河内・丹後地方の阿波忌部の足跡を探る
               三木 信夫

 阿波忌部氏とは,穀(かじ)・麻・楮(こうぞ)を播殖し,大嘗祭には神衣(かむそ)である「麁服(あらたえ)」(=阿波忌部氏が麻を播殖して製作した織物)を上古以来御衣御殿人(みぞみあらかんど)として貢進してきました。又,忌部神社は阿波忌部氏族の祖神である天日鷲命(あめのひわしのみこと)を奉祭しております。フロンティア精神の旺盛な阿波忌部族は,各地に移住・開拓と共に阿波忌部の祖神を祀っていますが,その祖神を奉祭している神社を辿る事で阿波忌部の足跡を検証する事が出来ます。今回は大阪の河内地方や京都の丹後との関連を探る為に平成17年11月26〜27日にかけて「NPO法人元気やまかわネットワーク」等15名の方達と出かけました。
 早朝7時に山川町の公民館よりバスで出発して,最初は八尾市東弓削の延喜式内社弓削神社(ゆげのじんじゃ)へ。弓削神社は弓削氏の氏神で祖神を祀ったものと考えられます。新選姓氏禄の河内神別では「弓削宿禰,天高御魂乃命孫天比和志可気流夜命之後也」とあり弓削氏の祖神として高御魂命(たかみむすひのみこと)と天日鷲翔矢命(あめのひわしやのみこと)を祭神としていますので,阿波忌部の開拓とは関わりが無いようです。次はすぐ近くの羽曳野市高鷲の延喜式内社大津神社へ。この神社は渡来系の神社で百済王の子孫と云われる津氏一族の守護神で,祭神も次々に代わり現在の祭神は素盞鳴命(すさのおのみこと)・奇稲田姫命(くしなだひめのみこと)・天日鷲命の三座でした。宮司の西澤さんに天日鷲命がなぜ祀られているのか聞きましたが多分この地方で織物をしていた「河内木綿」の関係ではとの事で分かりませんでした。ただこの地域は江戸時代半ばの大和川付け替え以降より綿を栽培して河内木綿を製作していました。古老の話では天日鷲命は後年になって合祀されたとの事でした。
 松原市でバイキングの昼食をとり一路宮津市へ。途中西脇市の「NPO北はりま田園空間博物館」と「NPO法人元気やまかわネットワーク」との交流会が国登録有形文化財旧来住(きし)家の離れ座敷で行われました。この来住(きし)家住宅は,大正7年に竣工していますが,当時の最高級の用材と技術を用いて建てられており建築用材や技術は必見に値します。特に離れ座敷の欄間に彫刻された縞柿のこうもりとほととぎすや,中門の檬玉杢目一枚板使用や取り次ぎ間の楠雲輪杢の一枚板等はすばらしいものです。交流先の北はりま田園空間博物館とは,西脇市,中町,加美町,八千代町,黒田庄町からなる「北はりま」を「地域まるごと博物館」とみたてた地域づくり活動です。地域の人達が中心になりつつ,北はりまの自然景観,歴史,文化のほか,産業や住民の生活そのものまでも含めた有形・無形の地域資源を「サテライト(展示物)」として展示し,さらにこれらを通じて地域づくり活動の展開を図る取組をしています。会費は例えば会員が一日10円で年3650円,サテライト会員が一日30円で年10950円とかユニークな年会費制と地域全体での関わりをすすめているのに感心しました。
 夜は宮津市の民宿「吉田」泊り。風呂は近くの温泉へ。夕食時は阿波踊りで宿の女将さん達も参加して盛り上がりました。
 翌27日は8時半出発,予定よりも早く9時前に宮津市大垣延喜式大社・丹後一宮・元伊勢籠(この)神社に着。私は海部(あまべ)光彦宮司と別室で挨拶をかわした後,全員が神社の拝殿にいり,神官の祝詞(のりと)と八乙女神楽(かぐら)の後,代表が玉串奉奠(ほうてん)し礼拝。本宮籠神社の祭神は彦火明命(ひほこあかりのみこと)又の名天火明命(あめのほあかりのみこと)。奥宮の真名井神社(古称匏宮・吉佐宮=よさのみや)の祭神は,磐座(いわくら)主座に豊受大神を祀っています。海部宮司より別室でレプリカでしたが国宝海部氏本系図と勘注系図,並びに海部氏伝世鏡である息津(おきつ)鏡・邊津(へつ)鏡を拝見出来ました。この本系図は平安時代初期貞観年中に書写された縦書きの祝部(はふり)系図で「丹後国印」の押捺(おうなつ)が判明しており,更に江戸時代初期に書写された勘注(=調査記録した)系図は,始祖以来平安初期までの系譜が記載され他の古記禄には失われている古代の貴重な伝承も含まれていると云われています。又,邊津鏡は前漢時代で2070年位前のもの,息津鏡は後漢時代で1970年位前のものです。海部宮司は「海部氏と忌部氏とは関わりがある」との話でした。しかし海部氏の祖神「彦火明命」とその孫「天村雲命」と阿波忌部との関係,籠神社奥宮「真名井神社」と阿波からの真名井信仰の伝播,海部氏の祖神「倭宿禰命」は阿波忌部の果たした役割の一面を示唆,等々は時間の関係でお聞きする事が出来ませんでした。私達5人は皆と別行動で奥宮の真名井神社や磐座(いわくら)等を見学しましたが周辺は整備中でした。
 昼からは「丹後ちりめん歴史館」を見学後,宮津市由良のハクレイ酒造を見学し,試飲で初しぼり生原酒のコクと旨味が気にいり楽しみに大びん1本購入し帰路につきました。
 今回の調査で阿波忌部との関連は丹後地方の籠神社のみでしたが,具体的な内容まではお聞きする事が出来ず,時間が無くて納得するまで話せなかったのが残念でした。

 天岩戸立岩神社開元祭にて詠める歌
                      天羽 達郎

 神山町天岩戸(あまのいわと)の開元祭神代の頃に思いを馳する
 岩戸(いわと)の前巫女さんの愛さん十二歳夜明けを寿ぎ舞いを舞い舞う

屈原をたずねて(1)   山田 善仁

 昭和60年3月,竹治貞夫先生は,徳島大学教育学部で「憂愁の文学」と題して最終講義された。
 中国の文学を三つに分類すると,人情のあやや自然の景色をしみじみと吟味する,味わう文学。又,人間の生き方や道理のありかたを子細に研究する,探る文学。又,自己を主張すると共に,社会や政治を或いは鋭く或いは遠回しに批判し風刺する,訴える文学が存在し,この三つのどれかを主にしたり,互いにからませたりして,歴代の詩文が構成されていると言う。
 孔子は,道徳上「知者は惑わず,仁者は憂えず,勇者はおそれず」といい,道家の老子は「学を絶てば憂い無し」と,荘子は「人の生くるや憂いとともに生く」「口を開いて笑うことは一月の中,四,五日に過ぎざるのみ」と儒家を皮肉り,憂い多き人間も真の道を体得した真人は,憂愁も快楽もない超越の境地が得られるという。
 凡人,憂いが有るからこそ,笑い,涙し,人の心を打ち,詩経の国風,楚辞を愛してきた。
 そして憂いの文学第一人者に屈原と言う人がいた。

「今」を活きるって…  小川 浩一

 私は,「生きる」ではなく「活きる」を使います。自分自身を有効に活かす生き方とでも申しましょうか。人それぞれには,持って生まれた使命というものがあるように思います。ですから,その命を一生かけて使い切るのです。
 先日,アイドル歌手から,ミュージカル女優,そしてクラッシック歌手としても活躍された本田美奈子.さんが,38歳の若さで逝かれました。病名は,急性骨髄性白血病。実は私の友人も今年の6月に同じ病気で,彼もまた享年38歳でした。仕事大好きな男でした。
 私は,勝手に自分に言い聞かせているのです。前述の彼女や彼は,きっと人生を全うし「命を使い切った」のだろうと。
 当たり前ですが,私たちのこの身体は有限です。いつかは消えてなくなります。本当に明日どうなるかも分かりません。ですから,尚更のこと,「今」この時を大切に活きていきたいのです。そして,出来る限り,明るく・楽しく・喜んで,過ごしていきたいものです。