古語拾遺の歴史散歩  三木 信夫

 大同2年(807年)忌部広成によって書かれた古語拾遺(こごしゅうい)を日本書紀等と比較して読んでいる内に,古語拾遺の出来た経緯とか,当時の時代的背景等に興味を持ち歴史を調べてみました。
 古語拾遺成立の背景は,宮廷の神道界祭祀の職掌をめぐり,忌部(いんべ)氏が中臣(なかとみ)氏と対立している状況下で51代平城(へいぜい)天皇の下問に答えて,忌部広成によって書かれたもので,忌部氏の伝承を中核に,神代から奈良時代までをまとめた歴史書で,愁訴状的自己主張の色合いが強い書です。
 日本後紀(840年)によると平城天皇の大同元年(806年)8月10日には,伊勢神宮への幣帛使をめぐる対立で{是より先,中臣と忌部の両氏が相訴えて争い,中臣氏の側は,忌部氏はもと幣帛(へいはく)をつくっていただけで,祝詞(のりと)を奏上したのは中臣氏であると主張し,忌部氏の側は,「奉幣祈祷」は「是,忌部の職」であるとして,忌部氏を幣帛使,中臣氏を祓使とするように主張した}と記されています。このときは,「宜しく常の祀(まつり)の外,奉幣の使いは両氏を取用して,必ず相半ばに当(あ)つべし,自余の事は,専ら令条に依れ。」と勅裁されています。しかし,既に宮廷神道の体制は中臣氏に抑えられていました。
 もともと忌部氏は中臣氏と共に朝廷の神事・祭祀を掌(つかさど)っていました。
 日本書紀(720年)本文の天石窟(あまのいわや)の所で,忌部の祖先太玉命(ふとたまのみこと)と中臣の祖先天児屋命(あめのこやねのみこと)が「相ともにのみ祈祷(いのりまう)す」とあり,忌部と中臣は対等に描写されています。しかし,記・紀に記載される太玉命には,「天」がつけられておらず,書かれた平安時代には,忌部氏は既に衰退していて中臣氏に差をつけられ,中臣神道が日本の宮廷神道をリードしてその元に,古代においては固有の祭祀文化を持っていた忌部神道が入った形態で扱われています。既に41代持統天皇の頃には中臣氏は壽詞(よごと)を奏上し,忌部氏は祭祀官として,供物,祭祀具等を忌部一族が作るという事になっています。しかもだんだんと忌部氏は除外されるのですが,大嘗祭のみは後世まで阿波国忌部氏が調製奉仕して,麁服(あらたえ)は現代まで続いています。
 中臣氏の歴史をみますと,中臣氏は大化改新で功のあった中臣鎌足によって政治的地位が上がり,同時に祭祀上の地位も上がっていくのです。鎌足が死の直前に「藤原」の姓を賜り,鎌足の次子不比等(ふひと)は,娘宮子を軽皇子(後の42代文武天皇)の妃とし,同じく娘安宿媛(あすかべひめ)(=光明子)を宮子の首皇子(後の45代聖武天皇)の妃(後の光明皇后)として天皇家の外戚となるのです。


41代持統天皇=天武后

43代元明天皇=草壁妃


(参考)

 続日本紀(797年)によれば,文武天皇2年(698年)8月19日の詔(みことのり)で「藤原朝臣(あそみ)賜はりし姓は,その子不比等をして承(う)けしむべし。但し意美麻呂(おみまろ)らは,神事(かみわざ)に供(つかえまつ)れるに縁(よ)りて,旧(もと)の姓に復(かえ)すべし。」とあり,不比等の子孫のみが「藤原」を名乗れ,意美麻呂の流れは「中臣」を名乗れという詔が出され,藤原不比等一族は政治を,中臣意美麻呂系は主に宮廷神事をと,中臣一族の中で祭政分離と氏使用の限定が行われます。政治も祭祀も「まつりごと」ですが,これより祭政一致のまつりごとが始まるのです。もともと氏(うじ)と姓(かばね)は別のものであったのが既にこの時代氏姓は混用されるようになっており,この場合藤原が氏で朝臣が姓です。日本の氏族は,単なる血縁集団ではなく,政治的従属関係で非血縁関係を含む集団なのです。そうした氏族の有力者に対して朝廷が与える尊称が当時の「姓」であり,同属集団のもとを意味するものでした。これは忌部宿禰(いんべすくね)何某(なにがし)というように,氏・姓・名という順序で呼ばれます。現代は姓が無く氏と名のみです。
 藤原家は不比等の子4人によって北家(ほっけ),南家(なんけ),式家(しきけ),京家(きょうけ)に分かれ,北家が摂関家の中心となり,鎌倉時代に北家より近衛,鷹司,一条,二条,九条の五摂家(=摂政・関白に任ぜられる家柄)が生まれ,藤原氏が貴族の中心となるのです。

ウィンダミアのパブにて     天羽 達郎

 ロンドン・ヒースロー空港で通関手続きのとき旅行目的は観光で湖水地方に行くと言ったら,あそこは寒いぞと係官に脅された。だがそれ程寒いとは感じなかった。たまたま暖かい日だったのかも知れぬが,埼玉県か茨城県あたりの寒さだ。ロンドンから湖水地方の処点の町ウィンダミアまでは車で北へ約5時間。途中なだらかな丘陸地帯が続き,小雨模様の中でのんびりと羊が牧草を食んでいる。真冬なのに牧草は青々とし,牧場の周囲は低い木の柵が取り囲んでいる。ははあ〜んこれが例の囲い込み運動の柵かと納得する。イギリスで産業革命が始まり,小麦より羊毛のほうが儲かるというので貴族達地主が小作人を追い出して羊を飼い,周囲を柵で囲んだ。迫い出された人々は職を失い,都市に流れて安い労働力を提供することになった。それで一気に産業革命が進んだと聞く。だから柵は羊が乗り越えられない程度の高さでいいわけだ。時々羊の腰のあたりに赤やら青のペンキを塗ってあるのをみかける。ドライバーに聞くと,所有者が複数居る牧場では羊が混じり合っても区別がつくようにしてあるという。ここではなだらかな隆起が延々と続き,山らしい山はない。だから土地がなんだか広く感じる。
 小雨降るなかウィンダミアについた。石畳の道がゆるいスロープを作り,写真に見るようなスレートを積み上げた家が建ち並び,美しい町であった。ホテルで傘を借り繁華街を一巡した。途中年配の方に銀行の場所をきいた。親切に教えてくれたが,英語がよく聞きとれない。たしかこのメインの道を真っ直ぐ行き、右に折れた坂道を下りたところのコーナーにあると言ったようだ。しかし坂道を下りるとそこからは道が細くなり、複雑に入り組んで蜘蛛の巣状になっていて,至る所にコーナーがある。どのコーナーのことだか分からない。うろうろしながら品のよい老婦人にもう1回きいた。そしたら指差して,この道を越えたすぐ向こうのコーナーにあるという。あったあった小さな銀行が。日本の銀行をイメージしていると見過ごしてしまいそうだ。どこか工場の事務所を思わせるような銀行で,カウンターは天井まで厚いガラスで仕切られ完全に客と中とは分けられて居る。従業員は手だけ出せるガラスの穴から対応する。セキュリティに対する態度が日本とは違うなと思った。しかし職員の愛想はよい。円をポンドに替えた。娘達は初めから別行動でブティックなどを見て歩いているが,私は歩き疲れたので丈君とパブに入った。1階は20人も入れば満杯になるパブで2階はレストラン,3階は小さな宴会場とトイレになっていた。中は意外と暑い,ウェートレスにはノースリーブの子も居る。我々は1階のカウンター前のテーブルに陣取り,私は生ビール丈君はコーラを頼んだ。料理は頼んだがなかなか出てこない。見ると2階のレストランに料理をオーダーし出来上がると階段を上がっておねえちゃんが取りに行く。遅いはずだ。反対に生ビールはカウンターで入れるから注文するとすぐ出てくる。と,そこに若いカップルが入ってきて私の斜め前方の席についた。向かい合わせて坐るのでなく同じ列の椅子に並んで坐った。こちらを向いている。女の子はボインボインのグラーマーちゃん。坐ったとたん二人はイチャイチャ,イチャイチャし始めた。パブは老人夫婦や若者たち,それに年配のひとなどが午後のひとときを楽しんでいた。が,そこに居合わせた人達はそんなことには全然平気で知らん顔をしている。しかし私には位置的関係で自然にそれが視野に入ってくる。あたまにきますねぇ〜。
   “One more beer please!”
 ビールはすぐ来る,料理はこない。段々と杯を重ね,悪酔いをしてしまった。