがジョニーの部屋に入り浸るように
なってからだ。どうして、すぐに彼を追い出さなかったのだろうと今でも思う
ときがある。けれどそうならなかったのは、私がジョニーのものだったからだ。
深町くんは私のように、ジョニーに拾われた。だからジョニーが彼を追い出す
つもりにならなければ私には何もできない。あの日常が戻ってくることはもう
無いだろうと考えていた。



つづく


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 私がはじめてジョニーの姿を見たのは電車の中だ。同じ車両の同じ場所に、
毎日ジョニーが立っていた。私が大学へ行くために降りた駅で、ジョニーも
必ず降りていた。大きなスケッチブックを持って。
 大学のキャンパスでもジョニーの姿があることに気が付いたのは、電車の
中のジョニーを意識しだしてから2週間ぐらいたってからだと思う。大学の
外れに位置する公園を真似した広場。そこのベンチのひとつに、ジョニーが
座ってスケッチブックを開いていた。呆れるくらい、じーっと見ていたその
視線の先には大学の歴史を象徴する、ミュージアムが建っていた。明治時代
に建てられたという、ちっぽけな洋風の家。
 ある朝に、私はここの広場でベンチに座っていた。何もかも投げ出した朝。
気力を失ったこの日。頭の中では前日の授業の言葉が響いていた。
「生き物は皆、役割を持って生きている」
 このとき私は学ぶ意欲を失ってしまった。楽しいと思っていたはずの大学
生活は色あせて、友だと思っていた人は薄っぺらに見えた。
 私は今まで何一つ、進路を自分で決めたことの無い子供だった。
 親の言うとおりに生きてきた私に、どんな役割があるのだろう?


 ふと、スケッチブックを持ったジョニーが缶コーヒーを持って、私の前に
現れた。「いつも同じ電車に乗っていますよね」と懐かしい低い声を出した。
「思いつめた顔をしているのはよくない。これでも飲んで、休んだ方が体の
ためになりますよ」
 そっと私の横に右手の缶を置くと、左手に持っていた缶のプルタブを上げ
ごくごくと飲みだした。
 私はそのあまりにも自然な姿に見惚れていた。
 何故だかひどくほっとして、警戒心も抱かなかった。

「いつも何を描いているのですか?」
 お礼を言うのもすっかり忘れてジョニーに聞いた。彼は優しく笑い「あの
懐かしい建物を」と言いミュージアムを指差した。
 大学の関係者でもなく、ミュージアムに思い出があるわけでもなく、ただ
懐かしいと感じた小さな小屋がジョニーは好きだったのだ。
 私もそうだった。電車で顔を合わせるだけだったけど、ジョニーに興味を
持っていた。この日、私たちはお互いに懐かしい想いを抱いていた。
 たぶん深町くんも、こんな風にジョニーに拾われたのだろう。ジョニーは
磁石だった。迷った人を見つけて吸いつけてしまう。もしかしたら、彼自身
そういう迷いを持っていたのかもしれない。けれど、あのときの私はそれに
触れるどころか見つけることもできなかった。

 深町くんが加わっても、ジョニーと私の暮らしは変わらなかった。ただ、
私が部屋に戻ったら深町くんが必ずいて、ジョニーが出かけるときには私と
深町くんが部屋に残された。それだけだ。昼間の幸福な瞬間が消えたのも、
私とジョニーが一緒に大学に行かなくなったのも当然のことだろう。
 ひとりになると深町くんはひどく寂しがった。だからジョニーはなるべく
彼のそばにいるようになり、私にもできるだけ相手をしてやるよう言った。
深町くんは何一つ話さなかったけど、私より年下であろうことはなんとなく
わかっていた。
 私たちは仲良く暮らしていた。順調だった。表面上は。



つづく


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 ジョニーがはじめて私を描きたい、と言ったのは私が部屋を出て行こうと
決めた夜のことだった。初冬を過ぎて、部屋の空気がひんやりとしていた。
ベランダの近くにイスを置いて腰掛けた。私があげた新品の油絵の具を嬉し
そうに使いながら、ジョニーはひたすら筆を進めた。何日も何日も、時間が
許す限りずっと。
 そのとき深町くんの姿はもう無かった。出て行ったのだ。蒸し暑さが残る、
秋の夜に。


「友香さんはさ、ジョニーのなんなの?」
 それは突然のことだった。

 ユカサンハサ、ジョニーノナンナノ?

 部屋は静かだった。夕飯の余韻も消えて、時間がなんとなく過ぎていく。
つまらないテレビは黙っていて、窓の外から季節の始まりを告げる虫の声が
うっすらと聞こえていた。
 壁に背をつけて座っていた深町くんが、コタツテーブルにもたれかかって
紅茶を飲んでいた私に問いかけた。 
 ユカサンハサ、ジョニーノナンナノ?
 私はその言葉を無防備に受け入れてしまった。慎重に答えるべきだった。
今の生活を壊さないように、刺激を与えないように、身構えてそれを受ける
べきだったのに。その時は頭が真っ白になるくらい衝撃を受けて、無防備に
答えることしかできなかったのだ。だからこう言うのが精一杯だった。

「……なんでもないわ」
「結婚してる感じじゃないもんな。なんで一緒に住んでんの?」
「私はジョニーのものだから」
「……なんだよそれ」
 ぶっきらぼうに言い捨てた深町くんが、見たことの無い真剣な表情で私を
見ているのがわかっていた。目を合わせることができなかった。
 とっさにテレビをつけて紛らわそうとしたが、深町くんがリモコンを握り
しめていて、それをすることができなかった。彼は本気だった。仕方なく、
彼の相手をすることにして紅茶をひと口飲んだ。落ち着かなくてはいけない。

「ジョニーは私のものじゃないけど、私はジョニーのものなの。だから傍に
いるの。一緒に住んでるの」
「全然わかんない」深町くんはなおも私を揺さぶった。「そんなの変だよ。
友香さんは、俺みたいにジョニーと会っただけなんだろ」
「それで、そっちもジョニーの部屋に来たんでしょ。私も同じよ」
「違うよ。俺は俺の意思でここに泊まってるけど……友香さんはなんか違う。
よくわかんないけど、ここにいても幸せになれないよ。ジョニーは、いい人
だけどさ」
「やめて」

 ここでようやく私は彼の顔を見ることが出来た。深町くんは、部屋に来た
ときのような迷った弱い顔をしていなかった。
「私は私の意志でジョニーのものになったの! だから同じよ」
「……ジョニーは、でも、友香さんを自分のものだとは思ってないと思う」
「やめてよ」
「俺、友香さんが好きなんだ」
「やめて!」
「ジョニーの傍にいる友香さんは、すごく痛々しいよ」
「やめて!!」
 痛いところから涙が滲んできて、声が枯れてきた。身体が涙を止めるのに
必死だった。胸が痛くてそれ以上何も言えなくなってしまった。 
 ジョニーには昨日言ってたんだけど、と深町くんが続けた。俺、今日家に
帰ることにしたんだ。けど友香さんに会いにまた来るよ。きっと俺の言葉を
わかってくれてると思うから。俺、頑張るから。
 私は体の外でそれを聞いていた。深町くんは部屋に来たときに持っていた
カバンを背負って、部屋から出て行った。ドアがバタンと閉まった。
 まだ深町くんは私に会いに来ていない。


「もう少し、顔を上に上げて」
 絵のモデルをしていた私にジョニーが声をかける。ハッとして、窓の外の
冷たい塀をあわてて見つめ直す。このアパートに来て4ヶ月がたっていた。
深町くんがいたのはその中の1ヶ月だ。そんなことをぐるぐると考えていた。
 私は決心していた。絵が完成したら、部屋を出て行こう、と。



つづく


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 新幹線の中は息苦しい。知らない人との距離が近すぎて憂鬱だ。ついに、
私は乗ってしまった。この動く密室に。故郷へと行く列車に。常に私を縛り
つけている両親の待つ更科へ向かう。私がジョニーのものになるために。
 更科は今、冬の寒さで凍えているだろう。雪が積もっているかもしれない。
ジョニーのいない真っ白な恐怖に、耐えられるだろうか。何も見えないあの
白銀の世界は、いつでも私をひとりぼっちにする。

 できた、と呟いて、ジョニーは筆を置いた。ジョニーが描いた私は、ルノ
ワールの描く少女のようにふっくらと、けれど鮮やかな色彩でイスに座って
いた。油絵の独特の匂いがつんとくる。
「印象派みたいね」と私が言うと「僕の印象がこもっているからね」と笑い
髪をなでてくれた。私はそのまま「一度家に帰るわ」と告げた。
 深町くんに言われてずっと考えていた。私が何をすべきか。ジョニーと、
どうすればいいのか。
 けれどその答えを出すために、まずは両親と話し合わなければいけない。
親のために行っていた大学もずいぶんと休んでいた。そこを卒業したあとの
ことも決まっていたけれど、もう行く気はしなかった。
「ユカ。僕のことで両親と喧嘩をしないでほしい」
とても悲しそうな目で、ジョニーは言った。私は彼の目を見つめ「喧嘩では
ないわ。話し合うのよ、私とあなたのために。この先あなたのために生きて
いくには必要なことなの」と答えた。ジョニーは悲しそうな目をしていた。
「ユカには、幸せになってもらいたい。僕なんかの元にいてはダメだ」
「私はジョニーのものでいることが幸せなのよ」
 額にキスをすると、ジョニーは静かに泣いていた。

 
 父に頬を叩かれたのは久しぶりだった。連絡を絶っていた両親は、ひどく
歳をとっていて、頬の痛みは子供の頃より少なかった。
 私は怯まなかった。何度否定されても、ジョニーのものになりたいのだと
突っ張った。母はずっと泣いていた。何時間もそんなことが繰り返された。
やがて怒っている父にも疲れの色が見えはじめて、決着をつけないまま朝を
迎えることになった。
 住んでいた頃と変わらない私の部屋のベットで、私は泣いた。叩かれた頬
の痛みより、ジョニーのいない場所で眠る寂しさの方が私の胸を締め付けた。
ジョニーの声が聞きたかった。安心する懐かしいジョニーの声で「ユカ」と
呼んでもらいたかった。慣れていたはずのベットなのに、ちっとも寝付ける
ことができないで朝になってしまった。
 
 覚悟を決めてリビングに行くと、警察の人が来ていた。
 そして私はジョニーが自殺したことを知った。
 第一発見者は深町くんだった。夕方になってもいつもの工場へ来なかった
ジョニーを職場の人が心配してアパートへ行くと、深町くんがそこにいた。
事情を聞いた深町くんが変に思って、閉まっていた部屋のドアをこじ開けて
中に入ると、包丁で自分を刺したジョニーが風呂場に倒れていた。
 ジョニーと最後に会った人間として、警察に事情聴取を受けたあと、私は
すぐにアパートへ向かった。ジョニーに身内がいなかったので、私がすべて
部屋の整理をすることになった。私がジョニーと過ごした4ヶ月は、業者に
頼むとあっけなく片付いてしまった。深町くんが心配して、ずっと私の傍に
いてくれたけれど、私は彼に涙を見せまいと踏ん張った。私たちはひっそり
とジョニーの葬式をした。
「友香さん、大丈夫?」と駅の改札前で、深町くんが別れ際に言った。
 私は絶望的にうなずいた。
 それ以降、深町くんとは会っていない。


 私は両親ともジョニーとも関わりの無い、見知らぬ街で生活をはじめた。
 工場の派遣社員の仕事は思ったよりも忙しく、私を無心にしてくれた。夜
ジョニーが恋しくて泣くこともあったけれど、どうしようもなかった。眠れない
夜が続いた。いつもジョニーの絵を見て自分を慰めた。
 日曜日になると、私は繁華街のはずれにある小さなミュージアムへ行く。
そこの広場のベンチで絵を描いていたおじいさんに缶コーヒーをあげたら、
とてもいい友達になってくれた。そして、おじいさんに習って私も絵を描き
始めた。
 あれから何年も経ったけれど、私はジョニーのことを忘れていない。彼の
懐かしい声や、寂しそうな目、温かい涙と細い腕。狭い部屋、何冊も重なる
スケッチブックの山、明るい日差し、懐かしいジョニーの声。 
 
 ハタチになったばかりの私。あのころ、私はジョニーのものだった。




END





ブログでこんなのを長々とやった挙句、クソオチですいませんでした。
ジョニーという題材でなんか書いてみたかっただけでした。




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