Hanaはテレビっ子ではない! 出越 恵子(Hana)

 1週間に何時間?と言うくらいしかTVをみない・・・(^^ゞ
 今の流行りも特に知らない(^^ゞ
 芸能人も姉の方が良く知っている☆
 音楽も何が流行ってるかよく知らない・・・(^^ゞ
 会社でTVがついていても自分の世界にハマってる。(特に何をするでもなくボサっとしてる)
 パートさんに,『若いのにどしたん〜』『年寄りみたいやなぁ〜』と言われる。パートさんの方が,色んなことを知っている!!!
 昨日,何年か前に流行った音楽を聞いた。
 あ〜,これがあの曲だったのか〜と昨日思った(●^o^●)
 どんなに売れていようが興味がないものはまったく・・・(^^ゞ
 すごくいい曲だったけど(●^o^●)
 今は,その曲をひつこく聴いてる♪
 普段,何かに興味を示すことは少ないのである。いつも人よりワンテンポ?(どころじゃないかっ)ずれているHanaでした☆

無縁塚          坂本 眞人

 金粟山(こんぞくざん)隆禅寺(りゅうぜんじ)には,無縁塔がなかった。もう故人となられたY氏が「隆禅寺には無縁塔が必要だ」と口ぐせのように言って,「私が無縁塔を建立するので,その時に必要な石を集める」と,沢山の石を積み上げたまま他界された。その後この積まれた石は忘れ去られ,竹やぶとなっていた。
 ある時,N氏がこの竹やぶの竹をきれいに刈り取ったところ,沢山の石が出てきた。「この石は何ですか」と問われたので,今までのいきさつをお話した。するとN氏はY氏の長男さんに,「お父さんがやりかけていた仕事を完成させては」と話をもちかけ,多くの人々の協力を得て,無縁塔が完成しつつある。
 多くの方々の御奉仕で,六角形3段の無縁塔になった。4角形ならたやすくつくれるのだが,6角形になると120度の角をつくらねばならないので,型板をつくるのがなかなか困難のようであった。しかし,多くの人々の知恵で完成にこぎつけた。
 今年の夏はことのほか暑い暑い夏である。この夏の炎天下,御奉仕の皆様の汗と根性によって,隆禅寺の無縁塚が9割がた完成した。後は3段目の上に建てるお地蔵様ができれば,完成である。
 皆んなが力を合わせ,一つの芸術品を想像するような感じである。Y氏の長男さんは,いつも口ぐせのように「ピカソだ! ピカソよ!」と言っている。彼にとっては,この6角形3段の無縁塚が,ピカソの芸術品のようなものなのだ。そして彼の顔はいつも生き生きと光り輝いている。創造の喜びというか,完成の充実感というか,そのようなものに満たさせている感じである。
 私も微力ながら,この仕事に参加させてもらい,創造の喜びの一端を味わわせていただきありがたいことでした。

自己中心的な人間について  林 隆

 「自分本位の人間が最も神に近い」とどこかの本にあったような気がするが,正確にはこれは間違っていました。実際書いてあったのは「最も愛情深い人間は,最も自己中心的な人間である」でした。
 これは,“The Book of Life”に書かれていた,哲学者エピクテタスの言葉,「もしあなたが人生の最大の秘密−あるものはあなたがコントロールできるが,あるものは出来ない−を知っていれば,あなたは幸福になれる」に通じるものがある。
 自分がコントロールできるもの,それは「自分」以外にない。相手を変えようと思ってもできない。できるのは自分を変える事だけ。相手から愛されたいと思っても,相手に強制することはできない。できるのは,自分が相手を愛することだけ。だからと言って,見返りに相手が自分を愛してくれることを期待してはいけない。それは,あなたの「コントロールできない『あるもの』」だから・・・最も自己中心的な人間は,他者がどうあろうと関係ない。その他者との関係において,「自分がなにものであるか」だけに関心がある。「相手」に囚われること,「コントロールできないなにものか」に囚われること,それが殆どの場合,失敗の原因でもある。自分がコントロールできること,それは自分以外にない。「相手」が何者で,何をし,何を考え,何を言い,何を欲し,あるいは要求しているか,「相手」が何を期待し,考え,計画しているか,そんなことは彼にとってどうでもいい。それは彼にとって「コントロールできない」ものだから。あくまでも「自己中心的」であること,それは「コントロールできる自分自身」を常に中心に考えることであり,他者との関係において自分自身が何者であるかを見出し,気に入らなければ「自分自身」を変えること。間違っても「相手への愛情を通して,自分への愛情を求める」過ちを犯してはならない。間違っても「相手への好意を通して,自分への見返りを期待する」過ちを犯してはならない。自分が常に考えること,それは「コントロールできる」自分自身以外にはない。「自分自身を失う」こと,これが「自己中心的に生きる」ことの対極にあるもの・・・・。

「学者は学者らしく」考      三村 隆範

 最近の信条は,「学者は,学者らしく」である。つい最近まで,「学者よりも学者らしく」???
 どっかで聞いたことがあるぞ〜
と思われるだろうが,その通り去年の「新撰組」のセリフ
 「武士よりも武士らしく」をもじったものだ。「学者よりも学者らしく」???と言っていたものの,何か気にかかるところがあった。よく考えてみると,今までに出逢った偉い人(学者さん)は,ほとんどが学者ではなかったことに気が付いた。ある友達に
「学者よりも学者らしく 学歴がなんだ」と言った時,友人は,
「世の中やはり学歴がなければ,学士でなければ・・・」といった。それで,わかった。
「学士さんはいても学者はいなかった」と世間に学士は,たくさんいるが,学者はいるのだろうか? 時々,出逢うな〜。
 学者と学士はどう違うか?
 学者は,字のごとく「学ぶ者」だ。
 学士の「士」。これは,「王」の上の一を取った文字,つまり,学士は上司の教えを学ぶ人であり,学者は,森羅万象から学ぶ人をいう。
 と私は思った。
 だから「学者よりも学者らしく」を
     「学者は,学者らしく」に改めた。
 多くの偉い方と話してきたが,偉い方は,人の話を聞こうとしない。なぜなら自分が一番偉いからである。確かに偉いことは偉いが,それらの方が偉いのは,上司(先に言った人)の話をよく学んでよく知っている。間違ったことを学んでいてもそれ(ある枠組み)以上,知ろうとはしない。だから学者と学士は違う。
 「吾以外皆師」
 歳上の人,歳下の人,何でもよく知っている人,何も知らない人,動物,植物,鉱物,風や波の音,はたまた目に見えぬものにも触れて味わい学んでいこうと思う。
 今後も「学者は,学者らしく」をモットーに生きていこうと思う。