阿波忌部の関東開拓の足跡を辿るツアー紀行(2)
                       三木 信夫

 8月28日(日)は8時出発で早朝より千葉県安房郡白浜町滝口の式内社「下立松原神社」を見学。同神社の由緒(ゆいしょ)には「天富命が天日鷲命の孫由布津主命,その他の神々と当地方開拓に上陸し,のち由布津主命が祖神の天日鷲命を祀った社である。」と記されていました。古代阿波忌部が上陸した地に建てられた館山市布良の「布良崎神社」(祭神=天富命)を見学しました。途中のバス停留所名や小学校名に「神余」(かなまる)という地名がありましたが,これは安房神社に奉仕する忌部神戸が増え過ぎて,あふれた人達が新しく開拓し住みついた事に由来するそうで珍しい地名です。更に「安房神戸(あわかんべ)」という地名のバス停留所もあり,歴史や古い地名を大切に守っている地域の様子がひしひしと感じられました。館山市相浜にある「楫取(かんどり)神社」の祭神は「宇豆(うず)彦命」で天富命に従ってこの地に渡り,漁業を主として指導したといわれ,現在も漁業地として栄えています。この楫取(かんどり)名は徳島県の吉野川で使用された川舟である「カンドリ舟」(楫取舟)の表記と密接に関係があると思われます。
 昼前に館山市大神宮の式内大社「安房(あわ)神社」に到着。同社は天富命が祖父天太玉命を御祀りして祖先の恵みに感謝した神社です。拝見した安房神社宮司の安房忌部系図には,天富命の娘の飯長媛(いいながひめ)命と天日鷲命の孫である由布津(ゆふつ)主命とが結婚して,堅田主命(訶多多主命)を生み安房忌部の祖としています。又,安房神社境内には「忌部塚」と呼ばれ弥生以前にさかのぼる洞窟遺跡もあり,阿波忌部の先遣隊の塚ではないかと思いました。
 午後2時より「阿波と安房の交流会」が館山市後援で,館山市大神宮の大神宮集会所で開催され,東京や千葉県北など館山市以外の多くの人達約200人程が集まりました。歌手加藤登紀子の次女藤本八恵さんの歌で始まり,阿波からは森見美子さんのオカリナ・ヒメ&ヒコの演奏と歌のあと辻田実館山市長の挨拶もあり,私が二十分程挨拶をかねて簡単に阿波忌部と三木家の歴史を話しました。その後林博章氏がスライドで安房忌部の調査結果や阿波忌部の麁服調進について紹介しました。最後に徳島で「第一回全国忌部サミット」を開催したNPO元気やまかわネットワーク理事長のメッセージを大柴光男氏が読み上げて終了しました。交流会終了後,船越鉈切(なたきり)神社の文化財で平安時代の独木(まるき)舟を見学し二隻を一つにすれば阿波から黒潮を乗りきって来れるのでないかと考えました。薄暮となりましたが館山市洲崎の式内大社「洲崎神社」へ,祭神は天太玉命の后神の天比理刀(あめのひりとめ)命で忌部関係の神社です。宮司の田代正満氏は古代安房国が開拓されたのは阿波忌部のお陰であると。夜は忌部交流会実行委員会の委員長鈴木馨氏の経営する相浜のペンションで焼肉パーティが開催され賑やかな交流会となりました。
 8月29日(月)は早朝より館山市布良海岸を散策して,オカリナを吹いたり磐笛を吹いたりしてそれぞれが阿波忌部が上陸した場所を考証しつつ古代に思いをはせていました。
 千葉県を後にして茨城県新治(にいはり)郡新治(にいはり)村大畑の「鷲神社」へ,神社総代で無形民俗文化財からかさ万灯(=鷲神社祭礼の仕掛花火)保存会長中川章氏は「社殿が平成7年に焼失したが,200軒程の氏子で1億円程の寄付により平成11年現在の社殿を復興する事が出来た。ご神体が無いので徳島の忌部神社で分祀を依頼したいと思っている。」等と話された。鷲神社再建竣工記念碑には,「本宮四国徳島市忌部神社」とありました。次の茨城県結城(ゆうき)市小森の「大桑神社」本殿は,1722年建築で結城市の指定文化財,境内の欅(けやき)は天然記念物に指定されていました。社伝には,「古代,東国に養蚕(ようさん)・織物を伝えたとされる阿波斎部が,稚産霊尊(わかむすびのみこと)を祭神として,北方の大水河原に創建,この辺り一帯を大桑郷と名付けたことに始まり…」とありました。結城(ゆうき)紡績資料館を見学後,車で大桑神社に出迎えてくれた栃木県小山市の斎部(いんべ)さんと合流し,案内で栃木県小山市栗宮の式内社「安房神社」に夕方到着しましたが宮司さんが待っていて案内説明してくれました。祭神は天太玉命でした。その夜は本家・分家を含む斎部家一同と中華料理店で交流会が行われ,私達の宿泊は斎部一族で分家の栃木市園部町の荒川光男氏宅でした。同宅では全員がすぐ溶け込み,家族全員の心にしみる歓待を受け夜遅くまで話が弾みました。
 翌8月30日(火)は,荒川さんが仕事を休んで案内をして頂き,先ず小山市鏡の本家斎部宅を訪問し,伝承を聞き氏神の鏡神社見学と鏡神社の御囃子(はやし)を聞かせて頂いたが,音楽は阿波踊の御囃子とよく似ていました。小山市萓橋の「日鷲神社」の祭神は天日鷲命で阿波忌部の足跡がよく分かりました。最後に栃木県下都賀郡石橋町橋本の「鷲宮神社」で祭神は天日鷲命です。これは下野(しもつけ)国(=栃木県)を開拓した阿波忌部の存在を物語るものだろうと思いました。これで調査は終了し斎部氏兄弟にお礼を言って一路徳島へ。東京へ出て関越自動車道経由中央自動車道・名神自動車道等で無事0時半鳴門工業高校着。
 今回は関東で阿波忌部に関係する神社関係を中心に社伝・伝承を調べ,関東開拓の実態を把握して阿波忌部の実像に迫り,阿波忌部の歴史・文化に啓蒙してこれからの徳島の発展に寄与出来ればと思いました。
 この短い旅でお会いした方達の想いは,古代安房国が発展したのは阿波忌部のお陰であるという気持ちと,立派な氏神を建て心のよりどころとして故郷の忌部に望郷の念を持ちながら努力している気持ち,更に歴史・伝承を大切にして,皆さんが忌部一族という事に誇りを持っている事が感じられました。

 - 天岩戸開元祭を祝して - 女ならでは夜も明けぬ国
           阿波古事記研究会会長 天羽 達郎

 古事記にまつわる史跡の看板第一号『千引の岩』を,去る四月三日旧相生町内山に設置しました。今回はその第二号として,この天岩戸立岩神社に2基完成することができました。これもひとえに皆様方のご協力によるものでございます。心より御礼申し上げます。
 さてわが国では『古(いにしえ)の神代の頃より日(ひ)の本(もと)は女ならでは夜も明けぬ国』と言われています。その象徴がこの天岩戸です。見てのとおり,どんピシャリ何も説明申し上げることはございません。一旦はこの中に隠れてしまわれた天照大神が再びこの岩戸から出てこられ,日本に夜明が帰って参りました。この岩が日本の本家本元の天岩戸で,我々日本人は男も女もみんな,この,神より生まれ出たのでございます。
 今回は奈良県の香具山神社の橘宮司様がご参列され,さらに『えま&慧奏(えそ)さん』による二胡(にこ)や民族楽器に演奏,『宮城愛さん』による『岩戸の舞い』が花を添えられます。天照大御神のお出ましによる明るい日本がここから始まり,美しい歌と踊りが繰り広げられます。


[画]大西雅子

 正される阿波の中世勝瑞    尾野 益大

 徳島の歴史は,中世のことでもほとんど分かっていないという。
 藍住町勝瑞の国史跡「勝瑞城館跡」の発掘成果を見れば明らかなように,県庁の役割をしていた「守護所」跡さえも分かっていない。ただ今年二月,館内で主従関係の確認など儀式などに使う最も重要な建物「主殿跡」が出てきたため,当時,阿波の実権を握っていた三好氏の館跡の場所が確実になった。この発見だけでも阿波中世史研究の大きな前進といっていい。
 なぜなら,現在の発掘場所から約150m離れた県史跡「勝瑞城跡」(現在の国史跡)が長い間,守護所の後,三好氏館だったと信じられてきたからだ。結果的には三好氏の館の一部である可能性はあるものの,新しい時代の遺構であるため,守護所があった時代とは整合しない。
 三好氏の館にしても,遺構の一部が初めて確認されてから6年が過ぎたが,館の敷地の全貌は分かっていない。発掘するほど敷地が広がっている。
 三好氏の館をはじめ,勝瑞にあった守護所跡,そして勝瑞に移す前に置いていた旧土成町・秋月城の守護所跡が調査・確認できるまでには,まだ相当な時間を要するのかもしれない。
 私たちが県外に気ままな旅行に行く際,多くは歴史や文化的な名所を訪ねていると思うがどうだろうか−。「徳島には何もない」と発言する人が少なくないが,勝瑞城館のような貴重な中世遺跡が存在することを県民は知るべきだと思う。
 阿波守護の細川氏は,足利幕府を支えた三管領の一つで,管領代を務めた細川家を出した家柄として地位が高かったそうだ。三好氏は臨時政権ではあったが全国を支配した時期がある。勝瑞は当時,「京都直結の文化が入ってきていて,茶の湯など先進文化を発信をしていた」といわれるほどだ。
 阿波徳島の歴史が,正されてきた。

鹿の親子               松林 幸二郎

 スイスは晩夏と呼びたいほど,戸外で一日をすごせるほど暖かく美しい日がこのところ続いて大喜びしています。先程,ハイディ(家内)と一時間ほどの軽いジョッギングして帰りました。ジョッギングは,一時間の間にサンティス連峰,ボーデン湖,ドイツ,オーストリア,リイテンシュタインの山々を眺めながらのまことに贅沢な尾根道と林道を使いますが,息をのむような雄大な景観に,時々,鹿の家族に出会う楽しみが加えられました。
 9月になって,我が家の前のアルム(牧草地)に鹿の親子が毎朝あらわれ,草を食んでいのを眺めるのを一日の始まりとしていましたが,ここ数日姿を見せません。10月に入って猟期が始まったので,この時期になると猟師となるお隣(といいても,1kmは離れていますが,住居がアルムに点在するこのアッペンツェル地方では,それでもお隣と呼びます。)のお百姓さんにでも射止められたのでは,ジョッギング中にも出会う事がなかったのではと…と思いました。
 鹿が一番大好きな動物というハイディも(そのくせ鹿料理が大好きなのです。この矛盾! そういう私も栗や紫キャベツの添えられるこの時期だけ食べられる鹿料理を食べないと秋を迎えた気がしないのですが…。10月に入るとスイス各地にWildつまり“鹿料理あり”の文字がレストランや肉屋の店頭に踊ります。)流石に心配しながら帰宅しましたが,秋となり早い夜のとばりに包まれ始めた我が家の前のアルムに鹿が3匹戯れているのを発見したときは,ほっと胸をなでおろしました。お隣さんに撃たれてレストランにいって売られてなかったのです!
 とき折,お隣さんに“鹿は見たか”と尋ねられますが,狐とリス“しか”見てへん,としらばくれることにしています。