『鳴くよ(794)うぐいす平安京』(^^;)。この見事なゴロ合わせで西暦794年の平安京遷都は覚えてましたが、いまだに桓武天皇がどういう人かよく理解できてません(^^;;)。ここのところ「陰陽師」関係でいろいろな日本史の本も読んでいるのですが、それでもなかなか頭にはいらない。よくよく考えるに、この人を理解するのは、まず「天智天皇&天武天皇」の関係を理解しないといけないんですね(^^;)。という事は「壬申の乱」をです(^^;;)。(欲を言えばちょっと前の「大化の改新」と藤原鎌足(中臣鎌足)もだけど、、。)
なにを隠そう、私「壬申の乱」がさっぱり理解できていなくて、日本史が苦手だったのもそこでつまづいていたからだったんです。「大化の改新」については曲がりなりにも「日出づる処の天子」とかの延長線上の事件としてなんとなく想像可能だったんですが、、その先は全然で(^^;)。
早い話、藤原鎌足(中臣鎌足)と計って蘇我氏(入鹿)を滅ぼした中大兄王子(天智天皇)と、その弟の大海人王子(天武天皇)
の間の『兄弟間の王権争い』が「壬申の乱(672年)」だったわけです。で、結局は弟の天武天皇とその子孫にその後100年間の王権が移るのですが、その間に起ったさまざまな政権を巡るすったもんだの末に、最終的には兄の天智天皇の子孫の手に王権が戻って来まして、それをしっかりと固めたのが桓武天皇だったって訳です。(→だから百人一首は平安王統の創始者天智天皇のお歌から敬意を表して始まっているとか。)
ちなみに垣武天皇の母親は百済系渡来人だったそうです。そんな渡来人の血を引く桓武天皇が天皇になれた裏には、藤原式家の後押しと策略があったそうです。その式家出身で、桓武天皇の寵臣でもあったのが藤原種継(ふじわらたねつぐ)という人で、この人が桓武天皇に山城国長岡への遷都をすすめます。藤原種継という人の母親も新羅系渡来人の泰氏出身で、その地に勢力があったんですね。また種継には、古の遣唐使(弁正という人)と唐夫人との間にできた子を父に持つ異色の妻もいたりして、桓武天皇のまわりはなかなか国際色豊かな環境だったと思われます。(余談ですが、桓武天皇には少なくとも23人の妃と35人の子供がいたそうですが(^^;)。)
そんな中で、桓武天皇がわずか10年にして新都長岡京をすて、さらに完璧な防呪都市平安京を造った理由は、、。 (以下、次項に続く)