「新緑の中のドライブ」 大西 雅子
昨日も天気が良くて一人で出かけました。多家良町の立岩神社のご神体を写真に撮って佐那河内村を通って神山に向かいました。
途中の道は通れなくなっていて,迂回の道が2箇所ありました。狭い山道です。ゴールデンウィークでもこんなところにはだれも来ないのでしょう。対向する車は一台もありませんでした。
神一宮大粟神社に行くと,拝殿の中に一人のお嬢さんがいました。私も上に上がっていろいろな話しをしました。とても古神道に詳しくて,興味深い話をいっぱい聞かせてくれました。子供のときは巫女さんをしていたそうです。元山の立岩神社の山の持ち主だといいました。
古事記の話の裏の話にも詳しくてもっと話していたかったけれど遅くならないように「またね」と言って,その時教えてもらった大久保の大銀杏のそばにあるという須佐之男命を祀ってあるという神社を探しに行きました。
今はほったらかしになっている神社だそうです。すぐにわかると言いましたが見つからず次にしようとそのまま立岩神社を訪ね,大川原高原を通って帰りました。
大川原高原に向かう途中で水波能売神(みつはのめのかみ)を祀ったちいさな祠が小さな谷川の側にありました。ちゃんと新しい鳥居も石碑も出来ていました。水波能売神はヒノカグツチの神を生んだために病気になったイザナミの小便(ゆまり)から生まれた神で水の神様です。写真を撮りました。
天のタジカラヲの塚のところを通るかしらと思いながら走りましたがわかりませんでした。山は若葉が美しくてほんとうに気持ちのいいドライブでした。
またいつか上一宮大粟神社であのお嬢さんに会えたらいいなと思います。
今日もにこにこにっこりありがとう(^_^)ニコニコです。
|
スポーツ吹矢講習会に参加して 芝山 靖二
以前から腹式呼吸に強い関心を持っていました。徳島新聞の紹介記事にその腹式呼吸に非常に良いとのことが載っていました。主宰している人(小松島市立江町,中山治さん)を以前から知っている人でもあったので5月14日(土)17時より小松島市立江町の「ふれあいセンター立江」へ行ってきました。
7時前に行くと二人の人がいて的を立てたり線を引いたり会場設営をしていました。しばらくすると約15名ほどのおじさんおばさん(50才台から60才台の人)がやってきました。中山さん(日本吹矢協会公認指導員)の指導の下,まずは「吹矢讃歌」の合唱から始まりました。吹矢を持っての体操をして,いよいよ吹矢の指導をしてもらいました。矢を放つ時だけ息を吐くのでは,たいして腹式呼吸にならないと思っていましたが,矢を放つ前に一連の仕儀がありその時点で精神集中のため,的に向かって細く長く息を吐き一揆に鼻から息を吸って的を射ます。当然その事を何度も何度も繰り返しすることになります。その事により,腹筋が鍛えられ,内臓が活性化さる効果や,ストレス解消にも役立つと言います。また矢を正確に当てるためには集中しなければならないため集中力も養えます。これからの高齢化社会,若い人だけでなく高齢者にも出来て健康にもよく,体力のない方でも手軽に始められる非常に良いスポーツと実感しました。毎週水曜と土曜の二回,皆で和気あいあいに,練習しているそうです。興味のあるかたは,どなたでも奮ってご参加くださいとのことでした。
|
「心の中の四大聖人」【4】お釈迦さま 坂本 眞人
4月8日は,お釈迦さまの誕生日です。「花祭り」「仏生会(ぶっしょうえ)」「灌仏会(かんぶつえ)」「降誕会(こうたんえ)」ともいいます。阿南市宝田町の隆禅寺(りゅうぜんじ)では,毎年この日に甘茶(あまちゃ)をたき出して,お分けしております。お釈迦さまがお生まれになられたとき,甘露(かんろ)の法雨(ほうう)が降ったといういわれから,この日に甘茶を,花御堂(はなみどう)(花で飾った小さなお堂)の中の,お釈迦さまの小さな誕生仏にかけるのです。昔は今のように甘いものが少なく,1升ビンや5合ビンや1合ビンに甘茶を入れてもらいにお寺に行く習慣がありました。近頃では,2〜3人の人しか甘茶をもらいに来ません。
約二千五百年も前に,インドのシャーキャ(釈迦)族の王子として生まれた仏教の開祖ゴータマ・シッダッタ(お釈迦さま)は,人生の問題に悩み,29才で家族を捨て出家した。その後苦行したり,瞑想したりして,ついに35才で悟りを開き,ブッダ(仏陀,覚者)となった。以後45年間,教団の組織,指導と,在家信者の教化に努め,クシナガラにおいて,80才で入滅した(涅槃に入った)。
それでは,お釈迦さまは何を悟り,何を教化したのでしょうか。
仏教の用語に,「自灯明(じとうみょう)」「法灯明(ほうとうみょう)」というのがあります。「自分自身を大切にし,自分をより所とし,自分自身を希望の灯(ともしび)とする」「天上天下唯我独尊,自己の尊厳,真の自尊心」一方「諸行無常,万物流転,生々流転,会者定理」がある。大宇宙の法則をより所とし,自分自身は大宇宙からすればまるでチリか何かのかけらのようなものであるけれども,大宇宙をも考えることができる。ここに,大宇宙である(阿,ア,a)(大日如来)と,小宇宙の一つである自分は,つながっている,と思える。「一即多(いちそくた),多即一(たそくいち)」と思える。大宇宙の大日如来と,小宇宙の自分は実は一体なのだ。お釈迦さまは,大きな大きな宇宙の法をかい間見て,自分自身とこの世はほんとうに甘美であり,充実しているのだなぁと思ったのではないでしょうか?
|
やるきの気 小林 金吾
気という文字のつかい方は多岐にわたる。その解釈も様々である。しかし気がひとつの力であるということは,誰しもが認めるところである。「気」を使った言葉は非常に多い。運気,天気,陽気,陰気,元気,気力,強気,いや気,弱気,病気……など,多くある。
目には見えないが,気というものはあらゆるものに存在する。気はひとつのパワーとして作用し,生々流転,輪廻転生を繰り返していく。中国の気功も関心と注目の的となっているが,仏教,道教,宗教などでルーツとするもので,根源とする。「気運」という言葉がある様に,気のはたらきによって「気」も決まってくる。
要するに,気というものの使い方にて「運」「不運」が決まるわけである。
いわゆる,やる気,いや気にて私達の幸,不幸,運,不運,その人のもつ心に起因するが,その心の姿勢を支えるのが気である。「不運」を「幸運」に転換させるのも,この気なのである。気の病,すなわち病気から脱却するのも,元気になるのも,この気の働きである。
家を建築する気のない人に家が建つはずがない。なにが心の中で○○しようと思えばその気になり,意識的に行動してそのものに考えが及び潜在意識が行動して求めるものが「生」ずるのであり,なにか困ったとき解決せねばと思う気があれば自分なりに思い考えて行動して又頼れる人に指導を願い,アドバイスを受けて行動すればものことは良き方へと運ぶものである。何がしてもらった,教えを受けたからと感謝する気があれば,どのようにしようかと思う心が気であり,金銭でするか物にてするかなんでもするか即ち財施,物施,労施である。
「運」は運であり,運ぶにある。気がなければものごとに前進もなければ運もはこびも近づくまい。それゆえにこの「気を巧み」に活用したものが運が運ばれて幸運の主であり,人生の勝利者になりうるといえまいか。
|