今日の意見
2005年2月

   2005年2月28日

    「行政書士ドメイン・メール」

 日行連の、旧認証局が発行した電子証明書を取得していた人には、”○○○@gyosei.or.jp” というメールアカウントが無償交付されていたのですが、その措置が今年の4月1日で終了になります。

 このアドレスについて、引き続き利用したいという希望者には、有償でこのアドレスを継続利用できる新しいサービスに移行すると昨年末頃にアナウンスされていました。

 とりあえず、継続利用の仮申し込みをしていたのですが、一昨日、有限会社 行団から新サービスの案内と申込書がとどきました。

 それによりますと、新サービスでは、メールアカウントだけでなく、ホームページを公開するWebスペースとセットにしたものになります。新しいメールサービスには、スパンメール対策とウィルス対策が基本サービスとして提供されます。この点、現在のメールアカウントに、毎日毎日、数通のウィルスメールと、数十通のスパンメールが届いている私にとっては、非常に喜ばしいことです。

 Webスペースは150MBで、CGIやPHP、SSIも利用可能です。URLは、”http://www.○○○.gyosei.or.jp” となるそうです。(”○○○”の部分は、メールアカウントと同様のアカウント名。)

 このサービス(メールおよびWebサービス)の使用目的は、業務用メールおよび事務所用ホームページに限定されます。これで、年額9,900円(税込み)だそうです。

 さて、既に独自ドメインでホームページやメールアカウントを持ってる人にとって、このサービス、高いのか安いのか。できれば、メールアカウントだけでいいので、もっと低額で提供してくれたらよかったのですが。

                                      行政書士 寺見敬三



   2005年2月27日

    「ライブドア対フジテレビ」

 このところ、「ライブドア」とか「ニッポン放送」とか「フジテレビ」などの会社名が毎日、新聞紙上に踊っている。

 企業買収というのが、実際はどういうふうに行なわれるのかを、「観客」にもわかりやすく演じてくれているようで、(無責任なようだが)興味を多いにそそられてしまう。ここ数日は、本当に毎日新聞を見るのが楽しみだ。

 「ライブドア」は、ここ3年余りの期間に30件以上の会社買収劇を通じてのしあがってきた会社。小なりと言えども、「企業買収」にかけては「猛者」というべきでしょう。

 一方、「ニッポン放送」や「フジサンケイグループ」は、言わば日本の企業にあっては押しも押されぬ大企業。にもかかわらず、「ニッポン放送」という資本関係が脆弱なところを一方的に攻めたてられている。

 「ニッポン放送」は、「フジテレビ」を相手とする新株予約権の発行を決め、それによって、「ライブドア」が買いあさった「ニッポン放送」株の比率を一気に下げて「ライブドア」の牙から逃れようとしている。

 これに対して、「ライブドア」は、その新株予約権の発行差止めの仮処分の申請に踏み切って、場面は司法判断に委ねられることになった。

 「ライブドア」が一方的に攻めまくった第一ラウンドが終わって、司法の場で第二ラウンドが始まることになる。

 ただ、闘いのすべての場面が司法の場に移ってしまうわけではない。

 闘いを仕掛けた「ライブドア」側も、多くのリスクをかかえたままだ。

 「フジサンケイグループ」が、その巨大な資本力、組織力、政治力をどのように集中させて、「ライブドア」に逆襲するか、それもまたじっと見てみたい。

                                      行政書士 八尾信一


   2005年2月26日

    「日本最後の内乱=「西南戦争」は2月に・・・(最終回)」

 9月24日、夜明けとともに政府軍の大砲がとどろきわたり、一斉攻撃が開始された。

 政府軍により選抜された1,500名からなる精鋭たちの攻撃はすさまじく、西郷軍はほとんど抵抗らしい抵抗もない間に射殺されたり、自刃をとげたりした。

 西郷もまた、被弾したあと、別府晋介の介錯によって自刃した。

 政府軍の攻撃は、午前7時過ぎには、ほとんど終わっていたと伝えられている。

 西郷の死後、もはや政府を武力で打倒しようとする動きは消えた。西郷とともに下野した多くの者たちは、各地の士族の反乱等の中で死に絶えたし、唯一生き残った板垣退助は、このあと「自由民権運動」に傾倒していく。

 西郷隆盛は、その毀誉褒貶の激しい人である。かつて、彼は、「維新の英雄」だった。それが、西南戦争の後は一切の官位を剥奪され「薩賊の頭首」となり、そしてまた、いわゆる「軍国主義者」たちによっては「国民的英雄」にまつりあげられていく。

 思えば西郷とは、そのように、「人に利用されやすい人」であったのかもしれない。

 ただ、すぐれた評論家であるはずの江藤 淳が、『南洲残影』の中で、西郷決起に関して「・・・人間には、最初から『無謀』とわかっていても、やはりやらなければならないことがある・・・」と書いていたのには、失笑させられた。

 江藤 淳にしても、苦し紛れにそう表現するしかない決起だったのかと、いささか暗然たる思いになったものである。

 西郷の死後、「西郷星」が出る、という噂が広がった・・・と当時の新聞にはあるそうだ。「毎夜2時ころ、南東の方角に赤色の星が現れ、望遠鏡で見ると、西郷が陸軍大将の官服を着ているのが見える・・・」とか。

 さてさて、西郷ドン、もう官服はお召しではないと思うが・・・(笑)

                                      行政書士 八尾信一



   2005年2月25日

    「放送大学のインターネット出願と”e-Tax”」

 ここ3年ほど、放送大学を利用しています。これは、受講したい科目があるとか、単位が必要というようなまっとうな事情からではなく、学習センターが設置された大学の、図書館などの施設を学生として利用できるというのが理由です。

 その放送大学、この時期になると、翌年度分の出願をしなければならないのですが、毎年、ぎりぎりになってしまいます。

 今年も、郵送の場合2月28日必着となっているのに、昨日の段階で、何も準備していませんでした。郵送だと締め切りに間に合わない可能性もあり、結局、インターネット出願しました。

 これまでも、最後まで迷った上げく、結局、インターネットで出願してきています。最初はインターネット出願は若干抵抗を感じるのですが、やってみると紙による出願よりも、よほど簡単で、すぐに手続を終えることができます。ただ、毎年、郵送でしようかと迷うのは、やはり紙ベースの手続に慣れているからでしょうか。

 この時期に締め切りを迎えるものとして、確定申告もあります。これも毎年ぎりぎりにならないと片付かないのですが、今年も、まだ手付かずの状態です。ただ、これまでと若干事情が異なるのは、”e-Tax”の利用を申し込んであることです。これまでどおり紙ベースでやるか、電子申告するか、選択できます。さて、最終的にどちらで申告することになるでしょうか。

                                      行政書士 寺見敬三



   2005年2月24日

    「日本最後の内乱=「西南戦争」は2月に・・・(9)」

 3月20日に田原坂での戦闘に敗れた薩軍は、熊本城の攻囲戦においても敗れる。

 3月8日には、政府軍は黒田清輝らによって海軍軍艦9隻が西郷が去った鹿児島に入り、当時の鹿児島県令の大山を逮捕していたのであるが、そのまま熊本に軍艦を進めて、3月19日に熊本上陸、4月15日には、熊本城を攻囲していた薩軍の攻囲を解き、熊本鎮台籠城軍との連絡に成功する。

 このあと薩軍は、人吉、延岡と後退戦を続けながら敗走の一途を辿る。

 当時、薩軍の兵力は約3,000くらいにまで減少してしまっていたのだが、8月15日、延岡での闘いに敗れた薩軍は、軍を解散する。

 西郷は、この日、陸軍大将の制服をはじめ重要書類を焼き、負傷した長男の菊次郎には従者をつけて降伏するよう指示し、部隊の解散を命ずるのである。

 この日、多数の薩軍兵士は政府軍に降伏する。

 西郷の周囲に残ったのは、約600余であったと伝えられている。

 西郷周辺に残った部隊の進軍先は、鹿児島であった。部隊解散から山野に戦闘を交えながらの半月、西郷軍は9月1日、出発点であった鹿児島に戻ったのである。

 西郷軍は城山にこもり、政府軍はこれを完全に包囲する、その布陣が完成したのは、9月6日である。西郷軍は糧食・弾薬ともに底をつき、逃亡する者も多く、このとき総勢約350。そのうち銃を持つ者は、150人程度でしかなかった。

 政府軍は、総攻撃を9月24日と定めた。

 いよいよ、最後の時が迫って来るのである。

                                      行政書士 八尾信一



   2005年2月23日

    ◎新・グループウェアを使う:その7 「伝言メモ」

 ”ビジネスgoo”を使ってみて、とても面白いなと思ったのが、この「伝言メモ」。これは、携帯電話のメールアドレスへの配信を前提にした、伝言システムです。

 グループ内で、伝言したい相手を簡単に複数選べますし、伝言の配信方法も、パソコンメールと携帯電話メールのどちらでも指定できます。もちろん、双方に配信することもできますし、Web上のグループウェア画面上だけに表示して、メール配信しないという選択もできます。

 これが、携帯電話メールに配信した場合に便利なのは、伝言の中にあるメールアドレスを指定して、すぐにメールを送れるというのは、パソコンメールでも同じことですが、携帯電話メールに電話番号が含まれている場合、それを指定して直接発信できるのです。

 これは、出先のメンバーに、取引先の○○さんが電話してきたというような用件で伝言を配信する場合、その本文に相手先の電話番号を含めておけば、メモをとったり、番号を押したりしなくとも、直接携帯電話から相手先に発信できるわけです。

 グループ内の任意のメンバーを選んで伝言を配信することも当然できますから、いろんな使い道があるでしょう。

                                      行政書士 寺見敬三



   2005年2月22日

    「日本最後の内乱=「西南戦争」は2月に・・・(8)」

 決起した薩軍の弱点は、すでに当時のマスコミ(新聞)にも見え見えの状態でした。3月6日付けの『東京日日新聞』には、次のような記事があります。

 「此等(薩軍)は只一目散に鹿児島を飛び出し、後陣の用意も無ければ本国への通路の保護もせず、猪の荒れ出したる如く、後をも顧みずして猛進したれば・・・・一時は剽悍なるべけれど、追い追い弾薬は尽きる・・・(後略)」

 薩軍の記録によれば、薩軍の軍資金は鹿児島進発のとき、当時のお金で25万円がやっとだったようです。(全過程では、約70万円)それに対して、政府軍は、当然国家予算をもってこれにあてていますから、開戦時だけでも1,500万円あったそうです。

 軍資金のことからみても、これは、独力ではやっと30日戦えるかどうかの準備しかなかったことがわかります。

 こうした事実からわかることは、この決起は30日以内でことを終わらせるか、あるいは、早急に他の決起と結合する以外に成功の道がなかったことは明かです。

 西郷には、決起の勝算はなかったと思われます。

 西郷が、各地の不平士族の反乱に期待を寄せていたであろうことは想像できます。しかし、「自然に」決起と決起が結合し、合力して「政府打倒」という政治目的に向かうはずもないことなどは、明治維新をくぐりぬけた西郷にはよくわかっていたことだろうと思います。

 考えれば考えるほど、この決起は「謎」だらけなのです。

                                      行政書士 八尾信一



   2005年2月21日

    「日本最後の内乱=「西南戦争」は2月に・・・(7)」

 2月15日から17日にかけて進発した薩軍は、約13,000人と言われています。(最大時は、30,000人)

 時の政府が最も怖れたことは、「西郷決起」によって全国各地の新政府に不満の者たちが、一斉に決起することでした。

 逆に西郷たちから見れば、この決起の帰趨を決めるものは、自分たちの決起に呼応するかたちで各地に数多くの決起を促し、いかにそれと結合することができるかという点にかかっていたと言えます。

 『西南記伝』が伝えているように、上策は、全軍すみやかに長崎に突入し、政府の軍艦を奪取(薩軍は、海軍力がゼロだった)、軍を二分して一隊は大阪に突入し、神戸を策源地とし、もう一隊は東京に突入し、横浜を策源地として国内を制圧する、というものでした。

 また、上策がとれずとも次策としては、熊本城を少数の兵にて牽制し、主力軍は博多、小倉を制圧し、下関を策源地として一隊は大阪を押え、一隊は土佐を押えて、天下の形勢が薩軍有利な状況を作り出す・・・というものでした。

 しかし、薩軍は、上のどちらの策も用いず、その全軍をあげて熊本城の攻囲戦に没頭します。2月22日から、攻囲戦が開始されますが、同日、すでに政府軍の主力が博多に上陸しています。有栖川宮親王を征討総督とする当時の明治政府の常備軍の全力に近い戦力でした。

 薩軍の総攻撃にもかかわらず、わずか4,000人で守っていた熊本城は落ちません。23日には、乃木率いる小倉十四連隊が薩軍との遭遇戦となります。

 2月下旬には、政府軍主力と薩軍の闘いが始まりますが、薩軍の北上は阻まれてしまいます。

 3月4日からは、かの有名な「田原坂」の激戦が始まりますが、同20日には薩軍は「田原坂」で敗戦。これより、薩軍の後退が始まります。

                                      行政書士 八尾信一



   2005年2月20日

    全国の天気予報

 テレビの全国各地の天気予報は日本列島の南から
 紹介していくことが多かった。
 最近は、以前とは違い北から紹介している方が多い
 ように思える。

 デジタル式に考えると、自分のスポットだけ分かれば
 いいことなので、どちらでもいいように思えるが、
 日本の天気が西から変わっていることを考えると、
 南(西)から紹介していくのが自然だと思える。

 やはり私はアナログ的人間かな。


    2月は速い

 2月も半ばが来たと思っていたら、もう二十日になった。
 あと1週間で3月です。
 ところで今年の杉花粉は例年の何十倍とか百倍とかいわれています。
 花粉症の人には全く暗い季節です。

 ところで見方を変えると、杉はなぜ今年必死に花粉を飛ばして
 子孫を残さなくてはならないか?ですよね。

 針葉樹は涼しい気温を好むのだが、その辺りに原因が、
 つまり地球の温暖化が影響しているのだろうか?

 杉花粉が世界的な傾向ならただ(?)の「温暖化」なのですが、
 日本だけの現象ならばちょっと気持ち悪いですね。

 杉の専門家は、温暖化の上に、杉の植林が行われているが、
 間伐の管理を十分にしていないので、数十年で杉が寿命を迎え、
 そのため今子孫を残そうと必死に大量に花粉をまき散らしている
 のだという。

 これだけだと、もう一つ説明が足りないように思える。
 この説明だと、絶滅し掛かっている種が、必死で子孫を残そうと
 するのであれば、絶滅種はないことになるが。

 大量花粉は杉からのメッセージだと考えてみると、色々見えてくるものがある。
 (1)杉が日本人に攻撃を仕掛けている。
 (2)杉が自然環境に対する危機を訴えようとしている。
 (3)暑い本州、四国、九州にいたたまれなくなって、花粉を使って
   大移動しようとしている。
 (4)宇宙からの放射線を花粉を使って防ごうとしている。
 (5)ここからはあなたの想像力次第。

                                      行政書士 妹尾芳徳



   2005年2月19日

    「日本最後の内乱=「西南戦争」は2月に・・・(6)」

 「留守政府」を預かった西郷 隆盛たちには、「外遊」に出て行ってしまった者たちとの間に、12ケ条からなる「約定書」が残されていました。

 「約定書」の要点は、要するに、「廃藩置県の後始末以外のことは、(外遊組が帰って来るまで)何もするな」ということでした。

 しかし、西郷 隆盛は、次々と画期的な政策を断行します。

 明治三大改革と言われる、「徴兵令」、「地租改正」、「学制」の改革はすべて、西郷隆盛らの「留守政府」が行なったものでした。

 「外遊組」がいない間に、西郷たちは着々と新政権の基盤を作っていきますが、明治6年の夏頃から問題となっていたのは、対朝鮮とのことでした。

 明治新政権発足後は、朝鮮との国交は樹立しておらず、その「外交・貿易」関係樹立のための交渉において、朝鮮に「非礼」があったから、これを討つべし・・・という、所謂「征韓論」がそれでした。

 人口に膾炙したところによれば、西郷は「征韓論」を主張したが、帰国した大久保らは、「内政の充実こそ優先すべき」であるとして、これを退けたため、西郷は下野し鹿児島に帰郷してしまいます。それを追って、のちに西南戦争の薩軍の幹部として西郷とその死生をともにする桐野 利秋、篠原 国幹 村田 新八ら旧薩摩藩出身の約600名も集団辞職して鹿児島に帰郷します。

 実は、この明治6年の政変こそ、4年後の「西南戦争」に至る大きな岐路であったと言えます。

 実は、この「征韓論」をめぐる政変は、「政策論争」ではなかったような気がします。

 西郷に反対し、「内政の充実こそ優先」をと唱えた大久保が、西郷たちが去ったあとすぐに、台湾に出兵(明治7年5月に3,600名の出兵)をしたり、江華島事件(明治8年5月・日本軍艦3隻が予告なく釜山港に入港、湾内で大砲の射撃訓練を行なうなどをした。9月には、日本軍艦が朝鮮沿岸の測量を行なうなどしたため、朝鮮が発砲。それを、口実として日本は軍艦6隻を派遣、朝鮮と「日朝修好条規」を締結させた。)を起こしているところから見れば、とても「内政充実優先」とは言えないようです。

 また、西郷も西郷で、その「征韓論」の本音がどんなところにあったのか、わかりません。

 いずれにしても、ともに明治維新を担った者たちがここで完全にその袂を分かってしまったのですね。

                                      行政書士 八尾信一



   2005年2月18日

    ◎新・グループウェアを使う:その6 「タスク管理」

 ひとつのプロジェクトというのは、その中にいくつものタスクがありそれらが複雑に絡み合い連携しながら全体のプロセスが処理されていきます。

 ”ビジネスgoo”の場合、プロジェクトそれぞれに、新規のタスクを複数登録できるようになっており、その担当者、進捗状況などを直感的に把握できるようになっています。

 ただ、シンプルなつくりですから、タスクごとの依存関係やそこに投入できる様々な資源についての管理まではできません。このあたり、プロジェクト管理専用ソフトである ”MicroSoft Project” などに比べると、極めてシンプルなつくりですが、操作方法などとても簡単ですぐに使いこなせて、しかも、よほど大規模なプロジェクトでもないかぎり、必要にして十分な機能を提供してくれています。

 プロジェクトもタスクも、リーダーと担当者というような形で、その情報にアクセスできる権限をコントロールできますから、共同作業を進めるうえでも、便利な作りになっています。

                                      行政書士 寺見敬三



   2005年2月17日

    「日本最後の内乱=「西南戦争」は2月に・・・(5)」

 明治4年の初頭、中央に復帰した西郷が最初に行なったことは、薩・長・土の藩兵から約10,000名を徴収し、「御親兵」を創設することでした。

 これは、明治政府直属の常備軍の創設で、これによって明治政府の政権基盤は格段に強化されました。

 そして、この「軍事力」を背景に断行されたのが、「廃藩置県」でした。この「廃藩置県」は、「第二の維新」ともいうべき大改革で、明治政府自身も決して楽な改革ではないと覚悟をしていたようです。

 この頃は、不作などの影響もあって、日本全国で一揆や、政府要人の暗殺などが頻発していました。一揆の数は、実は、江戸時代よりも増え、禄を失った不平士族は全国に充満し、政府は転覆の危機にあったといいます。

 西郷を迎えた明治政府は、これらの反政府活動を一挙に潰しにかかります。「安政の大獄」を上回るような投獄・処刑が行なわれたのもこの頃でした。

 明治政府は、ここで一気に「廃藩置県」を断行し、中央集権体制の構築を急ぎます。「廃藩置県」の詔勅が発せられたのは、明治4年7月のことでした。

 ところが、ここになって「大変なこと」が起きます。

 いまなら、とても常識では考えられないことですが、何と、こうした国内の騒乱一歩手前の重大な時期に、政府の首脳及びその周辺の50人程度が、一挙に「外遊」に出てしまうというのです。

 岩倉欧米使節団が、それです。

 岩倉 具視、大久保 利通、木戸 孝允、伊藤 博文などを中心に高級官僚など約50名が、何と1年10ケ月間も「外遊」するのです。

 新政権発足後、まる4年も経たない間に新政府の中枢が1年10ケ月、本国からいなくなるなどということは、一種の「逃亡」にすら近いことですね。

 使節団は、新政権の運用や制度について西洋に勉強に行くということを大きな目的にしていましたが、それならば、自分たちは「維新後」のことに関してどんな青写真もないまま「維新」を行なってしまったことを正直に告白してしまったようなものですね。

 そして、「留守政府」に残ったのは、西郷 隆盛、板垣 退助、江藤 新平などでした・・・

                                      行政書士 八尾信一



   2005年2月16日

    光が暖かく感じるようになってきました。

 新年が来て1ヶ月半が過ぎて行きました。
 夕方の時間が長くなったと感じられ、日の光が
 まぶしくなりかけているようです。

 春の光がもう間近ですね。

 昨年の12月から地区の民生委員・児童委員の仕事をやっています。

 本人は毎日行政書士の仕事をやっているようでも、
 近所の人が見たら、昼間からブラブラしているように
 しか見えないので、それで民生委員になってしまった
 のだと思います、きっと。

 今までは新任研修など、スタートの暖機運転でした。
 昨日はまた古市倉敷市長から「在宅介護・・・・協力員」の
 委嘱状が届きました。
 3月からは、いよいよ日程が混んできました。
 連日予定があるときが続くようになってきて、いよいよ
 本格的な仕事が始まったようです。

 人のために働くと言うことは、大変なことだと今更ながら
 身に染みてきます。
 というのも、自分のことは何事も、しっかりとやり遂げていなければ、
 人のために動くことは出来ない気がするのです。

 ちぐはぐな民生委員だなと、自分で思うのでした。

                                      行政書士 妹尾芳徳



   2005年2月15日

    「日本最後の内乱=「西南戦争」は2月に・・・(4)」

 明治10年2月の西郷挙兵は、どう考えても「謎」です。

 7ケ月にわたる「西南戦争」は、薩軍の全滅に近い大敗で終わりました。

 西郷は、戊辰戦争においては政府軍の征討大総督府参謀として軍事における事実上の最高責任者の地位にありました。また当時の明治政府では、「陸軍大将」といえば、西郷唯一人であり、まさに軍人としての最高位にもいたのです。

 それが・・・個々の戦闘はともかく、戦争全体としてみれば、実に拙劣きわまりない「負け方」をしてしまったのが、「西南戦争」でありました。

 「謎」は、「西南戦争」にだけあるのではありません。よくよく考えてみると、西郷隆盛その人が「巨大な謎」でもあるのです。

 いま人々は、上野の西郷隆盛の犬を連れた銅像や、「肖像画」と称されているものから、小太りで目玉の大きな風貌の男を西郷隆盛と思っています。

 しかし、実は、これが西郷の写真とか肖像画と確認されているものは一枚も発見されてはいないのです。近藤 勇や土方 歳三の写真はあっても、西郷の写真(肖像画)は、一枚も確認されていないのです。

 話を、もとに戻して・・・

 「維新の三傑」と称えられる西郷ですが、彼は、明治元年の秋には、政府の中にはいませんでした。

 勝 海舟と江戸城無血開城の談判をし、6月、上野で彰義隊を打ち破ったあたりで、その後、西郷は次第に明治政府からは遠ざかり、同10月、征討大総督府参謀の職を解かれ、無冠となった彼は鹿児島に帰郷してしまいます。

 西郷が、もう一度歴史の舞台に戻って来るのは、明治4年の1月です。

                                      行政書士 八尾信一



   2005年2月14日

    ◎新・グループウェアを使う:その5 「プロジェクト管理」

 ”ビジネスgoo”では、プロジェクトが、ユーザの権限と連動させる形で管理されています。まず、そのグループ全体の管理者のみが利用できる「アドミニ」という名称のメニューから、設定項目「プロジェクト管理」を選ぶと、3つのサブメニューが現れます。そのうち、「作成権限」を選び、新規プロジェクトを作成する権限を持つメンバーを設定します。

 これは、必要に応じて、全てのメンバーを新規プロジェクト作成権限者することも、一部のメンバーに限定することも可能です。プロジェクトごとに、そのデータを編集できる「リーダー」というのが別途設定できますから、全メンバーを作成権限者にしておいても、問題ないでしょう。

 メインメニュー上に、「プロジェクト管理」というアイコンがあり、これをクリックすると、プロジェクトの画面になります。現在進行中のプロジェクト一覧が表示されるしかけですが、この一覧の下に、上記の新規プロジェクト作成権限を与えられたメンバーには、「新規プロジェクト作成」ボタンが表示されます。作成権限を与えられていないメンバーには、このボタンは表示されません。

 新規プロジェクトを作成する場合、プロジェクト名とリーダーは必須ですが、それ以外の設定項目(開始日、締切日、メンバー、メモなど)の入力は任意です。それ以外に、重要度は3段階に、通知は、リーダーおよびメンバーに行うかどうかを指定可能です。

 通知を有効にしておくと、新しくプロジェクトが登録されたり、その内容が更新された場合に、メールが配信されます。

 新規プロジェクトの登録が終わると、タスクの登録という作業に移ります。

                                      行政書士 寺見敬三



   2005年2月13日

    「日本最後の内乱=「西南戦争」は2月に・・・(3)」

 前回、西南戦争は「戦争目的がわからない戦争」であるということを書きました。鹿児島進発のときに、西郷の名で熊本鎮台司令官にあてた文書からすれば、これほど奇妙な旗揚げはない、としか言いようがない。

 「政府に問い糾したいことがある。一緒に来ている者たちは、それに随行しているのだ・・・」というのである。3万人余の武装した部隊の「随行」とは!

 (この文書には、「陸軍大将西郷隆盛」とあるが、実は、西郷自身の書いたものではない、という説もある。しかし、このような大切な文書を他人に書かせていたという説は、どうも首肯できない。)

 少なくとも、3万人を超す武装部隊を引き連れての進軍であれば、当然、維新政府の腐敗や裏切りを誅し、政権を奪取する・・・という趣旨の宣言くらいあってしかるべきところである。

 西郷決起は、西郷の本意ではなかった。当時の「私学党」の青年たちが政府の兆発にのって「暴発」してしまい、西郷はやむを得ず彼らと運命を共にしただけで、自分みずから決起したものではなかった、とする説もある。

 それを西郷の大きさだと評価する者もある。西郷には、私利私欲は全くなかったのだというのである。私利私欲がないことはいいことであるが、だから、決起の無計画さにも責任がないことの論拠にしようとするならば、それは逆に贔屓の引き倒しである。

 西郷は、なぜあの時期に、あの陣容で決起したか、それは今後も多くの歴史家を悩ませ続けることになるのだろう。

                                      行政書士 八尾信一



   2005年2月12日

    「日本最後の内乱=「西南戦争」は2月に・・・(2)」

 西南戦争は、また、さまざまなエピソードや登場人物にもこと欠かない。

 薩軍では、篠原国幹、村田新八、桐野利秋、池上四郎、別府晋介・・・

 一方、政府軍側には、熊本鎮台の谷干城司令官。若き日の乃木希典・・・

 それから、最後まで薩軍にいて、西郷と死をともにした小倉壮九郎が実はかの海軍大将東郷平八郎の実兄であったことはあまり知られていない。

 下記は、西南戦争に政府軍として従軍したある兵士が、城山での最後の攻防戦に勝利したあと郷里の母に送った手紙の一部である。

 「当月(九月)廿四日午前四時ヨリ大進軍ニテ大勝利。魁首西郷隆盛、桐野利秋ヲ獲斃シ大愉快之戦ニテ、残賊共斬首無算ナリ」

 またさらに、この戦勝の話の続きは帰郷してからの楽しみ・・・とも綴っている。

 この手紙の差出人は、西南戦争の14年後、かの大津事件において、ロシアの皇太子ニコライを襲った津田三蔵その人である。

 ところで、西郷隆盛は挙兵に関して、どのような「大義名文」を掲げたか・・・

 それが、まことに不明なのだ。
 戦争目的がわからない戦争、それが西南戦争のひとつの特徴でもある。

 彼は、鹿児島出発に際して、熊本鎮台司令官あてに文書を発した。

 曰く「拙者儀、今般政府に尋問の廉有之・・・」

 ひらたく言えば、「政府に問い糾したいことがある」と言っているだけだ。

                                      行政書士 八尾信一



   2005年2月11日

    「日本最後の内乱=「西南戦争」は2月に・・・(1)」

 明治10年(1877年)2月14日は、鹿児島県には珍しく大雪が降った、と記録にはあります。

 翌15日、篠原国幹に率いられた薩軍一番大隊が鹿児島を出発し、翌々日の17日にはいよいよ、西郷隆盛らの薩軍本隊が鹿児島を出発し、ここに日本史上で最後の内乱である「西南戦争」が始まります。

 「西南戦争」は、この2月から9月までの実質7ケ月間の戦争でした。薩軍側の死者6,700人余、政府軍側の死者6,400人余を数え、鹿児島熊本、宮崎の三県にまたがる激しい戦争でもありました。

 この戦争は、近代日本がどういう道に進んでいくのかを決める大きな事件でもありました。

 また、この西南戦争をもって「明治維新」は一応完結したのだという学者もいるほどのエポック・メイキングな事件でもありました。

 「維新の三傑」と言われた、木戸孝允、西郷隆盛、大久保利通の三人はこの時期に、相次いでこの世を去ります。

 木戸孝允は、この年、西南戦争の行方を心配しながらその結果を見ず、7月に京都で病没しています。西郷隆盛は、9月に城山で討死します。そして、ただ一人残った大久保利通も、翌明治11年5月、刺客によって暗殺されてしまいます。

 確かに、黒船来航→大政奉還→戊辰戦争→西南戦争と続いた前後25年ほどの動乱は、ここで一応終止符を打ったのかもしれません。

                                      行政書士 八尾信一



   2005年2月10日

    ◎新・グループウェアを使う:その4 「ビジネスgoo」

 前回、少し触れましたように、2月2日にこの”ビジネスgoo”の試用を申し込み、即日利用を開始しています。現在のところ、数名程度での利用を想定していろいろな機能の使い勝手を試しているのですが、これ、本当によく出来たツールです。URLを再掲します。

 http://biz2.goo.ne.jp/

 今回、グループウェアを利用する上で、特に課題にしているのは、スケジュール調整と仕事(プロジェクトやタスクと表現されますが)の管理を、グループでいかに効率よく行うか、ということです。

 グループウェアの利用目的としては、この課題はオーソドックスなものでしょう。これに加えて、よくあるのが情報伝達の効率化ですが、それは、無料のグループウェアサービスでも基本的に提供されています。

 しかし、スケジュールや仕事の調整機能が本格的に使えるものは、無料のグループウェアサービスでは今のところお目にかかったことがありません。

 この”ビジネスgoo”は、その点、十分な機能を備えているように思えます。それに、利用料金も低額に抑えられていますから、経済的にそれほど大きな負担にはなりません。いくら高機能でも、月額数万の利用料金が必要であったり、初期導入時に数十万そして維持管理にも相当熟練が必要というのでは、大企業ならともかく、我々の用途に向きません。

 オプションサービスを申し込めば、インターネット上のディスクスペースも、大容量にもかかわらず、驚くほど安価で利用できます。オプションの申し込みは、試用期間中はダメのようですから、本格導入を決めたら、その時点で申し込んでみようかと考えています。

                                      行政書士 寺見敬三



   2005年2月9日

    何も起こらないことの幸せ

 この題名をタイピングして変換したら
 「何も怒らないことの幸せ」となった。
 怒らないで一日過ごすことは、確かに幸せだろうと、
 ついそちらへ宗旨変更し掛かったが、今日は予定通り
 上記のタイトルについての話しです。

 今年に入ってパソコン替えやプリンター替えをやってき
 たので、設定に伴うトラブルに連日の様に見舞われた。
 データを何日分か失ったばかりでなく、これで今日一日
 仕事が出来なくなるかもしれないというような不安に襲
 われたこともあった。
 何日間もトラブルが続いたので、パソコンに何も起こら
 ないことに、安心と言うより幸せを感ずるようになった。

 自分の能力以上のことに取り組んでいると、トラブルに
 出会いやすいのだが、トラブルを避けていると自分も進
 歩しなくなってしまう。
 トラブルに向かっていき、解決していく事は自分に力を付
 けることになるとは分かっていても、トラブルを押さえるこ
 とも実力の内と、妙な納得をして順調に稼働することを祈
 るのでした。

                                      行政書士 妹尾芳徳



   2005年2月8日

    「偽造キャッシュカード対策・・・」

 昨年の10月頃から、東京三菱銀行が生体認証ATMによるサービスを始めました。

 偽造キャッシュカードによる犯罪が増加する中で、「利便性よりも安全」を優先することが顧客のニーズであると判断されたためでしょう。

 生体による認証としては、現在どの銀行も「手のひら静脈パターン」を考えているようです。本人確認のための生体認証としては、「指紋」とか「虹彩」なども候補にあがっていたようですが、アンケートなどの結果、「手のひら静脈パターン」が選ばれたようですね。

 「手のひら静脈パターン」は、個人によって異なり、一定の年齢に達すると変化しないようで、99.9%以上の精度があるといいます。また、本人を本人でないと誤認する可能性はあっても、他人を本人と誤認することはないとされています。

 また、ATMでは、「生体検知」も行なうため、血流のない手のひら(死体の手のひらや、人工の手のひら、手のひらの写真等)には反応しないのだそうです。

 これからは、ATM機にカードを入れて、手のひらを見せて、OKをもらって暗唱番号を入力して取引が開始されるようになるのでしょう。

 この他、偽造キャッシュカード対策としては、利用限度額の設定や、利用可能な店舗数の制限などが考えられているようです。それもこれも、「安全」のためには致し方ないのかもしれません。

 ところで、この4月からは、ペイオフが全面的に解禁になります。

 国内の銀行・信用金庫の預金保険対象預金604兆円のうち、1000万円以上の預金は273兆円、全体の45%以上に及ぶことが明かになっています。

 さて、このペイオフ前面解禁の前後に、日本国中で、大きな資金シフトが発生するとすれば、金融機関はまた、また「動乱」になりますね。

                                      行政書士 八尾信一



   2005年2月7日

    何でもコピーが取り出せる

 官報をはじめ、PDFファイルの中にはプリントアウトできないように設定してあるものが多くあります。そのような文書でも、ちょっと紙に印字して、控えておければと思うことがありますね。

 今日は簡単に印刷する方法を書きます。もっとも多くの皆さんは既にご存じの方法ですが、意外に使われていません。「ペイント」を使う方法です。官報でも何とか読めるだけには印刷できます。「ペイント」は皆さんのパソコンにはほとんどあります。

 やり方

 取っておきたい文書を画面上に展開します。
 見えている部分だけが印字できる範囲です。
 キーボードの「F]キーの右に位置していますが、「Print」キーを1回押します。
 スタートから「プログラム」「アクセサリー」と進んでいき、「ペイント」をクリックします。

 「ペイント」が開きます。
 上のバーの「編集」をクリック、「貼付け(P)」をクリックします。
 「キャンパスより大きな・・・・・、大きくしますか?」は、「はい」をクリック。
 ペイントの画面に先程展開したページが映ります。
 十字の矢印が出ていますが、それを使ってツールバーにある不要な画像が上の背後に隠れるようにします。
 また必要な部分だけが見えるように上に画像を移動します。
 小さい「?」で画面を切り取り、縦横のスライドバーを右下に寄せると、画面の右下に「斜め矢印」が現れます。
 この矢印を使って切り取った不要な画面を縮小します。

 上のバーの「ファイル」をクリック、「印刷」をクリックしたら欲しい文書が印刷されます。

                                      行政書士 妹尾芳徳



   2005年2月6日

    ◎新・グループウェアを使う:その3 「シェルパ・イントラネッツ」

 ”ビジネスgoo”の試用版を2月2日に申し込み、そのいくつかの機能を実際に使いはじめています。まだ数日しか使っていませんが、それぞれの機能も便利に考えられていて、高機能であるにもかかわらず、操作方法はシンプルで、とても好感がもてるツールです。

 ”ビジネスgoo”の機能などについては、次回以降で、順次紹介していこうと思いますが、今回は、”シェルパ・イントラネッツ”です。(以下のURL参照。)

 http://www.sherpa2000.com/Intranets/index.htm

 これは、機能説明ページとデモサイトを試しただけなので、実際の使い勝手ははっきり分かりませんが、”フォルダ”などは”CALS/EC仕様”になっているようで、各業種ごとに必要となるフォルダ構成を一括して作成する機能などもあるようです。

 今回のシリーズの最大の関心事であるプロジェクト管理ですが、”シェルパ・イントラネッツ”では、”仕事リスト”という名称の機能がそれにあたります。これは、自分自身や他のメンバーの行うべき作業内容を視覚的に個別に管理できるようになっており、その作業の開始から完了までを監視できるような画面構成です。

 さらに、各メンバーへの情報の公開・非公開も指定できるようで、プロジェクト管理を行う上で、必要となる基本機能は備えているようです。

 ただし、基本的に建設業にターゲットを絞ったグループウェアですから、他の業種で流用するには不向きのように思われます。建設業に限定して考えれば、施工から竣工までに必要となる様々な書類について、定型書式をダウンロードできるようにしてあるなど、CALS/ECの入口としては良い教材のように思われます。

                                      行政書士 寺見敬三



   2005年2月5日

    「節分も過ぎて・・・」

 節分も過ぎて、さてさて、にわか仕立ての赤鬼や青鬼を演じた父親もいつもの大人しいオジサンに戻った頃ですね。

 暦の上では、もう、春です。

 地方によっては、そろそろ梅の花の便りも聞かれる頃でしょう。

 震災で被害にあった新潟市の白山公園にも、4日、紅白の梅の花が咲き始めたという知らせが、ほっと心になごむものを与えてくれるような気がします。

 梅は、古くから日本人に愛された花でした。
 今は「花」と言えば「桜」のことのようになっていますが、万葉の頃の日本人にとって「花」といえば、「梅」のことでした。

 「梅」で思い出されるのは、大宰府天満宮の「飛梅伝説」でしょうか。菅原道真が、大宰府に流されるときに、あの有名な「東風吹かば・・・」の歌を詠んだら、そのあとを慕って京都から大宰府まで一夜で飛んで来たという「飛梅伝説」です。

 2月5日現在、大宰府の「飛梅」は、五分咲きだそうです。

 私たちは、梅の花に冬から春への移り変わりを感じるとともに、冬の寒さの中から美しい花をつける梅にある種の「強さ」や「潔癖さ」を見て来たのでしょうか・・・

  勇気こそ 地の塩なれや 梅真白

                  中村 草田男

                                      行政書士 八尾信一



   2005年2月4日

    「『かみさまへのてがみ』・・・」

 いまから、20年ほども前のこと。
 まだ、うちの子供が小さかった頃に、一緒に読んだ絵本が出てきました。

 『かみさまへのてがみ』(サンリオ・谷川俊太郎訳)

 これは、アメリカの子供たちが、やっと字が書けるようになった年頃に「かみさま」に手紙を書いたものを、谷川俊太郎さんが翻訳したものです。

 ここで子供たちが手紙を書いた「かみさま」はほとんど、キリスト教のかみさまですがこどもたちの無邪気でするどい感性に思わずはっとし、そして、深く考えこんでしまいます。

 たとえば、以下のようなてがみです。

 「かみさま、もし しんだあと いきるんなら どうして にんげんは しななきゃ いけないの?」  ロン

 「あなたは どうして じぶんが かみさまだって わかったんですか?」  シャーリーン

 (これなどは、実に深い哲学的なテーマです。)

 愉快なてがみもあります。

 「かみさま あなたは きりんを ほんとうに あんなふうに つくりたかったの?それとも あれは なにかの まちがいですか?」  ノーマ

 「かみさま あなたは おかねもち? それとも ただ ゆうめいな だけ?」 スティーブン

 「かみさま あたらしい どうぶつを はつめいしないのは なぜなの? いま いるのはみんな ふるいの ばっかり だよ」 ジョニー

 (まだ、アメリカでは、全ての生物はかみさまの創造・・・)

 かみさまに逢いたい子供たちからのてがみは・・・

 「かみさま どうして いちども テレビに でないの?」  キム

 そして・・・

 「かみさま あなたって ほんとうに いるの? そうは おもっていないひとたちも いるわ。もし ほんとにいるんなら すぐに どうにか したほうが いいわよ。」  ハリエット・アン 

 うん、スマトラ沖地震と津波で30万人近い人々が死んだとき、かみさま、あなたはどこにいたの?・・・って、声が聞こえそうです。

 どの子供も、ほんとうに天才です。
 子供には、あわてて大人にならないでって言いたいですね。
 (我が家は、もう手遅れですが・・・)

                                      行政書士 八尾信一



   2005年2月3日

    「うわー、花粉がくるぞぉ・・・(続)」

 日本国中の杉の木を一本残らず伐採してしまう・・・には、ちょっと時間がかかりすぎて、当面どうにもならない。
まして、今の政府ではそんなことをやる「蛮勇」すらない。

 そこで、まず「花粉症対策」としては、マスクだ。

 標準的なマスクよりやや高価になるが、それでも襲い来る花粉を遮断する効果が高いとして、さまざまなマスクが発売されている。

 日経産業新聞によれば、「ユニ・チャーム」とか、「ニチバン」「住友スリーエム」「明治製菓」までがマスクの市場に新製品を投入して来ている・・・という。

 超立体マスク、イソジンプロテクトマスクなど工夫はさまざまだ。

 みんな効果がありそうな気がして来る。

 (ときに、話はそれるが、世に「マスク美人」というのがあるらしい。マスクで口元を覆っているから、本人は自然と眼だけでコミュニケーションをとろうとすることから、眼に力強い表情がこめられるため、普段より美しく見えることがあるそうだ。ひとつ、お試しあれ。)

 ちなみに、2004年、マスク市場は約110億円の売上を記録しているようだ。

 マスクばかりではない。

 花粉症対策の「飴」というのもある。
 「お茶」がいいというのもある。

 そして、何と、「花粉症の症状をやわらげる着メロ」なんてものも出来ているようだ。(私は、まだ実物は聞いたことがない・・・)

 まあ、理屈はあるのだろうが、まさにまさに「花粉症狂奏曲」の感じがしないでもない・・・

                                      行政書士 八尾信一



   2005年2月2日

    自動車リサイクル法の不思議  (下)
      払っても還付されず
      払ってないが還付を受ける人

http://www.qst.mlit.go.jp/osirase/file001_020/file040.htm

みなさん、上記URLはある運輸局のホームページです。

---------☆ 引用 ☆---------
平成17年1月より、使用済自動車に係る自動車重量税の廃車還付制度がスタートし
ました。
自動車リサイクル法に基づき使用済自動車が適正に解体され、永久抹消登録申請又は
解体届出と同時に還付申請が行われた場合に、自動車検査証の有効期間の車検残存期

に相当する自動車重量税が還付されます。
---------☆ 引用 ☆---------

自動車重量税が還付される対象者でも、前回、前々回述べたような流通をすると、
ユーザーは還付を受けるチャンスがなくなります。

さらに、還付される人は支払った人ではないのです。名義上の所有者なのです。

---------☆ 引用 ☆---------
還付の対象者は?

車検証上の最終所有者に還付されます。自動車重量税を実際に納付した人に還付され
る訳
ではありません。
---------☆ 引用 ☆---------
これは分かりやすく言うと、分割で購入した場合には、車両の所有者は自分ではない
わけです。
支払を終了していても、名義が換わっていなければ自動車重量税は、あちらの人に
還付されるのです。
   (完)

                                      行政書士 妹尾芳徳



   2005年2月1日

    自動車リサイクル法の不思議  (中)
     廃車両が流通

前回、リサイクル料金を支払う場合について3つ箇条書きしました。
下取り車を廃車にする場合には、ユーザーは当然リサイクル料金の支払い義務が
あります。
ところが中古車として流通させる場合には、(1)(2)(3)には該当しませんので、
支払義務は免れるのです。

登録抹消の手続きは、15条抹消と16条抹消があります。
廃車、解体など再び使用しない場合には15条抹消ですが、この場合には
使用一時中止の16条抹消になります。

いままでま街の零細解体業者が回収していた廃車両が、市場価値の有無に拘わらず
中古車の流通機関に持ち込まれてきているのです。

中古車の流通機関では、当然引き取り手がない車が大量に出ます。
そこで初めて大手の解体業者が一手に引き取るのです。
大手解体業者が廃車分のリサイクル料金を負担するのです。
この流れが出てきているので、ディーラーから直接引き受けてきた解体業者には
全く動かない車両以外は出なくなることが心配されます。

現在はまだリサイクル料金を支払っていない廃車が出てきているのですが、
今年以降に車検を受けた車両が下取りに出された場合には、ユーザーからは
廃車にしますと言って、16条抹消をした場合には、もし流通機関で引き取り手が
あった車両のリサイクル料金は、ディーラーの懐に入る事になります。

                                      行政書士 妹尾芳徳