古語拾遺の歴史散歩(その2) 三木 信夫
古語拾遺は,平城(へいぜい)天皇の召問により大同2年(807年)斎部広成が祭祀関係の氏族である忌部氏の歴史と職掌をまとめ撰上したものです。
この撰者である斎部広成は,日本後記(840年)によると大同3年11月17日に「従五位下」に叙せられていますので,古語拾遺成立の頃は,「正六位上」であったはずです。今回はこの授位の位階について調べてみました。
位階は,古代朝廷の官人の地位や序列を示すもので,603年聖徳太子の冠位十二階に始まり,次第に細分化されましたが,新位階が制定された大宝元年(701年)の大宝律令やその後の天平宝字元年(757年)施行の養老律令の官位令で整備されました。親王は4階(一品〜四品)・諸王は14階(正一位〜従五位下)・諸臣は30階(正一位〜少初位下)に分類されています。姓(かばね)は氏族の有力者に対して,朝廷が与える尊称ですが,位階は姓と異なって,個人に授与され,功労によって昇進して,その位階に相当する官職に任じられたものです。しかし官人で位階があっても官職が無い人を散位(さんい)といいますが,この場合は散位寮(さんいりょう)という溜まり場へ出勤すればよかったようです。官人に対する給与は,位階と官職に応じた季禄(=奉禄)が規定されています。大宝令制の給与表(末尾参照)を見ますと,五位以上と六位以下では待遇に大きな差があり,五位以上は位階に対して位田・位封・位禄・従者等が支給される特別待遇となっており,官職に就けば別に奉禄が支給される仕組みになっています。律令は,五位以上の者の子孫に対して,父祖の地位を継ぎやすいように,様々な得典を与えておりますが,そのような家の系譜は,みな大化改新以前からの有名な豪族の一族ばかりでした。時代により気前よく五位以上の位階を出すときと,引き締めるときがありばらつきがあります。702年の大宝律令施行当時は,続日本紀によると125人(正二位1人,従二位1人,正三位2人,従三位2人,諸王14人,四位〜五位の諸臣105人)でしたが,かなり気前のよかった称徳天皇の時代(764〜770年)は,続日本紀でみると五位以上が約三百数十人(東大史料編纂所土田直鎮〈つちだなおしげ〉氏)居たとのことです。
奈良時代は,人口六百万人,中央の役人約一万人,五位以上百数十人,この五位以上のなかの三位以上で大臣・納言・参議等の公卿十数人が政策を審議して,日本を抑えていたのです。
五位以上の特典をおおよそ箇条書きにすると次のようになります。
1.五位〜四位は位録(大蔵省より現物支給)が年1回支給され,三位〜一位は位封が支給される。706年の改正で,正・従四位は位封に切り替えられた。六位以下なし。
2.位田が支給される。六位以下なし。
3.位分資人(=従者)が支給される。六位以下なし。初位以下一般の庶民から採用する。一品から四品までの皇子・皇女場合は特に帳内(ちょうない)といって六位以下の官人の子弟から選ぶ。
4.税の免除。五位〜四位は本人とその親子,三位以上は本人と親子・祖父・兄弟・孫まで免除。六位以下は本人のみ,初位は調だけ取られる。
5.裁判でも三位以上は天皇に連絡しながら審議する。三位以上の祖父母・伯父伯母・姪甥・子・孫までと,五位〜四位の本人は請(しょう=減刑嘆願)の特典がある。又贖(しょく=銅を納めて罪をあがなう)という特権があり,この贖銅は八位以上の父母・妻子に限定。
6.蔭位(おんい)の制度。父祖と同じ地位に昇りやすい仕掛の制度である。五位〜四位は子まで,三位以上は孫まで仕官のさい最初から高い位階を授与される仕組み。(下表参照)六位以下なし。たとえば地方の国学から中央の大学まで長年月勉強して国家試験を通った場合でも最高は正八位上である。
蔭位(おんい)制度(嫡子は長男,庶子は次男以下のこと)
父祖の位階
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嫡 子
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庶 子
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嫡 孫
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庶 孫
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従 五 位
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従八位上
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従八位下
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―
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―
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正 五 位
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正八位下
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従八位上
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―
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―
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従 四 位
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従七位上
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従七位下
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―
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―
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正 四 位
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正七位下
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従七位上
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―
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―
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三 位
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従六位上
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従六位下
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従六位下
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正七位上
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二 位
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正六位下
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従六位上
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従六位上
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従六位下
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一 位
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従五位下
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正六位上
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正六位上
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正六位下
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位封と位禄の違いは,位封等を授けられた三位以上の封主(ふうしゅ)が,封戸(ふこ)の納める租(そ)・庸(よう)・調(ちょう)などの現物納の租税を,その国の国司からそのまま受取るもので,位禄は租税の「あしぎぬ・綿(わた=楮わたやまわた)・布・庸布」の現物を大蔵省の蔵から支給され受取るものです。
(注)
租は位田・職田などの田から収穫の一部を現物納(収穫の約3%)
庸は成年男子1人につき布2丈6尺または米6斗
調は田調と戸調。7世紀末から成年男子の人頭税とし土地の産物徴収。
五位以上の位階に対する支給は,勤務に関係なく一生確保されているのに対して,勤務していないと支給されないのが季禄(きろく=奉禄)です。毎年二月上旬と八月上旬の二回に分けて「あしぎぬ・綿(わた)・布・鍬」を大蔵省の倉庫から支給されます。位階のない人々は衣食と多少の手当だけでした。位階「給与表の2」のように官位の昇進と共に五位以上の手当ては飛躍的に増大しています。特に大臣と大納言は別格で,季禄の代わりに「職田・職封・職分資人」が在職中支給されます。
大宝令の給与表の2
官 職
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職 田(町)
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職 封(戸)
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職分資人(人)
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太政大臣
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40
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3000
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300
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左右大臣
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30
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2000
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200
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大納言
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20
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800
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100
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(中納言
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―
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200
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30)
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続日本紀に称徳天皇の天平神護元年(765年)正月7日改元のための昇叙で従五位下忌部ひ登隅(ひとすみ=須美とも)が従五位上となっています(これは阿波国麻殖郡の人で,次の神護景雲2年に出てきます)。しかしこのとき正六位上の人達は昇叙されず,「例(ためし)によりて物を賜う」とあり。昇叙すると従五位下となり貴族に列せられるのですが,財政とか家筋等の問題があったのかも分かりません。正六位上もしくはそれ以上の者を昇叙させなかった過去の例では,元明天皇和銅元年正月(708年)の改元の場合と,孝謙天皇天平宝字元年(757年)4月の大炊(おおひ)王立太子の場合があります。
ふりかえって阿波国の忌部氏についての位階の記録をみますと,続日本紀に称徳天皇の神護景雲2年(768年)7月14日「阿波国麻殖郡の人外従七位下忌部連方麿・従五位上忌部連須美ら十一人に姓(かばね)宿禰(すくね)を賜う。大初位(だいそい)下忌部越麿ら十四人に姓連(むらじ)を賜う。」とあります。これは八色姓(やくさのかばね)の上位から3番目の宿禰と,7番目の連を与えられた記録です。既に天太玉命系の忌部氏は,首(おびと)の姓から天武9年正月に連(むらじ)の姓を,同13年12月に宿禰(すくね)の姓を賜っています。今回は阿波忌部系への賜姓と考えられます。
姓は氏族の有力者に対して朝廷が与える尊称でしたが,氏が分裂して家で政治的地位が分かれることになって自然消滅するのです。
律令制の位階は,中央の官人等にくれるのは普通の位階で「内位(ないい)」といいますが,地方官の郡司以下には位階の上に外(げ)の字がついた「外位(げい)」(20階=外正五位上〜外少初位下まで)を与えることにして,待遇上も差別していました。外位で中央の官職につく場合,同等内位よりも3〜4階程低くなっています。
ここで注意しなければならないのは,この麻殖郡の忌部連須美が従五位上に叙せられていることです。当時は日本で三百数十人の貴族の一人であり,宮中の宴でも必ず五位以上が呼ばれ参内出来るのです。これをみても麻殖忌部氏が,京師在住の忌部氏を凌駕するほどの位階に叙せられていた事です。
今までの史家は姓については触れていますが,なぜか位階については触れておりません。京師在住忌部氏の最高位階を続日本記で調べてみますと,文武天皇大宝元年6月2日「正五位上忌部宿禰色布知(しこふち)卒。詔して従四位上を送り賜う。壬申の年の功を以てなり。」とあり,「正五位上」が最高です。色布知は,持統4年(690年)正月,持統天皇の即位にあたり神璽鏡剣を奉上しています。以後,忌部氏の位階は大体「従五位下」前後どまりのようです。
神祇官では,長官(かみ)の伯が従四位下,次官(すけ)の大副(たいふ)が従五位下,少副(しよう)が正六位上,判官(じょう)の大祐(だいじょう)が従六位上,少祐(しょうじょう)が従六位下,等になっています。神祇官の慣例としてこれらは大中臣・忌部・卜部のうちから任ずることになっていて,京師在住の忌部氏が,「副(すけ)」(神祇官の第二位)あるいは「祐(じょう)」(神祇官の第三位)に任命されています。
「従五位上」の主な特典(従五位下と同じ)を列記すると
(1)位禄(あしぎぬ4疋・綿4屯・布29端・庸布180常),年1回
(2)位田 8町
(3)位分資人(=従者)20人
(4)免税 本人とその親子
(5)蔭位 長男=従八位上,次男以下=従八位下
(6)裁判 減刑嘆願の特典等
「従五位上」で官職についた場合(当然従五位下との差があります)
国司の場合は大国の守(=長官)
太政官では少納言以上クラス
中央官庁の場合はおおよそ次官クラス
近衛では,少将・中将クラス
兵衛府の長官
以上
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