自分の歳に自覚なし        芝山 靖二

 終戦直後の昭和22年10月,世に言う団塊の世代真っ只中に生まれましたので今年で58歳ですが,どこか自分はまだ30代か40代の気でいます。高校時代の友人で早くして癌でこの世を去った人が滋賀にいます。用事で滋賀に立ち寄った時,お線香のひとつでもと思い彼の家に立ち寄った時の事です。
 私の中の彼のイメージは38年たっても高校生のままです。自分もいつまでたっても若いつもりでいます。そこへ30年あまり連れ添った彼の奥様が出てきました。私はやっとのところで「お母さんですか!」と言いかけた,言葉を噛み殺しました。
 初対面の人で同い年ぐらいの人はすべて,自分より年上の人と思っている様に思います。これって良いことなんですかねえ?
 ちなみに,オムロンの体重体組成計器で計った体年齢は今現在46歳です。

ハリケーン                南谷 幸久

 アメリカ南部を襲ったハリケーン「カトリーナ」は,堤防の決壊によってニユーオリンズの街が浸水し,未曾有の大災害になった。死傷者の数も大変な数にのぼると言われている。超大国アメリカで何故このような大災害になったのであろうか?
 街全体が川より低いことも大きな原因であるが,ニユーオリンズの人口50万人の内自動車等の避難手段を持っていない人が2万5千人もいて,避難勧告を受けていたにもかかわらず避難することが出来なかったのだ。今度の災害は明らかに,人種,貧困と言うアメリカの社会問題が絡んでいるのです。ブッシュ大統領は9・11事件後テロ対策に力を入れ,イラク戦争に多額の予算がかさみ,国内の防災対策がおろそかになっていたのだ。又救援活動が遅れたのは,地方をまもる州兵がイラク戦争に派兵されていて,ほとんど活動が出来なかったといわれている。日本にも大型台風14号が上陸して西日本に大きな爪あとをのこした。今異常気象と大型台風の災害は世界中に広がっている。地球温暖化による南方の海水温度の上昇が影響していると言われている。私達は温暖化対策の二酸化炭素を削減する為に,今の便利すぎる生活を見直し,マイカー自粛と節電を実践してゆくことが大切な事ではないでしようか。

阿波忌部の関東開拓の足跡を辿る
ツアー紀行(1)
            三木 信夫

 古語拾遺(807年斎部廣成撰)によると,「天富命(あめのとみのみこと),更に沃(よ)き壌(ところ)を求(ま)ぎて,阿波の斎部(いんべ)を分ち,東(あづま)の土(くに)に率(い)往(ゆ)きて,麻・穀(かじ)を播殖(う)う。好(よ)き麻生(お)ふる所なり。故,総国(ふさのくに)と謂ふ。穀の木生ふる所なり。故,結城郡(ゆふきのこほり)と謂ふ。阿波の忌部の居(を)る所,便(すなは)ち安房郡(あはのこほり)と名づく。天富命,即ち其地(そこ)に太玉命の社を立つ。今安房社(あはのやしろ)と謂ふ。…」とあります。
 この古代阿波忌部が,黒潮を利用して房総半島に上陸し開拓した足跡即ち阿波忌部系の神社・地名等をたどり,その忌部の末裔達との再会交流を目的に,鳴門工業高校社会教諭の林博章氏と話がまとまり4泊5日のツアーが企画されました。
 平成17年8月26日(金)早朝5時に,出発地の鳴門工業高校に参集した林博章氏,NPO元気やまかわネットワーク世話人の大森光男氏,オカリナグループ「アミンダ」代表の森見美子氏,演奏家ヒメ・ヒコの青木夫妻,阿波忌部直系の三木信夫の総勢6名が,10人乗りのレンタカーに同乗して5時半に出発しました。名神自動車道経由東名自動車道を一路東へ。途中静岡県榛原郡御前崎町白羽へ阿波忌部と何らかの関係があるのではないかと「白羽神社」と榛原町の「服織田神社」に立ち寄りました。阿波から黒潮ルートで房総半島に至る途中,気の短い忌部達が御前崎に渡来したのでないか等想像するだけで楽しいものでした。東京で渋滞に巻き込まれ遅れて千葉市中央区南町のホテルへ。千葉県商工労働部参事の岩瀬正夫氏が既に待っており,その晩は岩瀬氏を中心に旧交を暖めました。既に読売新聞8月25日京葉版朝刊に「阿波から安房へ阿波忌部氏探る−館山で28日」の見出しで私達交流会の事等が掲載されていました。
 27日(土)は千葉市生実(おゆみ)町「鷲宮神社」と氏神の「生実(おゆみ)神社」,七廻塚古墳と「白山神社」をまわり,成田市台方の式内社「麻賀多神社」へ,同社は麻を社紋としています。千葉県印旛(いんば)郡栄町安食の「大鷲神社」の祭神は天乃日鷲(あめのひわし)尊で社殿に「金の鷲」が天井に取り付けられており,社伝によると「天乃日鷲尊は,その子孫代々麻植の神として神功があり,麻に係りのある当地においても祭神となっております。」と記載されていました。「安房志」によると,「天日鷲尊の神霊が,天下に異変がある時は,金色の鷲となって現れるので,その霊験を畏敬して小鷹の神と称した」とあり,天日鷲尊は「金色の鷹」として認識されていたのです。大鷲神社の役員総代伊藤公友氏は印旛沼の由来は「忌部沼」が訛ったものであるとの事。
 下って勝浦市浜勝浦の阿波忌部が渡来し「天富命」を御祀りした「遠見岬神社」で,小林宮司夫妻の案内で見学しました。「遠見岬神社」の元地は,大地震により海中に沈み,現在は鳥居のみが海中の岩場に立っていました。その反対側の北側の浜勝浦字竹田場に「鳴海神社」があり北側を向いた社殿でしたが,社名の由来が鳴門にあるのかもとの談。遠見岬神社の宮司歴代の墓碑は「勝占(かつうら)忌部」と書かれており阿波忌部の後裔(こうえい)でした。その後第一回全国忌部サミットで出席頂いた,勝浦市名木の御木斎部(みきいんべ)末裔「吉野愛さん」宅へ御伺いすることが出来ました。同地は海より大分内陸部に入った海抜100m程の高地の広い盆地でした。その晩は勝浦市勝浦の民宿『はまだや』泊で夜は忌部交流会で賑う。

                〈つづく〉

どうして丹生谷って言うの?    天羽 達郎

 昭和53年4月,私は那賀町小浜(旧上那賀町小浜)にある町立上那賀病院へ東京都新宿区の東京女子医大から落下傘候補ならぬ落下傘医師として赴任した。出身大学は千葉大学であるが卒後は女子医大という女ばかりの大学へ行った。べつに助平根性があって行ったわけではない。私の師匠中山恒明教授が死亡診断書事件というスキャンダルで千葉大学を辞任し女子医大に移ったからである。私は師匠の後を追ったにすぎない。その後長男である私は帰省することになり徳島大学第1外科に入局した。当時上那賀病院は院長が死亡し,医師が不在であった。医局人事で私に白羽の矢が当り,都会の中の都会,新宿からいきなり山の中の僻地に降り立ったのである。
 そこに行って不思議なことに気がついた。旧鷲敷町から那賀川の上流に沿った地域を,すなわち今の那賀町全体のことを,丹生谷(にゅうだに)と呼ぶことだ。なぜ丹生谷というのか,土地の人にあちこち聞いて歩いたが誰もその由来を知らなかった。
 そんな頃NHK教育テレビで地上探査衛星ランドサットが日本の地質調査をしたのを放映していた。なにげなくそれを見ていてあっと驚いた。日本列島で水銀成分を含んだ土壌のあるところには丹生という地名がついているという。その名は和歌山県をはじめ九州四国などに多数散在し,しかもそこには弘法大師が歩いた跡があり大師伝説が残っている。そういえば丹生谷には太龍寺がある。
 丹とは水銀と硫黄とが化合した鉱物,硫化第2水銀のことで,精製して朱色の顔料に使われる。辰州産のものがもっとも名高いため辰砂(しんしゃ)という。辰州とは中国隋の時代に置かれた州名である。辰砂から精製された顔料とは神社仏閣の柱に塗られているあの朱色のことである。朱は防腐作用があり古くより邪気を払う神聖な色とされている。この顔料は高価であるため弘法大師は寺の財源として利用したのではないかと想像を逞しゅうする。高野山の近くにも確か丹生という地名があったと記憶する。丹生谷地区では太龍寺北側若杉山一帯でこの辰砂が弥生時代から採掘されていた。本年7月3日民俗学者の谷川健一先生のご講演『古事記に書かれた阿波』で日本の文化歴史に大きな影響を及ぼしたもののひとつに日本列島を東西に縦断する中央溝造線の恩恵があるという。この断層地帯沿いには金銀などの鉱物がとれるので丹生という地名が百ほどあり,その大半からは水銀がとれる。この水銀を軍資金として南北朝期には南朝方が活躍したという。木屋平周辺の阿波山岳武士もそのひとつだ。この講演を拝聴したとき丹生谷という名の由来に納得がいった。丹生谷とは丹すなわち水銀や水銀化合物を産出する谷のことなのだ。ある古老の話しでは,子供の頃若杉山辺りの谷間でどろどろとした真っ赤な土が流れ出ていたのを見たことがあるという。辰砂だろうか。今もどこかでひっそりと流れ出ているかも知れない。