阿波忌部氏直系の三木家住宅 三木 信夫

 三木家は剣山に連なる山の中腹,国道492号線より車道を3.5km登った三木山の頂上近い一帯を占める屋敷地(海抜552m)にある。
 三木家はその住宅も古いが,家に関する歴史も非常に古い。ここはもと旧麻植(おえ)郡三ツ木村で,三木氏は阿波忌部(いんべ)氏の直系であって,三ツ木という地名に因む苗字を帯びているが,忌部姓がその本姓であった。
 阿波忌部の史料は,「日本書紀の神代・上・宝鏡開始の章」まで遡る。斎部廣成撰「古語拾遺」によると,忌部(斎部(いんべ)とも記す)氏はもと中臣氏とも並ぶ大族で,共に朝廷の神祭に奉仕してきた。その宗家は天太玉命の子孫と伝え京師にあって皇室の神事に仕えた。阿波忌部は,日神の天石磐閉(あまのいはやこも)りで忌部の祖神である天太玉命と共に活躍した天日鷲命を祖とし,麻の播殖等に従事し,その居住の中心域はこれに因んで麻殖の郡名を負うに至った。その中心地には式内大社忌部神社が比定されており,重要な地位を占めていた事がうかがえる。阿波忌部は,狭義にとられるときは麻殖忌部とも呼ばれる。
 この忌部三木氏は上古以来歴代の践祚大嘗祭に「御衣御殿人(みそみあらかんど)」として,麁服(あらたえ)を貢進して,朝廷と深いつながりを持っていた。麁服(あらたえ)とは,天皇が即位後初めて行う践祚大嘗祭の時のみ,阿波忌部の氏人が調製・供納する麻織物で,天皇が神衣(かむそ)としてまつられるものである。
 三木家には,この様子を伝える鎌倉時代から南北朝時代に至る太政官符,官宣旨の写し等の古文書を保有している。麁服貢進は,南北朝動乱に至り以降中断していたが,復活して大正・昭和の大嘗祭にその任を果しており,平成の大嘗祭は,地域等の大勢の方々の物心両面での支援と協力で麁服を調進している。
 三木氏は鎌倉中期頃には,地頭職を勤める等その基盤は鎌倉時代に整えられており,戦国時代末期まで武士団の長として活躍した。特に,南北朝時代には,剣山を中心とする山岳武士の頭領として大きな勢力を有し,南朝に忠節を尽くし38年余その節を曲げなかった。特に最後まで守護細川氏に抵抗した武士は,三木氏・木屋平氏・祖谷山の徳善氏・菅生氏・落合氏・小川氏・西山氏・喜多氏・渡辺氏でこれを総称して「阿波山岳武士」と称された。三木家にはそれを証する安堵(あんど)状・後村上天皇論旨などの南朝文書や北朝方の諸文書を保有。これら中世文書45通は県の文化財に指定されている。当時の支配地は,旧三木村,旧中村山,高越寺庄内西の庄,1370年細川氏より割譲を受けた名東庄内(現徳島市名東町一帯)等で検断権を持っていた。
 江戸時代には,苗字帯刀で御目見得庄屋役を勤めるなどしている。
 現存する三木家住宅は,その子孫の居住する住宅で,1650年頃の建築で徳島県最古の民家である。建物は南に面し,裄行22.2m,梁間9.3m,寄棟造,茅葺で,南面・西面及び北面庇付亜鉛引鉄板葺である。平面は,室をほぼ棟通りで前後に区分し,それぞれ5列に区切る。当初は西側1列目,間口2間の台所土間と床上8室からなる整形8間取り構造で,鍵座敷を形成し,前面に内エンがある。現在は西側より2列目の前側が土間に改造され7間である。鍵座敷は「天狗の間」(又の名を「入らずの間」)と云い,昔より伝説が言い伝えられ,当主しか入れない部屋となっている。大黒柱が無く,柱は17cm角の釿仕上げの太いものでほぼ1間毎に立つ。建築年代が古いにもかかわらず,全体に開口部が非常に多く壁が少ない事で,前面及び上手側面の柱間は全て建具が入り開口となる大規模な家であり,しかも保存状態がよく,中世山岳武士の系譜をひく遺構としてきわめて価値が高いとして,昭和51年2月3日国より重要文化財の指定を受けた。箱入りの棟札は,腐朽して判読出来ない。学術的に今回,炭素年代測定法により建築年代を測定したいとの申出があり実施の予定である。
 現在の木屋平は,人口減少に伴う過疎化スパイラルの中にあって,暮らしの基盤不備や,山林や農地の荒廃等の危機に直面しているなかで,管理や整備等で年間4分の3在住しているが,やはり民家は住む事が活用で留守中の抜け殻の様な家が,生き生きとした暖かみを醸し歴史を語りかけてくる。

すわ大地震?!     天羽 達郎

 赤穂義士四十七士が葬られている東京は芝の増上寺で,私の師匠中山恒明先生の大学葬が7月23日行われた。6月20日94歳でご逝去。すでに近親者のみの密葬が行われていたので今回は献花方式によるお別れ会にするとのこと。あまり暑くはないが曇り模様のむしむしする日だった。
 献花を済ませ新宿のホテルに行った時,突然床がふわっと浮くような感じがして建物が大きく揺れた。地震だ! 大正12年9月1日の関東大震災から数えて,もうそろそろ2回目が来てもおかしくない時期だ。みんなパニックになった。しかし揺れはそんなには続かず,余震がちょっときただけだった。震度4ぐらいかなと思った。地下1階のロビーから自分の部屋に行こうとしてエレベーターのスイッチを押したが反応がない。ボーイさんに聞くと地震でエレベーターが自動的に止まり,業者が来て点検してからでないと動かない。しかし何時に動くかわからないとの返事。階段で1階に上がると,エレベーターの前で台湾人らしき人達がスイッチを押しながら騒がしく喚きたてていた。玄関を出ると中年のご婦人が携帯電話で『わたしの部屋は17階なのよ。エレベーターが動かなくて,どうやって上がれって言うの!』と誰かと話していた。近くをみたが道を歩いている人は平気な顔をしている。道路にいた人はあまり衝撃を受けなかったらしい。町のそこいらを見て回りしばらくしてホテルに戻ったがエレベーターはまだ動いていない。みると女性用トイレにはご婦人方がずらーっと長い列を作っていた。これは駄目だと思い知り合いの寿司屋に行った。客は誰もいない。板前のお兄ちゃんは僕の顔を見た途端『怖かったですよー。』,仲居のおばさんも『わたしはね,カウンターにしがみついたのですよー,震度4なんて初めてです』岩手県出身らしい。
 テレビを見ると震源地は千葉県北部で東京新宿区は震度4強,東寄りの足立区は震度5弱であった。そして多数のビルでエレベーターが止まり何人かが閉じ込められ,新幹線,電車,モノレールも止まり,空港も高速道路も閉鎖中と報道された。安全が確認できるまで運転再開しないとのこと。地下鉄の出口に下から一斉に人が飛び出してくるのも映った。そのうち駅では足止めを食った乗客が,何時に電車が動くのはと改札口で駅員に詰め寄るのが次々に映し出され,それを横目に見ながら,ビールを飲んでいたが,板前さんが『あれ,ガスが止まっている!』といった。都市ガスも自動的にロックされているのだ。しばらくしてホテルにエレベーターが動くかどうかの電話を入れたが繋がらなかった。この程度でこんなにも影響がある,大地震ならものすごいことになるだろうなと思いながら,なんだか自分も少し興奮していたらしく馬鹿にビールが旨かった。

 米寿を迎えた父     大西 雅子

 大雨という天気予報の中,父の米寿のお祝いをするために福岡に行きました。幸い,外を歩く時は傘をささなくてもいいくらいの小降りで助かりました。
 父の米寿を祝うために,子供や孫をあわせて12人が集まりました。その上に1歳過ぎのひ孫が3人います。とても賑やかなひとときでした。
 父は前の日には足が弱って寝たきり状態になっていたそうですが,みんなが集まった日にはちゃんと起きて来て,みんなと一緒に料理屋にも行くことが出来ました。
 料理屋は座敷にテーブルと椅子というスタイルです。父はもう畳に座ることが出来ません。食欲はしっかりあるので,出てきた料理は全部食べました。
 歩く姿を見ていると,思わず支えたくなりますが,母が手を出すと,自分で歩くと言います。よたよたと歩いていても,身体が傾いていても,なにかの会に招待されるとかならず出席します。
 私たちの話も,また,難しい話もよく理解し,口の動きは遅くなりましたがきちんと最後まで話します。
 何事にも積極的だし,努力家なんだなあと,年を取って,寝たきり目前かという状態なのに,すごいなあと,あらためて,そう思いました。
 今日もにこにこにっこりありがとう (^_^)  ニコニコです。

真の幸福とは       北島 健司

 最近人の幸せについて考える事がよくあるのですが,とりあえず目標とか願望がある人はそれがかなった時が幸せなんでしょうし,好きな事をしている時,好きな人といる時が幸せと感じる人も多いでしょうが,ぼくは最近そういうエモーションが希薄になってきており(単なる老化かも),じゃあ今の自分のイメージする幸せはなんだろうと考えてみると,気持ちのゆとり,ゆったりとした気分でいられる事かなと思いあたりました。それで自分の幸せの実現に向けて,それの障害となっているものは何かと要因をつきつめて行くと,これがどうも時計のようです。思えば1日の中で何度時計を見る事か。見た時に感じる気持ちはたいてい「もうこんな時間」とか「いけない,あと何分だ」みたいに心が泡立つ感じです。現代社会を機能させるのに不可欠な存在であるのは明らかですが,なんかみんなおんなじ速度で歩け!って命令されているようで,見えない手によって奴隷にされている感じがします。そういうわけでぼくの夢は時間のない世界です。文明が退化するのでなく,時計にかわる何か新しい,人にやさしい方法によって暮らしていける社会,そんな時がもうすぐ来るような予感がしています。能天気な人とたまに言われます。