やってみなければ,わからない。

                中田 光茂

 最近,また,飯田史彦さんの本を読んでいます。ちょうど,「共通の真理はあるか?」について,若いころは,共通の真理(お手本みたいな?)があると信じていろいろ勉強してきたつもりですが,今になっては?です。
 人それぞれの人生において,環境が違う中で,ひとつの真理で物事を計ろうとするのは,浅はかな考えてあると最近思い始めました。
 それぞれの個性があって,その個性に対して,優劣をつけるようなものです。優劣をつけても意味がない。それは個性だから。
 と,いうことが最近になって,気づき始めました。生きてみないとわからないな〜。と,いうのが,率直の最近感じたことです。
 なにかで読みましたけど,人に求めてはいかんですね。部下を持ってみて,始めてわかることですね。


                徳島市 相原 史朗

 社長の鶴の一声!?で,書くことになりました。文才の無さ故にお見苦しい文章になるかも知れませんが,宜しくお願いします。
 これが出るのが11月・・・と言うことですので,今回は11月3日に行われる祭のことについて書こうと思います。
 僕の居る地元八多町では,秋祭り,そして有名な犬飼の農村舞台と賑やかな一日になります。
 秋祭りの祭太鼓に農村舞台の人形浄瑠璃とふすまカラクリ,産直市と色々ありますので足を運んでみて下さい。
 ふすまカラクリは必見です。
 ちなみに,農村舞台といえば・・・。
 数年前にテレビドラマの撮影が犬飼の農村舞台であったのですが,その時,撮影現場に手伝いに行っていた親に用事があって,バイクで農村舞台へ行ったのですけど,バイクの音が原因で,カットになってしまったことがあります。

阿は古代の神事の象徴文字だ

      古代阿波研究所長 堀川 豐平

 阿波の意味は深い。徳島とだけいわないで,「阿波の徳島」と重ねるのは,深いわけがありそうです。
 漢字の意味を骨に刻んだ文字(甲骨文字)にさかのぼって研究している白川靜先生の「字統」によると,「阿」のこざとへんは,神が上り下りする聖なるはしごであり,神のはしごは,山すそに設けられ,阿とはそこで神をまつり,いのる意味だそうです。
 忌部の本拠は大和になく,阿波にしかないのはこのためです。
 またこのことから,天への橋立てが地上に倒れたという籠(この)神社は,忌部の阿波から移したことが推定されるわけで,食糧の神,大宜都比売が,籠神社の豊受大神の原神であることを暗示しています。
 いろんな人が「阿」について調べ,語り研究することで,阿波説が一段と深められていきます。
 多角度からの研究で,深い古代阿波の姿が浮き彫りになる日が近づいています。

阿波を考える その2

阿波と般若心経

                三村 隆範

 「般若心経の真髄は「阿」ですね。」と尋ねると
どして,そんなことが言える」と聞き返された。
「どしてって,お経にそう書いてあるでしょう…」
どこに,そんなこと書いてある
「…『得阿耨多羅三藐三菩提(とくあのくたらさみゃくさんぼだい)…』と書いてあるじゃないですか?」・・・。
 一般には,どうやら般若心境の真髄は,「空」となっているらしい。
 『得阿耨多羅三藐三菩提(とくあのくたらさみゃくさんぼだい)…』とは,
  過去・現在・未来のすべての仏たちも,
  この智慧の完成によって,この上ない真実
  の悟りを得たのです。と現代訳にある。
 つまり「得阿耨多羅(とくあのくたら)」とは,(真実の悟り・涅槃)を得たことである。「阿耨多羅(あのくたら)(真実の悟り・涅槃)」をつづめると「阿」である。空となれば「阿」を得る事となるので,般若心経は「阿」を得る方法を教えていることになる。
 しかし,そんな難しい事を考えなくても,阿波に住む人は,すでに「阿」の地に住まいしているからどっしりとかまえ,いつものようにゆとりを持って楽しく暮らしたらいいのである。それが,名実ともに「阿」の地に住み,「阿」の波を発して生きていることになる。
 阿波は(発心の地),土佐は(修業の地),伊予は(菩提の地),讃岐は(涅槃の地)といわれるので,阿波が,涅槃の地でないというかもしれないので,弘法大師の書かれた「般若心経秘鍵」を引用し,阿波が(涅槃「阿」の地)である事を述べておく。

  夫れ仏法遥かに非ず。心中にして即ち近し。
  真如他に非ず。身を棄てていづくにか求めん。
  迷悟我にあれば,則ち。発心すれば即ち到る。
  明暗他に非ざれば則ち。信修すればたちまちに証す。
【解説】「かの仏陀の説かれた法は遥かかなたにあるのではない。心の中にあるのでありとても近い。真理に通じるものは他にはない。わが身をすててどこに真理を求めるのであろうか。迷いも悟りも自分自身にある。それに気付きさえすれば真理に到達する。明暗を分けるものもこれ以外にないので,信じて修すればたちまちに証される。」
 と弘法大師は書かれている。
 すでに「阿」の地に住んでいる我々に,「阿」の地に住んでいるという自覚が有るか無いかで,絶対自由でいられるかどうかが決まるのである。