阿波の忌部               三木 信夫

 阿波の国は忌部(いんべ)氏が開拓したといわれています。この阿波忌部氏のルーツは古く,日本書紀神代上第7段宝鏡開始章第三の一書(いっしょ)に,日神のこもる天石窟(あめのいわや)のまえで「・・・下枝には,粟国(阿波)の忌部の遠祖天日鷲命(あめのひわしのみこと)が作れる木棉(ゆう)を懸け・・・」とあり,阿波忌部氏はこの天日鷲命を祖としています。忌部氏は中臣氏と並ぶ大族で,共に朝廷の祭祀に奉仕してきています。なかでも阿波国麻殖忌部の重要な役割は,上古以来天皇が即位後初めて行う一世一度の大嘗祭にのみ,「あらたえ(麁服)」として調製供納する麻織物で,神衣(かむそ)として神座にまつられるものです。更に麁服とは別に延喜式に定められた「由加物」の献上もありました。当初はその都度ト定により御殿人(みあらかんど)として指名された忌部達で「あらたえ神服(かむみそ)」を織って貢進していたのが,鎌倉時代になると御殿人は家筋もほぼ固定してくるのです。
 大嘗祭も平安末期より漸次皇室の式微と共に次第に簡略化されてきました。
 阿波忌部氏の麁服貢進は,南北朝動乱で暦應元年(1338年)光明天皇を最後に大正4年(1915年)迄577年途絶えました。その後古例により復活して大正・昭和・平成と麻植忌部の長者をも勤めた末商三木家と忌部の末商達が「あらたえ」を調製供納して,上古以来の伝統文化を現代に受け継いでいるのです。

 淡路島のイザナギ神社  大西 雅子

 6月5日,午後から淡路島をめざして出発です。阿波地名研究会のメンバー3人連れです。古事記に「イザナギの命は淡海の多賀に坐す」と書かれる多賀のイザナギ神社をめざしました。イザナギ神社に隣接して,ちゃんと多賀小学校がありました。
 高速道路を降りてイザナギ神社までの道には石灯籠が立ち並び,りっぱな神社という感じがします。
 徳島の舞中島にはイザナギの命の奥さんの神社であるイザナミ神社がありますがこの神社は,ひっそりとした神社です。同じ延喜式内社なのに随分違います。
 この淡路島のイザナギ神社は1700年頃にイザナギの命の古墳の調査が行われ,その上に建てられたものと,言われています。
 宮司さんに聞くと,本殿の下に古墳の石があり,垣根の隙間から見ることが出来ると言いました。本殿の周りをぐるぐる回って,探しますと,ありました。
 一抱えくらいの石が床の下にたくさん押し込んでありました。イザナギの命を葬った場所の上に神社を建てたというのは本当だったのです。
 イザナギ神社に行ったあとはオノゴロ島と呼ばれる絵島,次に,先山の千光寺を見て帰りました。

日本の未来はWow×4・・・ 広永 敏巳

 先日,母(76歳)が朝の散歩の途中,コンビニによって買い物をしたそうです。すると,レジの女の子が間違いをしたらしく,家まであと少しというところで,後ろから追いかけてきた店員さんに,店まで連れ戻されたそうです。その訳は・・・。店員さんがお釣りと購入額を勘違いし,少ないお釣りの方を売上に,購入金額をお釣りとして母に返してしまったようなのです。
 「じゃ,先ほどもらったお釣りを全部お返ししますから,新たにお釣りをください。」と母が言うと,なんと,レジの前で固まってしまったそうなのです。「オーバーヒート」? (エッ,こんなことで?!と,母もあっけにとられたそうです。)それっきり,レジの前で動きが止まった店員さん。朝の忙しい時間帯でもあり,レジの前には何人ものお客さんが待たされることに・・・。それを見かねた店長さん,結局レジを替わって,「お客さんのおっしゃるとおりじゃないか。早くしてあげなさい。」と,自ら取って代わって対応してくださったそうです。
 私の職場でも経験があります。パソコンの前で急に固まったかと思うと,すっと立ち上がってどこかへ消えていく女子職員。しばらくして,「すみません。私のパソコン,ヘンなんですけど。」って,「いうじゃなーい!」「パソコンじゃなくって,あなたが消したファイル,それ私のなんですけど!」「残念!!」

中国の反日暴動はやはり官製だった。
しかし思わぬ動きに。
   天羽 達郎

 4月の反日暴動は5月に入ってぴたり止まった。政府がとめた。ということは,あれは党公認の半官半民の暴動だったと白状したようなものだ。しかしその後の動きはおかしなものになってきた。折からのバンドンのアジア・アフリカ首脳会議に出席した胡錦涛首席は各国首脳に『中国は本当に大丈不夫かね。オリンピックなんかできるのかね。』と深刻な懸念を表明され,強い危機感をもった。そこで中国政府はあわてて『社会の安定の維持』と『日中関係の維持』を旨とする大掛かりな教育宣伝キャンペーンを開始した。新聞テレビでは『開放時代の愛国主義には理性が必要』『日中友好は両国人民のためになる』『日中友好の4つの理由』などのタイトルで,知日派の研究者を動員して,連日集中攻撃的な宣伝キャンペーンに乗り出した。一方では警察力による反日運動の封じ込めも行った。『反日』というテーマは『日中友好の維持』の言説によって取り消され,愛国英雄であったはずのデモのリーダーたちは『騒ぎを起こして国の安定を破壊した』という罪を着せられ逮捕されあるいは追われる身になった。ほんの2週間前に過激に日本批判を展開しておいて,掌を返した様に日中友好の大切さを訴えても,運動をやった連中の考えや感情にはなんの変化もない。むしろ政府のご都合主義に腹を立てるだけだ。反日という外向きの騒ぎはいまや完全に中国の内政問題すなわち下から起こった群衆運動と上から押さえ付けようとする政権側との対立つまり『国内闘争』となってしまった。
 中国共産党幹部での合い言葉は『いつまで』だそうだ。いつまで俺たちの世が持つのだろうかという意味だ。彼らは共産党一党独裁が何時までも続かないことを自覚している。だから反日暴動が過激になり不満の矛先が自分達に向けられることを極端に恐れている。いままで日本のちょっとした行動にも『わが中国人民の尊厳と感情をひどく傷つけた』と激しく抗議しているが,裏を返せば『そういうことをしてくれるな』という意味だ。もし日本の誰かが『ひどく傷つける』ことをしたらどうだろう。反日暴動が再燃し『国内闘争』は大規模なものに発展する。暴民は『愛国主義』『愛国無罪』の大義名分を持っているから極めて厄介。そのとき政府には群衆の暴動を押さえ込む自信はない。まさに悪夢だ。その『ひどく傷つける』こととはなんだろう。『靖国問題』である。中国の本音は『小泉さんたのむから』であるが,そこは偉そうに激しく『絶対に』と言わなければ胡錦涛首席は政権の座を追われるという。5月22日同国民党幹事長らが北京を訪れたとき,ランクが下の彼らには胡首席が会わなくても別に不思議はないが,あえて彼らに会った。しかも国会開会中で休日しか日程が取れないという日本側の事情に合わせて会談に応じた。会談の要点は『高官の靖国参拝を止めてくれ』であった。中国メディアは会談があったことは報道したが胡首席が靖国参拝に言及したことは一切報じていない。靖国の『や』の字もでない徹底した発言隠しである。それほどにも彼らは反日暴動の再燃を恐れている。だから日本のマスコミを動員し,反小泉の政治家を懐柔し経済人に圧力を掛け,靖国反対の大合唱をさせている。が,小泉首相は平然と無視しているようだ。

(長谷川慶太郎ニューズレター,Voice7月号'05:石平(せきへい)氏のレポートより)。