大嘗祭と阿波忌部(3)   三木 信夫

 2.阿波忌部について
 阿波忌部の記述は古く,奈良時代720年の日本書紀神代上第三の一書に「…粟国の忌部の遠祖天日鷲命の作れる木綿(ゆう)を懸けて,忌部首(おびと)の遠祖太玉命に持たせて…」とあり,この天日鷲命の子孫によって阿波を開拓していった事が古語拾遺(しゅうい)に記載されています。平安時代の儀式をまとめた延喜(えんぎ)式の神名帳に阿波国麻植郡に「忌部神社」があり,大・中・小の格付けで大社として格付けされています。これは阿波忌部の氏神として天日鷲命を祀る神社で,地方忌部の祖神が式内大社にされているのはこの忌部神社だけです。阿波にはこれ以外に大麻比古神社(天日鷲命の長男)と天石門別八倉比売(いわとわけやぐらひめ)神社が大社となっていますが全て忌部系です。では重要な位置を占めていた忌部神社が何処にあったかという事が,930年代の辞書で「倭妙類聚抄郷里部」に「麻殖郡には忌部郷が有り,その現地比定は困難である。」との記載があり,この忌部郷が忌部の中心地として,今の山川町山崎を中心に種野山を含めた地域でないかと思います。これが麻殖郡全体に発展して,さらに阿波国の各地に発展していったのです。当時種野山を中心に射立郷・忌部郷・川島郷・呉島郷等があり,奈良時代には全国で4千程の郷が徴税の基盤となっていました。
 阿波忌部の役割を見ますと,忌部とは「穢れを忌み嫌い,神聖な仕事に従事する集団」で,皇室に対する「麁服(あらたえ)」や「由加物」の献上の仕事を任されています。
 阿波忌郡の麁服貢進の資料は,公家の日記で右大臣藤原実資(これもと)の「小右記」に67代三條天皇践祚に関するもの,内大臣藤原忠親の「山槐記」に82代後鳥羽天皇践祚に関するもの,権中納言藤原長兼(みちかね)の「三長記」に84代順徳天皇践祚に関するもの,「三木文書」に90代亀山天皇・93代後伏見天皇・95代花園天皇・96代後醍醐天皇・光厳天皇・光明天皇の各大嘗会に関する文書があり,麁服が連綿と続いていた事が分かります。
 阿波忌部の氏名が具体的資料として最初に出てくるのは,奈良正倉院御物の献納品「あしぎぬと白あしぎぬとを袷にした覆い」に縦書きで「阿波国麻殖郡川嶋郷少楮里戸主忌部為麻呂 戸調黄あしぎぬ一疋 天平四年十月」(732年)の墨書名が最古です。正倉院のあしぎぬは諸国から税として納められた物で品質も管理されていたと思われます。中国産の絹布に対して国内産をあしぎぬといいますが,後にはほとんど優劣が無くなっています。通常あしぎぬは「悪し絹」の意で太糸で織った粗悪な平織りの絹布に使われます。
 次に続日本紀の中に「神護景雲2年7月14日(768年)阿波国麻殖の郡人外従七位下忌部連(むらじ)方麻呂,従五位上忌部連須美等11人に姓(かばね)宿禰(すくね)を賜う。大初位下忌部越麻呂等14名が姓連(むらじ)を賜う。」とあり,麻殖郡に位階と姓を持った25人の上層忌部氏族が居た事が記されています。
 日本の氏族の場合は単なる血縁集団ではなく,政治的従属関係で非血縁関係を含む集団であり,そうした氏族の有力者に対して朝廷が与える尊称が「姓(かばね)」で,宿禰は上から3番目,連は上から7番目です。しかし姓は後に氏が分裂して家単位で政治的地位が分かれる事になって自然消減するのです。

                 (つづく)

日本最古の前方後円墳は鳴門にあった
(その3)
           天羽 達郎

 三番目には柩を納める部屋すなわち石槨(せきかく)の構造である。初期のものは柩の回りには木の板の塀があり,その外側が石垣の壁になっていた。時代が下がると木の板が石の板に変わり,そのうちこれが取り払われ,石垣状の壁が直接柩を囲む簡素なものに変化している。近畿地方のものはこの塀のない単純化したもので,そして死者は北枕である。一方徳島のものは構造が複雑な古いタイプで,被葬者は,頭が北向きもあるにはあるが殆どが日の没する方向西向きである。北枕の思想は儒教とともに入ってきた。それ以前は東を向いたり西を向いたり,どちらかといえばばらばらであった。北枕に統一された埋葬法は時代が新しいのである。
 四番目として極め付きは徳島で使われている結晶片岩いわゆる青石が,近畿地方の古墳に使われていることである。徳島の積石塚では石はすべて青石が使われていた。しかし近畿地方では石槨など重要な部分に,徳島産の青石が一部ブランド品として使われているのである。結晶片岩は殆どが青緑色だがピンク色のもある。徳島では青石は取り立てて珍しいものではない。が,畿内にはないのである。
 青石がきらきらと美しく輝く古墳は古代人を魅了したであろう。徳島ではこれらの小型の前方後円墳が100年間程盛んに作られて,ある日突然消えてなくなる。その頃から畿内では巨大前方後円墳がどかどかと出来だす。これはいったい何を意味するのだろうか。我々古事記の研究会は,徳島から奈良地方へ古墳とともに人も移動したのではなかろうかと推測している。畿内の巨大古墳は地方にルーツを持つさまざまなものが集大成された結果できたものであるが,――たとえば埴輪は岡山が発生源――,前方後円墳という形そのものは徳島をルーツにするものだと考えている。そして権力者が一旦それをステータスシンボルとしてしまえば,もう人には勝手に作らせない,豪族の格や身分に応じたものしか作らせないということになる。徳島で一番大きな前方後円墳は全長90mの徳島市の渋野古墳である。それは少し時代が下がりおそらく中央の権力構造が確立してから,認可を得て作られたものであろう。
 平成13年(2001年)よりひょんな事から徳島大学開放実践センターで毎年考古学に関する公開講座を受けている。上のメモはその一部である。講師の先生方はこういう事実をご自分の目で確かめつつも,まだ半信半疑のご様子。あまりにも考古学会の常識と違い過ぎるからである。

         文責 サークルアマテラス

不平等が平等       小林 金吾

 世相は男女共同参画とか,機会均等,平等教育等々と声高らかに雄叫びして居るが,本当の解釈が不理解では……?
 子供達の努力に対する評価ではなく,やる気のない者への相対評価である競技でなく,参加が目的ならば?……オリンピックも参加が目的だろうが,何秒差のためメダルが取れないのである……「たばこ」の喫煙にしろ,半世紀前は「吸うて納める紫煙の税」とし多額納税者も多々ありしが今は世相とは言え受動喫煙云々で法廷ざたもあり,全館禁煙の場所があるが。
 日陰の草花ジャアあるまいが,耐える体,耐える心掛けが不足ではなきや。若き女性の喫煙者をよく見かけるが,生まれる赤チャンのことを心にとめをるのだろうか?
 男にしろ女にしろ,「らしさ」的言葉が聞かれない気がする。要するに個性の増幅を押さえている。なぜか今の世相と見過ごすべきか。
 新聞のコラムじゃあるまいが指導者層の「ど根性」の不足と目はあれど節穴目のご仁が多いご時世ならば,各々家庭の親達に叫びたい。
 育てる子供には「信賞必罰」的教えが必要ではなきやと思える表題の見て与える不平等が「まこと」の平等と私は確信する。

             結 果 子 勝 豊

屈原をたずねて(4)   山田 善仁

 楚王武以来,王を補佐して来た莫敖の屈家。
 前697年頃より,屈瑕,重,蕩,到,建,申,大心,子華,そして伯庸(はくよう)の子,屈原の時代までの屈巫を除いて,春秋戦国400年間,楚国の為に中原諸国との鎬合(しのぎあ)い,そして中原の覇者(荘王)を導き出し,西北虎狼の国,秦に対する合従(がっしょう)に,或いは連衡(れんこう)と繰り返して来た。
 屈原は20歳の時,懐王に仕えて左徒,三閭大夫(さんりょたいふ)の重職(王族を統率)を担い,終始秦との和親は楚の滅亡に繋がると主張して来たが,秦の策謀にかかった上官大夫及び王妃,懐王に疎(うと)んじられる様になって行く。
 幼少の頃より,祖父と推定される莫敖子華の薫陶を受けて育った潔癖な貴公子屈原は,18歳の頃「天問」「橘頌(きっしょう)」を作る。
 「天問」は,さまざまな質問を述べ連ねた長詩で,概(おおむ)ね四言体で,四句二韻を一章とし,「詩経」の体を襲(おそ)う(受け継ぐ)もので,95章に及んで172問を出し,発問の対象となっている題材は,すべて自然神話や古史伝説の一こまを掲げて配列し,まず人間の歴史が展開される舞台としての,天地の生成開闢(せいせいかいびゃく)から始まる。そして夏,殷,周三代の興亡に関する事件を並べる歴史的順序を経(たていと)とし,関連類似を聚(あつ)める類聚(るいじゅう)的順序を緯(よこいと)として,互いに絡ませている。
 「天に問う」という発想は,楚国のシャーマニズムの一面として卜問(ぼくもん)に基づき,前朝の殷の卜辞(ぼくじ)を承(う)けるもので,更に制作を触発したものは,先王の廟(びょう)や公卿(こうけい)の祠堂(しどう)の壁に画かれた,種々の絵画を基に,若き日の修学中,屈原の筆のすさびに成ったものである。
 因(ちな)みに白川静先生に依ると,我国には「史」や「歴史」にあたる固有の語は無く,中国においても一,二散見あるのみで,明治の初年頃から歴史という言葉が使われだした。
 中国では昔より「国の大事は祀(し)と戎(じゅう)とに在り」といわれ,本来の意味する歴とは軍事的征服の功績の記録であり,史とは祭祀に依る秩序の記録である。
 歴はもとで,厂(がんだれ)の下に禾(か)(標木)の字が二つ並んでいるのは,軍門として立てる鳥居の様な木の形,下の部分,止は足の形,故にひさしの有る軍門の前で,戦功のあった経歴を表彰する意味である。
 史はおまつりをする時に,木の枝に祝詞(のりと)の箱を付け,申し文を捧げる様にして神をお祭りする意味。又,祀の巳は基はヘビの形で,自然神をまつる事を祀と言い,祖先神をまつる事を祭りという。
 祭りという字は,羊の肉を手で祭壇にお供えする事をいう。