三年の終わりと始まり |
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記録:平成18年5月 8日 | ||||||||
掲載:平成18年5月31日 | ||||||||
チーム田力の高奥 |
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平成15年から冬水田んぼに関わり始め、三年が過ぎた。始めは「農業」を知る、若しくは再考するという気持ちで、この活動に取り組んだ。 思い出してみれば、農業関係の仕事をしていながらも、冬水田んぼに関わるまでは育苗や、田植えや収穫といった農作業、そして米の流通や販売、さらには農業に関する法規制などの知識も乏しく、そういったことに対して不勉強であったことに今さらながらびっくりさせられる。つまり、農業を知らずして、農業関連の仕事をしていたわけである。 こういった「木を見て森を見ず」的姿勢は、大組織の歯車であるセクションの中で特定の専門分野に埋没し、日々のルーチンワークをこなしていくサラリーマンにとっての構造的課題なのかもしれない。否、そうではない。日々、怠惰に流され生活している自分自身にとっての課題であると考えるべきであろう。 私は仕事がら、綺麗なデザインとわかりやすい内容で編集された農業政策関連のパンフレット、また緻密な数字が並べられた農業統計資料、或いは新聞や各種広報誌に掲載された様々なペーパー農業情報、そういった「机上の資料」を日常のように目にしていたが、それがゆえに、なんとなく農業を「わかった」つもりになっていたようである。 冬水田んぼに関わり始め、始め田んぼの中を歩き雑草を数え、次ぎにイトミミズを数ることにした。また時間を見つけては近隣の冬水田んぼ農家に農作業方法について聞きに行き、時には農作業を手伝ったりもした。そしてそういった活動をHPに公開していったわけである。 HPに公開する際には、必ず「裏」を取った。田んぼを見つめ、そして雑草や土の変化を見つめながら「こうではないか、ああではないか?」そういった話を農家や冬水田んぼに関わる人達と意見交感することがよくあった。そして、それは単に農作業の話題だけに止まらず、生き物のことや、米販売のこと、さらには農村の社会学的なものにまで及ぶこともあった。 こういった「こうではないか、ああではないか?」といった話題の過程で、しばしば「田んぼ」を考えるうえでの、新たな可能性に気が付かされることがあった。これは農業を考える上での重要なヒントに思えたが、しかし、単に「こうではないか、ああではないか?」といっただけでは、それは「あやふや」な次元を飛び越えることができず、不確かなものにしかなり得ない。 そのため、そういったヒントを感じ取った時には、各種学術書に目を通し、必要に応じて調査を行いながら、可能な限り多くの「裏」を取るよう試行錯誤した。 私の「裏」取り作業は、調査にしても、学術書に目を通すにしても、決して精度の良い作業ではなかったが、精度を求めれば限られた「裏」しか取ることができない。このことは自分の視点を「森」でなく「木」に特化させることにつながる。そしてそれは結果として自分の見ることのできない「隣の木」に対する無責任な考えにもつながっていきかねないのである。 これは避けたい、そう考えていた。このようにして私は、少なくとも自分自身の気持ちの中では、できるだけ「不確かなもの」を「確かなもの」にしようと努めたのであった。 こういった活動は本業ではなく全て趣味的活動、いわばボランティアで行っていた。そのためか、しばしば「自己満足」と言われることがあった。その時は「私の趣味だからね。」そう、流していた。インターネットでも見つけることのできない発想を追求し、それを世間に公表する。その頃はまだ、そういった意義や充実感を感じることができていたのである。 が、そのうち冬水田んぼが社会的に注目されてくると、多くの学術関係者や役所の方々が冬水田んぼに参加してくるようになった。これは私のような冬水田んぼに関わっている人間にとっては嬉しいことであったが、しかしその一方で限られた余暇の時間で行う、いわば「片手間」的な私の活動意義が除々に失われていくようにも感じた。そしてついには「自己満足」、そう言われても仕方がないように感じるようになってきたのである。 このように考えるようになったのは平成17年夏頃のことである。この頃、菅原さんも、冬水田んぼへの情熱を失いかけていた。それは予想以上に冬水田んぼに草が増えてきたからである。「農薬を使わないのも限界かな、そろそろ転職する時期に来ているのかもしれない。」そのような言葉が聞かれるようになっていた。 このうにして菅原さんと私、つまりこのHP「稲と雑草と白鳥と人間と」は、社会的に注目され始めた「冬水田んぼ」を尻目に、終わりを予感させる状況となっていたのである。平成17年の下半期以降、HPの更新が滞っていたのには、そういった事情がある。そして、いつしか私の足は、菅原水田から遠のいていた。 平成17年の秋、冬の出稼ぎに行くため、菅原さんは「田んぼじまい」の準備にとりかかり始めた。「稲と雑草と白鳥と人間と」、この三年もついに最終章を書かねばならぬのか、そう思っている頃、一つの変化が訪れ始めていた。 「田力本願」というHPがある。このHPは、菅原水田米の販売に特化して作成したものであるが、それに加えて私の田んぼ調査についても、その成果を凝縮した内容で掲載している。 この「田力本願」HPには消費の方々からメールが寄せられてくるが、これを私は定期的に菅原さんから転送してもらっていた。このメールは「稲と雑草と白鳥と人間と」が停滞していた頃、唯一、私が菅原水田との関係を保つきっかけとなっていたのである。 |
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平成17年の秋頃、こういった感じのメールが全国の消費者の方から多数、寄せられ始めていた。既に冬水田んぼから心が離れつつあった私達にとって、こういったメールは少なからず励みになった。 |
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10月に入ると、日々このようなメールが相次いだ。これが菅原さんの考えも変えていったのでろう。菅原さんは予定していた出稼ぎに行かず、11月で完了させる予定であった米の発送作業を延長し、そのかたわらで今年も田んぼに水をかけることになった。 |
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こういったメールを読み、素直に嬉しく感じた。「自己満足」、そう言われたことも何度かあったが、これだけ世間の方々が「稲と雑草と白鳥と人間と」から生まれた成果を評価してくれているのである。 |
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そして、消費者の方々は「田力本願」米に新しい可能性を期待してくれている。やるだけのことはやった、もういいだろう。そう考えていた時期もあったが、まだ「森」を見るに至ってない。未だ私たちにはやるべきことがある。除々に私はそう考えるようになった。「稲と雑草と白鳥と人間と」は、まだ終わらないのである。 出稼ぎを取りやめ、米販売を継続していた菅原さんであったが、もう一つの課題があった。それは、米の保管を依頼していた倉庫管理者の都合により、米の低温保存ができなくなったことである。このため、とりあえず米販売の延長を公表したものの、気温があがり、保存米の質が劣化する4月以降については、米販売の見込みが立たなくなっていた。これについても、消費者の方々からのメールが大きな力を与えてくれた。 |
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平成18年3月、ついに菅原さんは一念奮起し、自宅の作業小屋に低温倉庫を建築することとした。 |
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本当に、こういった方々のメールが、どれだけ大きな力を「稲と雑草と白鳥と人間」に与えてくれたであろうか、「米を作る人」、そして「米を食べる人」この関係があって、始めて田んぼは田んぼでいられる。そう再認識せずにはいられない。 平成18年も4月を過ぎた。私は転勤となり栗原市から仙台市に引っ越しすることになった。そして菅原水田からも離れることになったが、しかし新しい仙台の地では、仙台でしかできない「稲と雑草と白鳥と人間と」があるはずである。家財道具を積み込み、仙台に向かう車の中で、「継続」その二文字を心の中に刻んでいた。 平成18年5月13日、色麻町のレストラン「ライスフィールド」で、菅原さん、遠藤先生、浦山さんとの会合を持った。みな平成15年作から3年間、冬水田んぼに取り組んだ方々である。この会合では今後の「稲と雑草白鳥と人間と」の活動方針について話し合った。私が菅原水田を最初に訪問してから、もう3年と3日が過ぎた小雨混じりの夜のことであった。 |
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