1月24日付日経新聞夕刊のプロムナードというコーナーの「風合い」というコラムがおもしろかった。筆者は装丁家の菊地信義氏である。
風合いとは紙や布の触感や見た目の感じを示す言葉だ。一般的にはわかりにくい言葉である。といって、風合いがわかっている人も風合いとは何かを的確には説明できない。風合いとは個人的な感覚だからだ。
菊地氏は風合いについて「常日頃、着物で通している料理屋の女将」に話を聞き、「とりあえず、風合いとは、紙や布が視覚や触覚に発信する印象を、個々の過去の紙や布との体験を止揚して成る感覚だとは言える」と定義している。
「止揚」は哲学用語で、私は、高校の倫社の先生が黒板に大きくジグザグと線を書いて説明していたのをなぜかよく覚えている。ああだろうか、いや違う、こうだろうか、いや違う、そうやって進む、みたいな意味だった。
私の場合、自分が着る服を長年作ってきたことによって布との体験を止揚し、布の風合いの良し悪しがわりと見えるようになった。厚そうに見えたものが触ってみたらやわらかかったり、服に仕立ててみたらやっぱりごわごわしていたり、そういう経験を積んで自分なりにようやく少し風合いがわかるようになったのである。風合いを見る感覚とは美しいものを求める感覚じゃないだろうか。もともとすべての人間にそなわっている能力のひとつだと私は思う。自分の服を自分で作っていた時代には多くの人が布の風合いのよしあしを見ることができたような気がする。
ユニクロの服を安くて質のいい服だと私が思わないのは、私が、質のいい服とは風合いのいい服だと思っているからだ。大量生産に適した布は風合いのいい布であるはずがない。しかし、風合いの良し悪しを見ることのできる人が少ない今、ユニクロの服を安くて質のいい服だと言うのも間違ってはいない。まあ、質がよくても悪くてもいいんだけれど、私にはなんだか風合いが感じられないだけだ。
『クレイジー・ヤン』の紙は7号から変わった。それまで使っていた紙が手に入らなくなったからだ。無理を言って取り寄せてもらえば手に入るのだが、そうすると紙代が高くつく。それでなくても紙代は値上がりした。紙の面では金銭的に妥協した。ものすごく不満で手に持ってみるたびにイヤになる。創刊号を作るときには紙にこだわった。ザラッとしていて軽くてふんわりしているあの紙を使った。気に入っていたのに。
菊地氏もコラムで書いていたが、最近は印刷しやすい紙の需要が高まっている。それはわりとツルッとして光っていて(風合いの気にならない人の)見た目には高級そうに見える紙だ。紙は需要の多いものが安い。本が売れないからよけいに効率的な紙が好まれる。クレヤン創刊号を買った人から「安っぽい紙を使って」みたいな意見が届いたことがあった。本を触る機会が減って、いや違うな、最近の雑誌や本しか見てないから、紙の風合いがわからない人が増えているのだ。既製服の時代になって大量生産に向く化繊がいい布になった。既製服でいくら布の風合いを見たところで風合いの感覚は養われない。風合い加工されているからだ。
菊地氏の言葉を借りれば、布から服を作ることは、自分の「触覚と視覚を全開にして感受することを求める」作業なのだと思う。そうじゃない服作りももちろんあると思うけれど。
