かねてから阿波は「いのくに」だったといわれてきたが,その根拠に乏(とぼ)しいところがあった。
古事記に「伊予の二名島」と書かれた四国の呼び名は,学会においても未だ定説がない。しかし,現代においても愛媛県では,「伊」と使わず「予」を使っている。その現状から判断しても四国西部は「よのくに」であったと考えざるをえない。
そうならば,単純に四国東部は「いのくに」であったと考えればいいのであり,すなおな御仁はそれで納得されるだろうが,結論もないままに批評を繰り返す知識人は,それだけでは納得されぬことである。
そこで今回,阿波が「いのくに」であった根拠を色々と探してみたいと思う。そして歴史が,曲がってしまった原因がそこにあり,「いのくに」と呼んでいた地域が,阿波と国名を変えたところから,歴史から隠れてしまう原因となったことを最近になって感じ始めたので,次回からは何故,「いのくに」から阿波に変わったかを検証したい。