旧東海道に関する、雑学・博学なんでもあり。
逐次新規追筆し、各項目も気づき次第修正加筆しておりますので、たまに覗いて見て下さい。
尚、記述で間違い等ございましたら、どうかお教え下さい。お願い致します。
また、「旧東海道」に範囲を限らず、広く”江戸時代”を見渡したいと思います。
新規追加項目: |
た | 立場 | 記述を補充 | 2010.01.29追加 |
す | 水道 | 江戸の水道管は当時、世界一だった | 2008.07.13追加 |
ゆ | 湯坂路 | 記述を補充 | 2007.01.18追加 |
し | 身長はどのくらい? | 江戸時代の成人の身長は・・・ | 2006.09.16追加 |
ひ | 廣重は大金持ち? | ベストセラーの「五十三次」で丸儲け? | 2006.08.28追加 |
か | 火事と喧嘩は江戸の華 | 火事の恩恵とは・・・ | 2006.08.06追加 |
え | 江戸 | いわゆる“江戸”のこと | 2006.08.05追加 |
か | 冠木門(かぶきもん) | 門、である | 2006.08.05追加 |
か | 川越え | 川越えの方法 | 2006.08.05追加 |
か | 川越し料金 | その料金 | 2006.08.05追加 |
か | 川越人足 | その結束 | 2006.08.05追加 |
か | 川留(かわどめ) | その時、飛脚はどうした? | 2006.08.05追加 |
し | 下にぃ〜〜〜下にぃ〜 | の掛け声は、将軍家・徳川御三家だけ! | 2006.06.06追加 |
た | 大名行列 | なんと、意外な行列だった! | 2006.06.06追加 |
さ | 参勤交代 | その政治的意図は? | 2006.06.06追加 |
い | 庵(いおり)看板 | 現在、唯一残っている店あり | 2006.06.05追加 |
ふ | 深川江戸資料館 | 町並みを実物大で再現しています | 2006.06.05追加 |
え | 江戸っ子 | その心意気 | 2006.05.28追加 |
え | 江戸前 | 寿司を形容する言葉だが・・・ | 2006.05.28追加 |
く | 下りもの | 上方の生産品 | 2006.05.28追加 |
ち | 忠臣蔵 | 赤穂義士も東海道を歩いたが・・・ | 2006.05.12追加 |
く | 雲助 | その名の由来は? | 2006.05.10追加 |
な | 中原街道 | 家康が利用した街道 | 2006.05.10追加 |
そ | 象 | 本当に象が東海道を歩いた話 | 2006.05.10追加 |
い | 一本立てる | その意味は? | 2006.05.09追加 |
本 編 : (追加項目編入済) |
あ | 間の宿(あいのしゅく) | 宿場間の距離が長い場合や、また難路の場合、宿場と宿場の間に置かれた。 但し、宿泊は原則出来ず、休憩用とされた。 |
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い |
庵(いおり)看板 | 伊勢國・関宿の江戸時代から続く銘菓“関の戸“を商う「深川屋陸奥大掾」さんに街道で唯一残されている。 詳しくはHP「関宿」のページ、中程にその看板を掲載。 http://www.geocities.jp/yaji_kita843/sub6-08-ise-4.html |
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石畳 | 今に残る箱根旧街道の石畳が有名。(昭和35年国史跡に指定)。 延宝八年(1680)に石畳が敷設。 それまでは細竹のハコネダケが敷かれていた。ただ、竹は腐り、毎年敷き替えなければならず、経済・労力の負担が大きかった為、当時最高の舗装技術である”石畳”にした。 しかし、この石畳は雨の日など人も滑れば馬も滑り、落馬して死亡する者もいた。 |
箱根旧街道 石畳と杉並木 | |
一里塚 | 道の両側に概ね一里ごとに塚を築き木を植えたもの。 慶長九年(1604)家康が秀忠に江戸日本橋を起点に造築させた。 塚上には多く榎が植えられたが、松や杉もあった。 (箱根山中の一里塚間の距離は、実際の一里よりも長い) |
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一本立てる | 小休止を意味する「一本立てる。」は現在の登山用語にもなっているが、もともとは大荷物を背負った人足は小休止の度にいちいち背中の荷物を降ろすことができず(一旦降ろすとその重さのため、再度背負うのが大変)、そのため手にした杖を背中の荷物の下部と地面との間に入れ、その杖を支えに荷物を背負ったまま載せ、立ったまま休んだ。 私考だが、その杖を「一本立てて休んだ」意、及び場所から「立場」という言葉が生まれた。 |
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飲食代 | 「東海道中膝栗毛」で弥次喜多が沼津宿の外れの茶屋での飲食。 そこのメニュー:上酒・・・三十二文(608円) 下酒・・・二十四文(456円) 魚煮つけ 上・・・三十二文(608円) 下・・・十三文 (247円) 一文約19円換算だが、結構、酒の値段も高い。 |
図説東海道歴史散歩 | |
え |
駅伝 |
駅伝という言葉自体は、日本書紀にも記載されているほど古いものである。当時、首都と地方の間の道路網に30里(約16km:里は元々は古代中国の周代における長さの単位であって、現在は1里=4kmとするが、当時は1里=1800尺=約540m)毎に置かれた中継所のことを「駅」といい、ここに宿泊施設や人、馬を配置していた。駅に朝廷の使者が到着すると、次の駅まで乗り継ぎの馬を用意する仕組みが整っており、この制度を「駅制と伝馬制」あるいは「駅伝貢進」といった。 |
ウィキペディア(Wikipedia) |
駅伝(箱根駅伝) |
上記、駅伝制度がヒントとなって、「駅伝」と言う陸上競技が生まれたものと思われる。 |
ウィキペディア(Wikipedia) | |
江戸 | 江戸時代の幕府所在地。明治維新で東京府となる。 現在の中央・千代田・港・新宿・文京・台東の6区にあたる。 地名の由来は岬または端(はな)を意味するアイヌ語説、江戸氏に由来する説、満々と濁水をたたえる大河(江)の入口(門)の意とする説など諸説ある。 「江戸」という言葉が初めて登場するのは「吾妻鏡」(鎌倉幕府の公式記録。と言っても北条氏に都合よく編纂されている)治承四年(1180)の条で、江戸太郎重長という人名としてである。 近世以前に武蔵国豊島郡江戸郷という地名もあるが、康正二年(1456)太田道灌が江戸城を築くまで町は形成されていない。 急速に発展するのは天正十八年(1590)徳川家康が関東入国してからである。 しかし何しろ無理やり造ったので、最初は相当ひどいものだったらしい。荒野だったようなところだから風が吹くと、埃がモウモウとたち、ほんとに何もなかったようだ。 |
日本地名百科事典 | |
江戸っ子 |
江戸は家康によって何もなかった所を急造し、そこにどんどん人が集まってきたわけだが、江戸で生まれて江戸で育つ、それが三代続いて初めて“江戸っ子”と呼ばれた。 一般に“江戸っ子”と言う場合は「町人」を指し、「商人」は指さない。 また、上方の「雅(みやび)」に対し、江戸っ子は「粋(いき)・意気」を売りものにした。 江戸っ子の一番嫌ったのは「粋(いき)」の反対の「野暮(やぼ)」である。 |
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江戸時代 | 徳川時代ともいう。 徳川氏が関が原の戦で豊臣氏を倒し天下を握った慶長五年(1600)、もしくは家康が征夷大将軍に任じられて江戸に幕府を開いた慶長八年(1603)に始まり、十五代将軍徳川慶喜が大政奉還した慶応三年(1867)まで。 |
日本史広辞典 | |
江戸時代の旅 | 江戸時代中期以降は国中の治安は大変良くなり、女性だけのグループでも観光旅行に出かけた。柴桂子「近世おんな旅日記」によると、近世の女達の旅日記は百数十点を超えるという。 また、伊勢皇大神宮参拝にかこつけた旅行者が多く、中でも文政三年(1830)は年間500万人の”おかげ参り”の参詣者があった。人口3000万人だった時代にだ。 |
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江戸東京博物館 | 東京都墨田区横網1-4-1 地上七階、地下一階。江戸〜東京・400年の文化と歴史のとても広い博物館。 復元された日本橋があり、渡ることが出来る。 平成五年(1993)開館。 http://www.edo-tokyo-museum.or.jp/ |
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江戸日本橋 | 諸説あるが慶長八年(1603)に架設。以後二十回も架け替えられた。 葱宝珠高欄(ぎぼうしゅこうらん)、橋の長さ二十八間(約50m)。 明治44年(1911)西洋風の石造りに。 現在、東京都墨田区の「江戸東京博物館」に忠実に復元された実寸代の西側半分だけの日本橋があり、渡ることが出来る。 |
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江戸の人口 | 元禄八年(1695) には人口は85万人に達し日本一の都となった。 その後も人口は増え続け、天保八年(1837)には128万人となり、ロンドンの85万人を大きく上回り、世界最大の都市となった。 しかし、地方から出てきた独身の男の数が大変多かったらしい。 |
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江戸八百八町 | 江戸初期は300町だったが、延享2年(1745)では1678町にもなり、超巨大都市となった。 | . | |
江戸前 | 今やにぎり寿司を形容する言葉になっているが、もちろん芝・品川の“江戸の前の海”で捕れる魚類のこと。 しかし、享保ころまでは“江戸前”ではなく“芝肴”と呼ばれていたらしい。当時は芝(現在の港区芝)での上がりが最も多かったからかもしれない。江戸が文化の中心となる宝暦以後“江戸前”と呼ばれるようになった。 蛇足だが、全国の寿司屋に書かれている“江戸前”は、“江戸前風の〜”“江戸風の〜”の意味になっていて、勿論江戸前の魚を使っているわけは無い。 |
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か |
火事と喧嘩は江戸の華 | 江戸時代の265年の間に記録に残るものだけでも約1.800件もの火事があり、うち大火は96回。 7日に1回は小火(ぼや)があった。 とくに明暦三年(1657)の大火“振り袖火事”は、二日間にわたり燃え続け、江戸市中の大半と江戸城のほとんどを焼き尽くし、約10万人の死者を出す大惨事となった。 天和二年(1682)の「天和(てんな)の大火=お七火事」はいわゆる八百屋お七の放火事件だ。 享保五年(1720)には大岡越前守が町火消し「いろは四十八組」を組織したが、大した効果はなかった。 しかしこうした火事をこっそり歓迎している人々もいた。大工や左官、鳶職といった建設関係の職人は、大火があれば仕事が増え、手間賃も上がり、火事場の片付けや古クギ拾いをする人も必要になった。火事は、多くの人々が食べていける仕事をも供給しただけではなく、皮肉なことに江戸の町は、大火のたびごとにどんどん大きくなっていった。 また、「宵越しの金は持たねェ」という威勢のいいタンカは、家財道具などを持っていても、いつ灰になるかわからないことの裏返しでもあったのかもしれない。 もっとも“江戸っ子”というときには“町人”のことを指していて“商人”のことではないので、“商人”は土蔵を造り、「宵越しの金を持って」せっせと蓄財していた。 さて、「喧嘩」は日常茶飯事行われていたのだろうが、資料がない。 “強きをくじき弱きを助ける”播随院長兵衛と水野十郎左衛門の大喧嘩は、江戸初期に起こった町奴と旗本奴の喧嘩だが、町人同士、職人同士の喧嘩は頻繁にあったのだろう。 (「喧嘩」についてご存知のかた、どうかお教え下さい。) |
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冠木門(かぶきもん) | 武家住宅に用いた門の形式で、室町時代には将軍邸の通用門としても用いられたが、江戸時代には下級武士の住居の門となった。 実物写真は、「三河國藤川宿」本宿村入口にあり。 http://www.geocities.jp/yaji_kita843/sub6-06-mikawa-2.html |
日本史広辞典 | |
川越え | 大井川など政策上、橋のない川を渡るためには川越人足にたよった。 @肩車越し:人足の肩にまたいで乗る。増水したときは補助役の人足がもう一人つく。 A連台(れんだい)越し:一般は梯子(はしご)に似た形の平連台。 一人で乗る時は四人で担ぎ、二人乗りの場合は六人で担いだ。 連台は他に半高欄(はんこうらん)連台・中高欄・最大級の大高欄連台がある。 B馬越し:人や荷物を乗馬のままで、川越人足が付き添って越す方法。 C棒渡し:無賃者を渡す方法で、細長い丸太の両端を人足が持ち、それに掴まって渡る。 |
「広重五十三次」を歩く | |
川越し料金 | 大井川の常水は二尺五寸(約76cm) 一尺増すと馬越しで、それ以上は肩車越し、連台越しになった。 水の深さによっても料金が変わり、肩車での場合、 「股通し」で四十八文(約960円)。 「帯下」で五十二文。 「帯上」で六十八文。 「乳通し」で七十八文。 「脇通し」(四尺五寸)で九十四文(約1880円)。 連台越しになると当然料金は跳ね上がる。 大名行列の場合、この川越し料金が各大名家にとって大変な負担になったようだ。 |
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川越人足 | 大井川での場合、島田側の川越人足は西の金谷に旅人を渡すが、帰りは旅人を連れずに戻ってきた。 同様に金谷側の川越人足も東の島田に旅人を渡しても、帰りは空手だった。 このことは渡し場がどのように混雑しているときでも守られ、稼ぎは公平に頭割りにされた。 また、旅人に規定料金以上の要求をしたことが知れれば、人足を続けることはできなかった。 |
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川留(かわどめ) | 「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」で有名な大井川の場合、大雨などで水深四尺五寸(約1.4m)で“川留”となった。 川留は四〜六月に集中し、大体二日から七日程度で川留は解かれたが慶応四年(1868)には連続二十八日の記録がある。 川の両側の島田宿や金谷宿は川留の度に旅籠は旅人で溢れたが、川留期間が長引くほど旅人の懐は傷んだが、宿場町にとっては大変な繁盛となった。 川留めが解除される(川明け)と、最初に飛脚、次に公用、大名行列、一般という順で川を渡った。 また、飛脚が足留めされている間に払った旅籠代が割増料金として発生したかどうかはわからない。(どなたかご存知の方、お教え下さい) |
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き | 木賃宿 | 旅人が自ら米を持参し、これを炊く湯代・薪代を宿代として払う。 宿泊料は旅籠の1/3から1/10ほど。 |
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旧東海道 | 江戸日本橋から京三条大橋まで、全長:百二十六里六町一間。492.1km。 昔の旅人はこれを14,5日で歩いた。 |
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く | 下り物 (くだりもの) 下り酒 (くだりざけ) 下らない |
上方で生産され、大消費地江戸へ輸送され消費されるものを総じて「下り物」というが、「下り酒」も下りものの典型的な商品であった。上方で造られる酒は味も品質も良く、江戸でも定評があった。 |
ウィキペディア(Wikipedia) |
雲助 | 「雲助」とは、雲のように居住が定まらないからとも、また、旅人を蜘蛛がエサを取るように捕まえるから、とも言われている。 そしてお互い同士を、実名ではなくその出身地である”甲州””信州”と呼びあった。 また「足下を見る」という言葉は、性質(たち)の悪い雲助が客の草履を見て、擦り切れている(=もう歩けない)場合に高い金額をふっかけたということに由来するという。 |
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こ | 高札場(こうさつば) | 宿場の出入り口に置かれ、幕府の禁制やお触れ、犯罪人の手配などを掲示した場所。 | . |
五街道 | 江戸幕府道中奉行支配下にあった主要道路。 東海道・中山道・甲州道中・日光道中・奥州道中。 |
日本史広辞典 | |
五十三次 | 「次」は「継」とも。「次」は「宿場」の意。 東海道は、 《日本橋》・品川・川崎・神奈川・保土ヶ谷・戸塚・藤沢・平塚・大磯・小田原・箱根・三島・沼津・原・吉原・蒲原(かんばら)・由比(ゆい)・興津(おきつ)・江尻(えじり)・府中(ふちゅう)・丸子(まりこ)・岡部・藤枝・島田・金谷(かなや)・日坂(にっさか)・掛川・袋井・見付(みつけ)・浜松・舞坂・新居(あらい)・白須賀(しらすか)・二川(ふたがわ)・吉田・御油(ごゆ)・赤坂・藤川・岡崎・知立(ちりゅう)・鳴海(なるみ)・宮(みや)・桑名・四日市・石薬師・庄野・亀山・関・坂下(さかのした)・土山・水口(みなくち)・石部(いしべ)・草津・大津・《三条大橋》 |
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さ | 参勤交代 | 「参勤」は一定期間将軍のもとに出仕すること、「交代」は暇を与えられて領地に帰り、政務を執ることを意味する。 家康は秀吉の例にならい、江戸城下に大名の妻子達を(人質として)住まわせる屋敷を与え、それまで自発的であった参勤交代を寛永十二年(1635)三代将軍家光の時、法令化した。 参勤交代の時期は季節によって決められ、親藩大名は3月(水戸藩は常時江戸づめ)譜代大名は6月か8月、外様大名は4月と時期をずらしていた。 東海道では年間150回ほどの往来があったようだ。 これは服属儀礼であって、参勤しないということは幕府への反逆とみなされた。 この参勤交代の政治的意図は、大名行列に多大な出費を強いることで、諸大名が反逆を企てるに必要な経済的実力の切り崩しにある。 参勤交代と江戸屋敷で、平均、年間予算の48%も使っていたらしい。 しかし幕末になると、大名行列にかかる経済的負担の増大、江戸の上・中・下屋敷や多数の勤番の家臣の召抱えの出費など大名の財政を圧迫し、幕府への不満となり討幕運動の遠因ともなった。 反面、参勤交代のために、街道や宿場が整備され繁栄し、多くの大名の随員が地方と江戸を頻繁に行き来したため、彼らを媒体して江戸の文化が地方にもたらされたと言う面もある。 文久二年(1862)、参勤交代制度は大幅にゆるめられた。 |
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三度笠 | 三度飛脚が頭に付けた菅笠の呼び名。 | . | |
三度飛脚 | 寛文四年(1664)から毎月2、12、22の日の三度、大坂(当時大阪は大坂と書かれた)を発したため三度飛脚と名づけられた。各地にも飛脚問屋が現れ,五街道や主要都市のあいだでひろがり,幕府・諸大名も利用した。1871年(明治4)郵便制度の成立により廃止。 | . | |
し | 下にぃ〜〜〜下にぃ〜 | 大名行列の先導“露払い”の掛け声「下にぃ〜〜〜下にぃ〜」は、将軍家と徳川御三家(水戸・尾張・紀伊)だけが使えたもので、勿論その行列に遭遇してしまった百姓・商人達は地面にひれ伏したが、他の大名行列の掛け声は「片寄れ〜、片寄れ」であって、庶民も地面にひれ伏す必要は無く、脇に避けるだけでよかった。 そして、いずれの場合も大名行列の前を横切る、ということは“切り捨てご免”も当然の処置であったが、「産婆」だけは全くの例外であった。 (三歳未満の子供も例外、と記憶しているが、詳細失念。ご存知の方お教えください。) また、“露払い”は幕府の場合、目付け役直属の“小人目付け”が行っていた。 |
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宿場 | 幕府の駅制の中心で人馬の継ぎ立て、通信業務、宿泊施設などの提供。 幕府規定で寛永年間(1624〜44)には各宿場に馬百頭、人足百人と決められた。 |
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宿場間 | 最も宿場間の長いのは「宮」〜「桑名」だが、これは海上七里なので省く。 最長:「小田原」〜「箱根」、四里八丁(16.5km)、それも上り坂である。 最短:「御油」〜「赤坂}、十六丁(1.7km)、それも平地である。 |
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食事 | 通常旅行者は「米の飯」は朝食と夕食で、昼は体を軽くするという意味で、うどん、そば、だんご、餅、饅頭だったようだ。 成人男子で一日五合の米を食べ、約3.000キロカロリー採って東海道を歩いた。 現在、成人の一日の必要カロリーは性別・身長差にもよるが、概ね2000キロカロリー前後が良い、とされている。 |
図説東海道歴史散歩 | |
身長 | 江戸時代の成人の平均身長は、男子:157cm 女子:146cm | . | |
す | 水道 | 江戸は埋立地のため、井戸を掘っても海水が出るので多摩川上水・神田上水・三田上水・亀有上水などから水を引き、水道管の総延長は150kmで当時世界一だった。 だから江戸っ子は井戸の水で産湯を使ったのではなく、“水道の水”で産湯を使った。 今の神田川にかかる「水道橋」は当時、水道管が通っていた。 |
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杉並木 | 箱根旧街道は松ではなく、杉並木である。 高度が高く、空中湿度が高いため、杉になったようだ。 |
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せ |
関所: そのちょっといい話 |
箱根や新居関所の「入り鉄砲に出女」は有名だが、手形が無くても通行できた人たちがいる。 相撲取り、旅役人(その代わり、関所の役人にその芸を披露して確認してもらう)。そして僧侶も確か不要だったと思う。 また、これは不確かな話だが、一目で奉公人と分かる女が国元の親の急病の便りを聞き、手形を取る閑もなく関所をなんとか通してもらおうと頼み込んだ時、取調べの役人は「手形無き者は一切通行まかりならん!」と許可せず、女は仕方なく、泣く泣く江戸に戻ろうとした時、その役人は「これ女、通行まかりならんと申したはず。そちが来た道はそちらではないであろう。早くもと来た道に戻れ、早く戻れ!」と女の行きたい先に「戻れ、戻れ!」と追いやってやったと言う。 確かに、粋(いき)な計らいもしたり、それほど厳格ではなかった点もあったらしい。 このように女性は江戸から京に向かって出るときは当然必要だったが、逆に京から江戸に入るときは手形が無くても通行可能であった。 |
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関の山 | 「〜が関の山だ。」この語源は「伊勢國(四)」・関宿の巻末にも書いたが、 江戸時代,関宿では神社に奉納する山(いわゆる山車)は最盛期には十六基あり、その豪華さをお互いがこぞって競い合った。 しかしあまりにも豪華になった山車は,狭い関宿の道を通れないほどの物となったため、 ”もうこれ以上のものは造れない”、つまりそれを越す事はないと思われる限度、の意味として使われるようになった。 |
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そ | 象 | 八代将軍吉宗の希望で、中国商人がヴェトナムで二頭手に入れたもののうち、オス一頭が享保十四年(1729)三月長崎を発ち、五月二十五日に江戸に着いた。 当然箱根も越えたが、長旅の疲れか下り道が苦手なためか、象は箱根で三日間寝込んでしまったそうだ。 その間、象は果物とまんじゅうは食べ、殊にまんじゅうは小田原から八回も取り寄せた。 二十七日、吉宗は江戸城大広間に出てご覧になり、大層ご機嫌で十三年間も浜御殿に繋いでいたという。 |
箱根Q&A・ 広重五十三次を歩く |
た | 大名行列 | 大名が公用のために随員を引き連れて外出する際に取る行列のこと。参勤交代における江戸と領地との往来が典型的な形態である。 大名行列は幕府によって人数が定められており、一万石の小大名でも50〜100人、尾張藩・紀州藩などは総勢300人余に及ぶ大行進で延々数キロに及ぶ行列であるが、百万石の加賀藩は最盛期、4,000人を数えた。殿様用の風呂の水まで運んだそうだ。 また、道中、大名行列同士がかち合った場合、格式の低い大名は駕籠から降りなければならず、主君を駕籠から降ろすということは家来にとって大変な失態であるので、斥候(せっこう)を行列の先方に出していた。万が一かち合いそうな場合は、格式の低い方の大名行列一行は休息をよそおい、近所の寺などに急遽立ち寄った。 行列のスピードは、大津から江戸までの例をとると、普通の旅人は13〜15日のところ、大名行列はこれより2日ほど速く歩いた。大人数で旅をするので、少しでも宿泊費を減らそうと、朝四時に宿を出、夜八時に宿に入ったそうである。 通常、行列はばらばらで、かなり自由な歩き方だったようだが、決められた場所だけはキチンと歩いた。キチンと行列したのは、 ・国元の出発や到着時 ・領地の境の通過時 ・宿場の出発や到着時 ・江戸入りの時 |
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宅配便? | 現在の宅配便同様なものが当時もあったようだ。 旅に出た者が土産を自宅に送るのに、当然利用した。 |
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立場(たてば) | 宿場から外れた場所にあり、本来は人足などの休憩場所であった茶店(立場茶屋)で、後には一般の旅行者も利用するようになっていった。 「一本立てる」の項にも書いたが、大荷物を背負った人足は小休止の度にいちいち背中の荷物を降ろすことができず(一旦降ろすとその重さのため、再度背負うのが大変)、そのため手にした杖を背中の荷物の下部と地面との間に入れ、その杖を支えに荷物を背負ったまま載せ、立ったまま休んだ。 荷揚げ人足達がやっとの思いで急坂を登り切り、見晴らしの良い場所に出れば休みたくなるだろう。 で、杖を支えに立ったまま休んだ。その杖を「一本立てて休んだ」意、及びその場所から「立場」という言葉が生まれた。 当然そういった場所は人足ならずとも、一般の旅行者も休みたくなるだろう。 喉も渇き茶を飲みたくなるのは必然で、その場所に簡易な茅葺の茶屋が開かれる。 それが立場茶屋だ。 “旅人達が立ったまま茶を飲んだから立場”と言う、と書いてある本もあるが、休息をとる旅人が立ったまま茶を飲んだり団子を食べたり、と言うのは解せない。 |
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ち |
茶屋本陣 | 間の宿と同じだが、大名の休憩などに用いられた。 | . |
忠臣蔵 |
大石内蔵助はじめ大勢の赤穂義士が東海道を歩いた。 箱根の茶屋で、神崎与五郎が馬喰の丑五郎に難癖をつけられ、詫証文を書いたというのは後の世のつくり話であろう。 しかし、一番の疑問は大石内蔵助は初めから”仇討ち”をするつもりがあったのかということだ。 祇園での遊行は吉良方の目を欺くためと言われているが、それは後からのこじ付けで、本心は自分でも今後の身の振り方を計り知れず、唯だらだら遊行していただけだと思う。 世間の仇討ちへの期待や堀部安兵衛らの急進派に押され、やむなく討ち入ったと思えてならない。 しかし、その討ち入りまでの間、もし討ち入りが成功すれば仕官の道が開ける、と本気で考え始めたのかもしれない。 何故なら討ち入りが成功し、芝高輪泉岳寺の浅野内匠頭の墓前にそれを報告し、その場で全員が腹を切らずにいたことだ。 本来、幕府の「喧嘩両成敗」を不服とし、それを幕府に諭すため、あえて幕府に盾をついての討ち入りである。 成功した暁は、自ら即切腹が本筋かと思う。 それをしなかったのは討ち入り後、各藩から義士達への仕官を求める声が数多あったことから分かるとおり、内蔵助は“仕官”、これを狙っていたからだと思う。 討ち入りは“就職活動”であったのだ。 そして結局は一ヵ月半後、全員(寺坂吉右衛門を除く四十六名)切腹を言い渡される。 終わり方がなんとも話にならない。 そのために映画などでも討ち入り後、「エイ、エイ、オー」で終わりにしてしまう。 四家に預けられた四十六名が一ヵ月半のあいだ酒肴で手厚くもてなされる場面や、挙句全員切腹の場面まで映画でやったら観ているほうがアホらしくなってしまう。 こんなことならなぜ墓前で腹を切らなかったんだ、と誰しも思えてしまい、「忠臣蔵」ではなく、これでは「不忠臣蔵」だ、となってしまうので「エイ、エイ、オー」で映画は(TVもだが)終わりにしてしまうのだ。 |
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と |
問屋場(といやば) | どこの宿場にも必ずあり、武士の御用道中はもとより町人でも公私の別なく、ここで馬・駕籠・人足を頼むことが出来た。 問屋役は本陣の当主が兼ねることが多く、宿駅の管理にあたった。 |
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東海道分間延絵図(とうかいどうぶんけんのべえず) | 江戸幕府作成の「五街道分間延絵図」の一つ。幕命により道中奉行のもとで調査編集された。文化三年(1806)完成。 各宿の本陣・脇本陣・問屋・立場・全体の家並み、街道筋の寺社・旧跡・一里塚・高札場・松並木が詳細に画かれ、その彩色の自然さもさることながら、眺めているだけで江戸時代を歩いている気にさせてくれる。 (※全巻51万円するのでこれだけは購入をあきらめ、市図書館で閲覧した。) |
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東海道名所図会 | 著者:秋里籬島 挿絵:竹原春泉斎。寛政九年(1797)京都の書肆・田中庄兵衛。 この種の各地の「名所図会」物は江戸後期から明治期まで百種余りも刊行された。 挿絵が豊富で、往時の様子が分かり楽しい。 |
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東京都 | 東の都(京)の意で、明治天皇の東幸時の詔書(明治元年・1868)により、江戸を東京と改めた。昭和18年(1943)東京府を解消し、東京都が設置された。 面積は都道府県中、3番目に狭い。 |
日本地名百科事典 | |
留女(とめおんな) | 街道を行く旅人を、自分の旅籠に半ば強引に呼び込む女性。売春もした。 | . | |
な | 中原街道 | 江戸城虎の門から相模国平塚郊外の中原に達する脇往還である。 天正十八年(1590)に徳川家康が江戸入りした際もこの街道を利用したと言われ、その後東海道が整備されるまでは江戸に向かう主要な街道であり、川崎市・小杉と平塚市中原に御殿が作られると、家康は駿府との往復の際は東海道よりも中原街道を多く使った。 鷹狩の際などにも平塚御殿はよく利用されたようで、今でも地名に「御殿」が残っている。 また「中原街道」の名の道路も残っている。 |
ウィキペディア(Wikipedia) |
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箱根甘酒茶屋 | 当時は箱根湯元茶屋付近から三島近くまで甘酒茶屋は道中に点在していたようだ。しかし明治22年鉄路「東海道線」が御殿場回りで開通したため、徒歩でこの街道を歩く人がなくなり、旅人相手に商売していた人は生活手段を失った。 旧道に残された甘酒茶屋の大半は引越し、この「甘酒茶屋」も一時はしきりに廃業を考え移転したがっていたが、旧道が整備されて急に人が増え、現在では江戸時代並に繁盛している。 |
歩く・見る 箱根八里 |
箱根旧街道の 政策的意図 |
道の維持、通行者の便宜を考えれば日当たりの良い尾根道(湯坂道)の方が好条件であるにもかかわらず、家康は条件の悪い谷沿いの道を造った。 つまり江戸に幕府を開いた家康は、箱根山を江戸防衛の最前線と考えた。上方から攻め上ってくる謀反の輩をこの箱根山で迎え討つためには、三島から箱根峠までは敵軍の動きが一目でわかる尾根上の道、ひとたび箱根山を突破された時は、敵軍が攻撃目標を見定めながら進軍できる見晴らしの良い尾根筋の道では都合が悪く、逆に防衛側としてみれば尾根筋を押さえ、敵を谷沿いに誘い込むことにより、上から攻撃を仕掛けることができるという利点のある谷沿いの道が必要であった。 |
箱根旧街道 石畳と杉並木 | |
箱根八里 | 「箱根八里」は”小田原宿から三島宿の箱根越え八里” ”箱根東坂”(小田原宿〜箱根宿・江戸からの場合、上り坂)四里八丁、 ”箱根西坂”(箱根宿〜三島宿、下り坂)三里二十八丁で合計八里。 「東海道分間延絵図」によると、この箱根八里の山道十三箇所に茶屋があった。 |
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旅籠(はたご) | 一般の武士、庶民が利用した食事つきの宿屋。 平均して一宿場五十五軒。大・中・小と格付けがあり、収容人数もまちまちだが、仮に平均二十人とすれば、一宿場に千人以上の宿泊が可能だった。 チェックインは決まりでは五つ(午後八時)となっていたが、日没とともに真っ暗になる時代だ。冬季は日暮れも早いし、旅人も宿を決めるのに大変だったろう。 チェックアウトは午前六時頃。しかし午前四時以前の早立ちは禁じられていた。 |
歴史と旅 | |
旅籠に到着時 | 旅籠の女が旅人の草履を解き、桶の水で足を洗ってくれる。 これは単なるサービスではなく、足を洗いながら旅人が病人ではないか、確認しているんだそうだ。 足の裏を触れば体の不具合が判るそうで、もし病気持ちの場合、旅籠は宿泊を拒否した。 その旅籠で旅人が万が一死亡した場合、旅籠の営業に差し障ることになったようで、足を洗いながら確かめたのたそうだ。 では、宿泊を拒否された旅人は木賃宿に向かったのか? 木賃宿では旅籠と違い、足を洗ってはくれない。そのようなサービス(?)はないし、その場合、言ってみれば生命保険に加入するのに、医者の告知が不必要のようなものだ。 簡単に誰でも泊めてくれるが・・・。 |
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旅籠の数 | 天保末年。宮:二百四十八軒、桑名:百二十軒、岡崎:百十二軒、小田原:九十五軒、品川:九十二軒が上位五宿場。 これらがしのぎを削って客取り合戦を展開した。 |
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ひ |
姫街道 | 別名「本坂越え」「本坂道」など。 見付宿(静岡県磐田市)〜気賀・三ケ日・嵩山〜御油(愛知県豊川市)まで58km。 主に女性が通ったため”姫街道”と呼ばれる。 何故、東海道を嫌って本坂越え道を選んだかは以下の理由だそうだ。 ・小さな船に揺られて浜名湖を越えるのを嫌った ・「今切」の渡し、という離婚に結びつく縁起の悪い名を忌み嫌った ・新居関所が女性にあまりにも厳しかったため |
「広重五十三次」を歩く |
廣重 | 歌川(安藤)廣重。 天保五年(1834)完結の保永堂版の横大判錦絵「東海道五十三次」はその構図・彫摺の妙味で特に著名。全五十五枚セットで売り出された。 十辺舎一九の「東海道中膝栗毛」(1802〜22刊行)や当時の旅ブームなどを背景にこのシリーズの企画はあたり、廣重はその後三十種以上の東海道物を描いた。 |
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廣重、東海道を旅せず | 廣重は天保三年(1832)、幕府の”御馬進献の使”に加わって江戸から上洛し、これによって「東海道五十三次」を完成させた、と伝聞されてきたが、昭和35年(1960)東京国立博物館資料課長であった近藤市太郎氏は、廣重画・「蒲原」、「庄野」が実景とあまりにも異なること、そして「目川ノ里」(廣重画・石部宿「目川の里」は、先に出版された「東海道名所図会」の挿絵と瓜二つである。)などから、”広重、東海道を旅せず”の口火を切った人だ。 | . | |
廣重は大金持ち? | 下級武士であった廣重はどうせ貧乏なら、と好きな絵の道を志し、画家になってしまった。 そして「東海道五十三次」があれほどのベストセラーになったにもかかわらず、廣重は貧乏だった。 つまり錦絵は、「絵師(下絵を画く)」・「彫師(下絵を忠実に木版に彫る)」・「摺師(その木版により多色摺りをする)」の過程で出来上がるわけで、廣重は単なる「絵師」の位置だ。 そしてこの「絵師」「彫師」「摺師」を抱えているのが「版元」だ。 「版元」が企画・販売をし、儲けは全て「版元」に入る。(もちろん売れない場合は版元が被る) ベストセラーになって売れに売れても、現在のように印税が「絵師」に入る制度にはなっていないので、廣重はただ最初に下絵を画いた段階の金を受け取るだけ。 儲かったのは「版元」だけで、廣重は遺言で借金は家を売って払うようにと言ったほどだった。 |
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ふ | 深川江戸資料館 | 江東区深川にある。 天保年間深川佐賀町の町並みを実物大で再現。長屋の内部や家並みなど、また音響効果(犬の鳴き声や物売りの声など)で江戸時代にタイムスリップした気分になること必至。 http://www.fantastics.co.jp/fukagawa1.htm |
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ほ | 本陣 |
大名・宮家・公卿・幕府役人・高僧など身分の高い者が宿泊するところで、一般の武士・庶民は泊まれない。 各宿場に必ず一軒はあり、箱根や浜松には六軒もあった。 東海道全体では百九の本陣があった。 本陣の主人は苗字帯刀が許され、宿場の最高身分でもあった。 |
歴史と旅 |
(最大規模の)本陣 | 鳴海宿本陣:六百七十六坪が最大。 他にも三百坪以上の本陣は東海道に十二軒あった。 |
「広重五十三次」を歩く | |
ま | 松並木 | 東海道の松並木。 なぜ幕府は松並木を造ったのか? 万一地方から反乱を起こした大名の軍が江戸に攻めのぼってくる際、その行軍を防ぐため松を次々に切り倒し、街道をふさいで人馬の通行が簡単には出来ないようにするためだった、という説がある。 |
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み | 道幅 | 平地の場合五間(約九m)が原則であったらしい。(箱根など山間部では狭い) 小田原城下ではさらに広い所もあり、逆に静岡県に入ると四間幅の場所が多く、菊川や見付(磐田市)などは宿場の中でさえ四間のところが多い。 |
歩く・見る 箱根八里 |
め | 飯盛女(めしもりおんな) | 旅籠で旅人の食事などの世話をする女性。売春が主だった。 | . |
や | 八坂神社・八角木守 「蘇民將來子孫也」 |
「蘇民將來」は人の名前。 『備後風土記逸文』によると、「素戔鳴命(スサノオノミコト)」が、南海への旅の途中一夜の宿を裕福な「巨旦将来」に宿を求めたが断られ、反対に貧乏な「蘇民将来」の家で歓待し泊めてくれた。 貧乏にもかかわらず親切にもてなしてくれたことを喜んだ「素戔鳴命」は、 「今後、”蘇民将来の家”と明示しておけば、いかなる災難からも身を守ってくれるであろう。」と告げた。 その後、村に疫病が流行し巨旦将来一家を含め村人全員が死亡したが、蘇民一家だけは「蘇民将来子孫也」の門標を掲げていた為無事であった。 それ以降この地の人々は、蘇民の子孫であるとして「蘇民将来子孫也」を玄関に掲げる風習が生まれた。 この故事によって、人々は祇園祭に「蘇民将来子孫也」の護符を身につけて参加する。また7月31日には蘇民将来をお祀りする、八坂神社境内「疫神社」において「夏越祓」が行われ、「茅之輪守」(「蘇民将来子孫也」護符)と「粟餅」を社前で授与し、一ヶ月間の祇園祭が幕を閉じる。 |
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ゆ | 湯坂路 | 鎌倉時代中期、箱根を越したルート。 箱根湯元から湯坂山、浅間山、鷹巣山を通り元箱根へ出る、明るい尾根筋にあった。(現在もハイクング・コースとして残っている) 江戸時代の「旧東海道」以前に歩かれた箱根越えの古道。 “伊勢物語”の在原業平、“十六夜日記”の阿仏尼たちが歩いた道であり、いわゆる「鎌倉古道」である。 また、建保6年(1218年)2月14日、武家の統領として源実朝が最後の二所詣にここ箱根に出かける。そしてあの有名な和歌を詠じたのは、この湯坂路だろう。 箱根路をわが越えくれば伊豆の海や沖の小島に波のよるみゆ 大海の磯もとどろによする波われてくだけて裂けて散るかも 箱根越えの古道を古い順に大雑把に並べてみると、@碓氷道(大和)、A足柄道(奈良・平安)、B湯坂道(鎌倉・室町)、C旧東海道(江戸)、ということになる。 湯坂路は延歴21年(802)の富士山の噴火で閉ざされた箱根越えの足柄道に代替するために開かれた路である。 江戸時代になり交通量の増加及び戦略上の理由などから二代将軍徳川秀忠が元和四年(1618)「旧東海道」を開き、この「湯坂路」はその役目を終えた。 |
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れ | レンタル業? | 当時の旅人の服装・支度を見ると、必要最低限の物しか身につけ、或いは所持していない。 布物は高価で、江戸市中では褌(ふんどし)は庶民は自分で買うことが出来ず、レンタルで使用していたという。それも布により、上中下と値段が分かれていたようだ。 ということは、想像だが東海道の各宿場に衣類等のレンタル業の店があったと思うのだが。 次の宿場で脱ぎ捨て、また借りる。その繰り返しをして旅をいたのではないかと思う。 |
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わ | 脇往還 | 脇街道とも。 江戸幕府道中奉行支配下にあった五街道以外の街道。 脇往還を領内に持つ領主が直接の管理責任をもったが、幕府勘定奉行も間接的に関与した。 |
日本史広辞典 |
脇本陣 | 本陣の宿泊が複数の大名などで重なった場合の予備として用意された。 また、大名などの家老達が宿泊した所でもあり、貴人も一般旅行者も泊まれた。 宿場によってはゼロのところもあるが小田原、桑名には四軒もあった。 |
歴史と旅 |