ませませなのです。    森 悦光

 明けましておめでとうございます。
 昨年中は,いろいろとお世話になりました。
 本年も,何卒よろしくお願い致します。
 毎月「阿波の風」の原稿〆切日より一日遅れて出す私。今年こそは,〆切日に間に合わせたいと思っておりますが,ウ〜ン難しそう。
 私の仕事は以前にも書きましたが,作陶と販売すること,そして,陶芸教室や体験教室のお客様の作陶をサポートすることなんです。
 今,作るのが楽しくて楽しくて,店の方にお客様がいらしているのが分かっていても,工房から店に出て行かない。他のスタッフが接客に行くだろうと思い,作陶に熱中しておりますが,二名のスタッフも作る方が楽しいのか,店はカラッポ。
 こんなんで良いのでしょうか?
 こんな私ですが,どうぞ皆様,今年の一年も見捨てないで,お付き合い下さいませませ。

神仏に対する心の改革     小林 金吾

 新春を寿ぎ今年も大いに頑張りましょう。如何なる立場にあろうとも新しい年を迎えただけでも感謝すべきである。不満があろうとも自分が歩んで来たもので反省すべきである。神の神意・仏のみ心は,現世の人々すべてが幸せな生活が送られることであり,人々の救済をするものであります。ゆえに自分が救われればよいとの欲望利己的考えであったならば,たとえ神仏に日参して手を合わせても神・仏の神意・み心に「したがって」いないので神仏を信じ頼る心になるより神仏から護られる人になるように心せねばで,子々孫々に至るまで永遠の幸せを願うなら,神仏の「神意み心にしたがう心と行動を」しなければいけない。それが「徳積行」なのです。ご自分の家が修行修練道場である。一寸の虫にも魂があるように何事も積み重ねと継続する心掛けが大切である。
 善しきも悪しきことも自己行為の結果であり感謝,感謝悪しきところを反省する機会を与えられたと感謝ができる心があるだろうか。善意に解釈ができるか。悲願して不平不満に思うか,またご注意いただいた思いとは,その結果は大いに差がつくものである。
 1に神ごと,2に仏ごと,3に他人ごと,4に私ごととし,日常生活の上に活かすことが神の神意と仏のみ心に副うものであり,日常の神仏に対する心の持ち方考え方の改革で一日二十分程の時間を敬神崇祖の真行に割振りして一家の明るさを増幅していただきたい。朝のご神前でのご挨拶に生かされて居る己の御礼申し上げる。
(下記の如き世相を望み自己信念を誓う)

 祈願文

 天下泰平 萬民豊楽 同心協力 人身救済
 萬霊感謝 祈祷冥福 乃至法界 平等利益

 五常報恩

 国土の大御恩 報じても報し難し
 父母の御恩 報じても報し難し
 師の御恩 報じても報し難し
 社会の御恩 報じても報し難し
 天地宇宙萬物の御恩 報じても報し難し

 願い唱えて今日も働かせお使い下さいとお誓いして日常の業務に従事する。帰宅後夕食前に一日の反省と無事過ごさせていただいたお礼に就寝前に一日の感謝とおやすみのご挨拶と明日の働く決意の誓いを申し上げる心掛けが誠の真行で蒔きし種が芽生え成長するを楽しまん。 合掌

   これは宗教法人解脱会の教を参考にしております。
 名誉支部長 権中僧都  結 果 子 勝 豊

芝生の庭について     芝山 靖二

 平成2年の我が家の新築以来15年間庭に芝生を育ててきた。大小二つの小さな山を造り,芝山を作っている。
 芝生を維持管理してきて,今一番感じることは「芝生に相当惚れこんでいないと維持できない」と言うことである。確かに居間から裸足で庭に,そのまま出られる,芝庭は第二の居間で家の中と外の区別があまりなくなる。夏の夜なんかは,芝生の上で仰向けになり星空をいつまでも見ていたり,お正月には簡単なコートを作り皆でバトミントンを楽しんだり,又,客間でするお客さん事をテーブルを庭に出してやったり,その魅力はまだまだあり芝庭は捨てがたい魅力をもっている。
 ですが芝生を維持していくには3つの苦労があります。
 その1,草抜き。春先に雑草の発生を抑える除草剤をしますが4月,5月,6月,は雑草との競争になります。日曜日に皆で完璧に抜いても次の日曜にはもとどおり,又除草剤はなるべく使わないようにしていますが,どうしても除草剤の力を借らないと退治できない雑草もあります。
 その2,芝刈り。サッカーグラウンドの様になにもない平坦地ならば簡単ですが庭は何本も木を植えています。その木の間をぬって刈るのは大変です。これを4月から10月の始めまで20日間隔でやります。
 その3,水やり。炎天続きの真夏には,毎日スプリンクラーで1時間半,手撒きで半時間水道代も大変です。
 この3つの苦労を差し引いても芝生の庭には捨てがたい魅力があり,これからも文句を言いながら芝庭を守っていきます。

 ご 朱 印 天香具山神社宮司 橘 豊咲

 阿波古事記研究会の皆様方には,ご健勝にて,会の発展に余暇を活かして努められる姿勢に敬意を表します。
 去る11日正午より天岩戸神社,1時香具山頂上(152m),国常立(くにのとこたち)神社,2時30分より天香具山とそれぞれの神社の新嘗祭(しんじょうさい)を奉化して,直会に白酒をいただきました。

 頂きの國の常立神社(トコタチカムヤシロ)
         新嘗祭に風寒し
 落葉踏み 大和の祀官
(シカン) 息喘ぐ
    天香具山 胸突
(ムナツ)き 八丁 
                 香 林

 天岩戸神社,天香具山神社の二社の朱印の件,直会の席では結論は出ませんでしたが,ゴム印を宮司個人で注文して明年4月16日の祭典の折,持参する心算です。

波がしら (リーダーになろう)     三村 隆範

 2007年10月に徳島県で開催される国民文化祭の行事に参加する私達,「波がしら国民文化祭推進実行委員会は,
波は,阿波から と唱っていますが,
 これは,現在の日本文化は,阿波から始まったということだけを強く主張しているのでありません。「阿波」とは,「阿」の波で,波の始まりを意味し,尽き詰まる所は,「吾」,つまり自分から活動・行動しようということを唱っているのです。しかも,波がしらになろうと言っているのです。いい替えれば,リーダーになろうといっているのです。
 リーダーというと人の指導者とか人の上に立つことと考えがちですが,
 その前に,
自分が自分を引っ張っていく自分になろう
といっているのです。つまり,人の上に立つ前に,自分自身を引っ張っていく人間になろうというわけです。
 人にいわれて行動するような,指示待ち人間にならないように,おかしいものは,「おかしい」と言える自分になろうと思います。
 そういう点から見ると,この「阿波風」に投稿していただいている方々は,誰かに命令されて書いているわけではなく,自ら進んで,ブログを書いているわけですから,皆さん 波がしらですね。
 自らが行動する事は,ボランティアの精神で,自主的に参加するということです。
 自分がこの世に現れたのは,自主的にこの世に現れてきたのではないですが,この世に現れてからは,自分という思いが現れてきて,それぞれに自分を意識して生きています。しかし,その意識を上手く使えこなすことがでないのです。
 自分が無いと言えば聞こえも良いものですが,自分がないようでいて,他人のいうまま行動し,気がつけば,暗闇の中に落ち込んでいるということにも成りかねないのです。そして,こうなったのは,・・・と,人の勢にして生きていっても益々みじめになるばかりじゃないですか?