やっぱり阿波はいのくにだった
その 2 三村 隆範
現在では,倭国を(わのくに)と読んでいるが,古くは,倭国は「いのくに」と読んでいたと思う。まだまだ推測の域ではあるが,古い文献を読んでいると「倭国」は,「イの国」と読んでいったと言わざるをえないので,なぜ倭(イ)を倭(ワ)と読み始めたかを考察していきたい。
西暦57年,後漢の光武帝が倭の奴国王に金印を贈ったという「漢委奴国王印」の話は有名である。
何故,委を“倭(わ)”という言葉に替えて(わ)と読ますのであろうか。
後に,倭(い)を倭(わ)と読ますようになり,(わ)と読む習慣がつき,その後,(わ)が慣用となったため,倭(イ)と書いてあっても,多くの学者が,「委」や倭(wi)は,(ゐ)であるから(わ)であるという,わけのわからぬ理屈づけをして(わ)と読ましてきたのである。
古い史料では,後漢時代の「前漢書」中で,
「〜楽浪海中に倭人あり,分かれて百余国となり,歳時を以て来たり,献見すという〜」という記述があります。楽浪というのは,朝鮮半島の郡の1つです。楽浪郡は,紀元前108年から西暦313年頃まで存在したとされています。
「前漢書」は,後漢の班固(西暦32年〜92年)が編纂したものです。つまり,紀元前後(西暦0年前後)には,既に日本は,“倭(イ)”と呼ばれていたことになります。
中国人は諸外国のそれぞれの国については,そんな印象だけで,簡単に名をつけたりはせず,しっかりと現地の言い方を用いて,その国の名を呼び,記録していたようです。
「当時の日本に住んでいた人が,中国人に対し,国名を聞かれ,『我が国は・・・』といういったことから“倭(わ)”と呼ばれるようになった。」
と一条兼良1402(応永9)-1481(文明13)の「日本書紀纂疏」に書かれている。ほかにも「釈日本記」1301等にも,“倭(わ)” と読んでいたから鎌倉・室町時代は,すでに“倭(わ)”と読んでいたようである。
次回は,“倭(わ)”は,“倭(イ)”であったことを詳しく調べてみたい。
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