大嘗祭と阿波忌部(1)   三木 信夫

 1.大嘗祭について
 皇位継承儀礼には,践祚(せんそ)式(=剣璽(けんじ)等継承の儀),即位式(=喪明けの就任披露),大嘗祭(=神々の奉祭と天子の威霊体得)が執り行われて来ました。
 践祚式は剣と八尺瓊曲玉(やさかにのまがたま)等の承継で,これは宮殿の「剣璽の間」に保管されています。
 即位式は天皇が亡くなってから1年から1年半後行われます。これは1年間喪に服した後,喪明けの就任披露である即位式に続いて大嘗祭があります。大嘗祭にお祀りする稲や麻・由加物等を作るのに1年かかりますのでこのようになるのです。
 大嘗祭の中心行事は大嘗宮の儀で,麁服(あらたえ)は入目籠に入れ・繪服(にぎたえ)は入細目籠に入れて神衣(かむそ)として悠紀(ゆき)・主基(すき)の神座に祀り,その他の神饌(しんせん)を供え,悠紀・主基の田の新殻をもって天照大神及び天神地祇(ちぎ)を奉祭され,自らも食する等天子の威霊を体得する為の神事の儀式です。
 大宝律令の神祇(じんぎ)令に「凡そ践祚の日,中臣(なかとみ)は天神(あまつかみ)の寿詞(よごと)を奏せ,忌部は神璽鏡剣(しんじのかがみつるぎ)を上(たてまつ)れ。」とあるように,京師の忌部は大嘗祭の都度皇位のしるしである鏡と剣を作り奉っていたのですが,1036年69代後朱雀天皇を最後に廃止となり,中臣の寿詞だけとなります。本来の八咫(やた)の鏡は伊勢神宮で祀られ,天叢雲(むらくも)剣(=草薙の剣)は熱田神宮のご神体として祀られています。
 麁服とは,天皇が即位後初めて行う一世一度の大嘗祭においてのみ使用する,阿波忌部が織りあげた麻布の神服(かむみそ)を云うのです。麁服は天皇自身が着るのではなくて,天皇が神衣(かむそ)として最も神聖なものとして,天照大神にお供えする物です。上古より阿波忌部の氏人が製作するから麁服なので,忌部以外の人達が作成すればそれはただの麻織物なのです。現在は4反ですが,昔はもう少し少なかった様です。

日本最古の前方後円墳は鳴門にあった
(その1)
           天羽 達郎

 徳島大学の埋蔵文化財調査室に他大学から赴任されてくる考古学の先生方は,徳島で発掘調査をして皆さん首を傾げます。今までの常識とは全然違う結果が出てくるからです。北条芳隆助教授(現東海大)もそのお一人で,その成果を平成13年の徳島大学公開講座夏期講座で10回にわたり講義をなさいました。「考古学からみたとくしま像」との演題で,その内容はなんと驚くべきことに前方後円墳のルーツは徳島だというのです。今回はそのエッセンスをご紹介いたします。
 まず話しは中国の魏の時代の三角縁神獣鏡から始める。これは銅鏡の一種で,鏡の縁の断面が三角形になっているので三角縁,中央の平坦部には道教の神様と霊獣である竜と虎の絵が描かれているので神獣鏡,あわせて三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)と呼ぶ。卑弥呼が魏の皇帝から100枚の三角縁神獣鏡を貰った際「魏の威信を示せ」と但し書きにあったという。それにしたがい権威の象徴「威信財」としてこの鏡が卑弥呼に靡いた豪族に配られた。このような状態を三角縁神獣鏡の分有(ぶんゆう)関係といい,同じ鋳型で作られた兄弟鏡が古墳時代には近畿から各地に渡り,その範囲がすなわち卑弥呼の勢力圏と考えられた(図1)。前方後円墳においてもこの関係が成り立つという。巨大前方後円墳で最古のものは,卑弥呼の墓といわれている奈良県櫻井市の箸墓(はしはか)古墳で,その長径の長さは286mである。西暦260年頃作られた。その頃からこれを1/2,1/3,1/4,1/6に縮尺した同じ形の古墳が豪族の格に応じて各地に作られていく。これを古墳の分有関係といい,この箸墓古墳を原図とした兄弟古墳は近畿地方に一番多く,次いで岡山そして関東北陸九州へと続く(図2)。なぜか1/5というのがなく,縮尺の分母は2,3,4,6と12の約数になっている。そして副葬品には例の三角縁神獣鏡が使われている。すなわち中央の大和にまず巨大前方後円墳ができ,勢力の伸張とともにそれが地方へと拡散していったと考えられている。現代に当てはめれば東京は六本木の若者のファッションが時を経て地方に流行して行くのと同じであろうか。逆に言えば六本木ファッションが流行らない地方は中央の文化から取り残された「ださい」地方,古代ならば大型の前方後円墳が見られない地方は未開の地,化外の地と考えられていた。徳島はまさにそうだった。


すべての思いを家族に 16
親に対する恩
       田上 豊

 私たちは現在,便利な社会生活を送っています。
このように幸せな生活を送れるには,多くの恩人が存在しています。心を救ってくれた恩人,経済の恩人,治安を司る国の恩,その他色々な恩人がいます。その中で親の恩程,大きいものは無いでしょう。
 何と言っても,この世に生み出してくれたのですから,恩人の中でも図抜けているのでは無いでしょうか,扶育の大恩が有ります。
 現在社会では,歌の文句にもあるように「受けた恩は食い散らかし」で自分中心に成ってしまいました。「親孝行」とか「感謝」とかが死語にならないように考えたいものです。
 私達は,この親の思いを考えず自分の思いを押し通そうとする子供達が多い昨今です。その結果子供達は思うことが思う様に進まないのであります。
 前にも書きましたが「孝は百行の基」で有ります。親孝行が三代続くと必ず偉い人が生まれると言われます。
 親達が安心出来る様にしたいものです。

屈原をたずねて(2)   山田 善仁

 屈原(くつげん),屈は姓,名は平といい,原はあざなである。
 屈原は,紀元前339年頃,楚の国に生まれ紀元前278年に,62歳で悲憤の死を遂げた憂国詩人である。
 時代は戦国末期にさしかかる頃で,秦がようやく超大国として天下統一の基礎を着々と固めている時であった。
 屈原の故地,現在の沙市(シャーシー)は荊州の東7.5km,長江の北岸にあり,古くから港町として栄えた。付近は河川が交錯し,湖も多い為,物産の集散地として好適であった。沙市の名は,長江の泥や砂(沙)が堆積してこの町が出来た事に由来する。
 楚は古代荊州の地で,荊も楚も灌木の「いばら」を意味する文字で,中原の地から遙かに隔絶した南方未開のジャングルを思わせ,楚は南蛮の地であるから楚蛮と呼ばれた。
 屈原の代表作である「離騒(りそう)」(離も騒も憂(うれい)の意を含んでいる)の序に,楚の先祖は帝(せんぎょく)高陽より始まるとある。
 中国の歴史は三皇五帝から始まる。その五帝の第一が黄帝軒轅(けんえん)(姓は公孫,名を軒轅),第二がその孫の帝高陽である。
 高陽から六代目の陸終に六人の子があり,末子を李連といって(び)姓を名乗った。楚の王室は姓とされ,「説文」に「は羊鳴なり」という。羊の鳴き声ミーを表す文字がであり,季連の時,家畜の羊をトーテムとする部族であった。
 以後,夏(か),殷(いん)の時代を経て周の文王の時代に,李連の子孫に熊(いくゆう)という人物がいた。熊の後,孫の熊(ゆうり)が継ぎ,熊狂,熊繹(ゆうえき)と代々名の上に熊という字を冠し,熊をトーテムとした事がわかる。そして熊の玄孫に当たる熊繹は周の成王に仕え,初めて楚蛮の地,丹陽に封ぜられて楚子となった。当初は熊繹自ら粗末な柴で編んだあじろの車に乗り,質素な藍染めの青い衣をまとって山林草野を切り開いた。又,周の王室への貢ぎ物に楚国は桃の木の弓と棘(いばら)の矢の外には,これといった産物も無く,諸侯に比べると寂しい限りであった。
 熊繹を初代として十八代目の文王熊貲(ゆうし)の時代に楚の都を郢(えい)に移す。十七代目武王熊通(ゆうとう)の37年(周の桓王の16年,紀元前704年)に力の無い周王室から自立し,「我は蛮夷なり」と誇示し,楚は独立王国となる。その武王の子に屈氏の祖となる屈瑕(くつか)がいた。