古語拾遺の歴史散歩 三木 信夫
大同2年(807年)忌部広成によって書かれた古語拾遺(こごしゅうい)を日本書紀等と比較して読んでいる内に,古語拾遺の出来た経緯とか,当時の時代的背景等に興味を持ち歴史を調べてみました。
(参考) 続日本紀(797年)によれば,文武天皇2年(698年)8月19日の詔(みことのり)で「藤原朝臣(あそみ)賜はりし姓は,その子不比等をして承(う)けしむべし。但し意美麻呂(おみまろ)らは,神事(かみわざ)に供(つかえまつ)れるに縁(よ)りて,旧(もと)の姓に復(かえ)すべし。」とあり,不比等の子孫のみが「藤原」を名乗れ,意美麻呂の流れは「中臣」を名乗れという詔が出され,藤原不比等一族は政治を,中臣意美麻呂系は主に宮廷神事をと,中臣一族の中で祭政分離と氏使用の限定が行われます。政治も祭祀も「まつりごと」ですが,これより祭政一致のまつりごとが始まるのです。もともと氏(うじ)と姓(かばね)は別のものであったのが既にこの時代氏姓は混用されるようになっており,この場合藤原が氏で朝臣が姓です。日本の氏族は,単なる血縁集団ではなく,政治的従属関係で非血縁関係を含む集団なのです。そうした氏族の有力者に対して朝廷が与える尊称が当時の「姓」であり,同属集団のもとを意味するものでした。これは忌部宿禰(いんべすくね)何某(なにがし)というように,氏・姓・名という順序で呼ばれます。現代は姓が無く氏と名のみです。 |
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ウィンダミアのパブにて 天羽 達郎
ロンドン・ヒースロー空港で通関手続きのとき旅行目的は観光で湖水地方に行くと言ったら,あそこは寒いぞと係官に脅された。だがそれ程寒いとは感じなかった。たまたま暖かい日だったのかも知れぬが,埼玉県か茨城県あたりの寒さだ。ロンドンから湖水地方の処点の町ウィンダミアまでは車で北へ約5時間。途中なだらかな丘陸地帯が続き,小雨模様の中でのんびりと羊が牧草を食んでいる。真冬なのに牧草は青々とし,牧場の周囲は低い木の柵が取り囲んでいる。ははあ〜んこれが例の囲い込み運動の柵かと納得する。イギリスで産業革命が始まり,小麦より羊毛のほうが儲かるというので貴族達地主が小作人を追い出して羊を飼い,周囲を柵で囲んだ。迫い出された人々は職を失い,都市に流れて安い労働力を提供することになった。それで一気に産業革命が進んだと聞く。だから柵は羊が乗り越えられない程度の高さでいいわけだ。時々羊の腰のあたりに赤やら青のペンキを塗ってあるのをみかける。ドライバーに聞くと,所有者が複数居る牧場では羊が混じり合っても区別がつくようにしてあるという。ここではなだらかな隆起が延々と続き,山らしい山はない。だから土地がなんだか広く感じる。
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