収量談義に花が咲く

記録:平成16年10月16日
掲載:平成16年12月 9日
志波姫町農家 菅原 
 
 「9俵」、宮城県北地方における本年の平均的収量であり、ここで言う収量とは、面積1反部から収穫できる米の量のことである。
 ちなみに田んぼの面積に関する基本的単位「1反部」とは1000m2のことであり、10a(アール)のことである。だいたいの田んぼは長方形をしているので、基盤整備(田んぼの区画整理)した田んぼで考えれば、長辺はだいたい100mであり、10aとは10
8月29日、慣行水田状況、今年はヒエ
の多い田んぼも目立った。
0m×10mの面積で、これが私の「1反部」のイメージサイズである。
 それはともかく、水不足まで懸念された今年の猛暑は「日照りに不作なし」の言い伝えそのままに豊作の年となった。ただし今年は台風が多く、日本海側の新潟県や秋田県では台風が海水を巻き上げ、それによる稲の塩害被害が大きかったので「豊作」の言葉は「宮城県では」との註釈が付く。
 昨年は冷害の年であり、地域によって差が大きかったものの、俺の地域では「4俵」くらいが平均的収量であった。これは今年の収量「9俵」の半分以下である。しかし昨年、俺の田んぼがどうだったかと言うと、

 「すごい、穂が見事に垂れ下がっている。」
 「イモチ(稲の病気)もほとんどついていない。」
 「これだったら7俵は確実だ。」

などと言われていた。
 これは、昨年9月頃、稲刈り前に私の田んぼを訪れた方々の御感想である。みなさまリップサービスが達者であるが、正直悪くない気分であった。しかし稲刈りしてみれば正直な数字の現実が見えてくる。
 昨年の俺の田んぼの収量はおおよそ「5.5俵」であった。ちなみに「5俵」と言わず、「5.5俵」と表現するのは「5俵よりか多いぞ!」との気持ちの表れで、そう表現したくなるくらい俺の期待に反し収量は少なかった。
 しかし問題なのは収量そのものよりも、昨年の冷夏にあり「穂が見事に垂れ下がっている、イモチもほとんどついていない。」にもかかわらず「5.5俵」という結果であったことだ。これは例え冷夏でなくても稲は同様の姿のままで、そのため収量も「5.5俵」に止まるだろうことを予想させる結果である。
 
9月4日、冬期湛水水田状況
ちなみに、農家の方々はこの「収量」という数字に敏感であり、それぞれにライバル意識を持っている。昨年、稲刈り前に私の田んぼ訪れ「7俵はいける。」と口にする農家の方々は少なからず渋い表情を見せ、眉間に皺を寄せていた。しかし稲刈り後、俺が「収量5.5俵でした」と言うと、皆さん「それほどでもね〜な。」などと安心した表情を浮かべるのである。
 今年は幸いにして宮城県北地方は豊作だったので、農家の皆様方も表情が明るい。

 「俺のとこは9.5俵だったが、おめーのとこは?」
 「それほどでもねえ、10俵くらいだ。」
 「なにが「それほどでもねえ」だ、やるね〜」
 「だけどよ、○○のとこなんか11俵だぜ。」
 「けっ!ちゃっかりしてるぜあの野郎、ガハハハ!」
 
 などと「収量」談義に花が咲くのである。このくらいで収量談義が終わっていれば世の中平和なのだが、この話題が俺に振られてくるので平和でいられない。

 「ところでよ、菅原君のとこはどうなんだ?」
 「6.5俵だよ。」
 「え、何?」
 「だから、6.5俵だっつーの!」
 「ほう、6.5俵か、まあまあだな。ガハハハ!」

 何が「まあまあ」なのかと思うが、昨年予感した一抹の不安は見事に的中するので自分のカンに感心しないでもない。とりあえず、何でこのように俺の田んぼの収量が低いのか、考えるられる原因を以下に列記しておくと、

 ・農薬を使わないので、稲が雑草に負けた部分が少しあった。
 ・田植えの殖栽密度を粗にしているので、密にしている慣行農法
  より収量を上げにくい条件でもある。
 ・化学肥料はおろか、有機肥料も使わない無施肥栽培なので、
  稲の分けつ数、着粒数共に多くなかった。

 通常、無農薬の有機栽培は、慣行農法よりも2割程
9月4日、冬期湛水水田状況、クログワイ
に稲が負けた場所、こういった雑草の活躍
も収量が伸び悩んだ一因である。
度収量が減ると言われる。俺の田んぼはさらに無施肥も加わってるので、これから考えれば「6.5俵」という結果は、まずは理屈の合った数字ではある。
 さて、今年の宮城県は豊作であったが、しかし豊作だからといって、それだけで喜んではけない。豊作は米余りの状況をもたらし、結果として米価の下落も生じてくる。米価が下がれば、収量が多くとも収入が増えないし、場合によっては「豊作貧乏」という状況もありうる。もっとも単純に「米価」とは言え、最近は米の流通形態も多用になってきている。そして「こだわりの米」を求める消費者の方々も多くなってきているので、俺はこの需要に応える「米」に重きを置き、「収量」そのものは二の次だと考えている。
 ゆえに、収量談義に花を咲かせる農家の方々には申し訳ないが、俺にとっての収量は「たかが収量」でしかないのである。もっとも正直に言うと、少しは収量に対する「こだわり」もある。しかし、それを言えばなんか負けた気もするので、やっぱり「たかが収量」としておくことにする。

 

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