成 仏          魁生 順一

 人間の心は恐ろしい。死の瞬間まで見届けなければ,其の人の本人の心の底は見えないものだ! 或る時は,地獄になり。或る時は,餓鬼になり。又或る時は,畜生になり。或る時は,修羅になり。或る時は,人となり。或る時は,天となり。又或る時は,声聞となり。又或る時は,縁覚となり。或る時は,菩薩となり。そして仏ともなる。

節分に思う       近藤 隆二

 節分には「鬼は外,福は内」と豆まきをします。
 講演会の時,講師より「遠仁者疎人」(オニハソト)「不苦者有知」(フクハウチ)と言う字を教えてくれました。
 遠仁者疎人の意味は思いやりのない人(遠仁者)人から疎んじられる,人が寄りつかなくなる(疎人),人望がなくなる。
 不苦者有知とは「正しい智恵ある者は苦しまない」と言う意味で,正しい智恵とはウィズダム(神智)のことで,聖人の教えに基づいた智識,言い換えれば自然の法則のことです。
 自然の法則は進化と退化の二法則のことで,お釈迦様は進化と退化の法則を極楽,地獄で教えられました。則ち地獄へ行く人は自分のことしか考えない人(ジコチュー)極楽へ行く人は人様(他者)のことを先に考えて生活する人(利他心)道徳は犠牲なりと言われますように,人よりも先に自分が犠牲を払って人様の利益になるように働くと自然に自分にも利益が還ってくる。天地循環の法則「愛すれば愛される」「大事にすれば大事にされる」「打てば打たれる」「憎めば憎まれる」「粗末にすれば粗末にされる」思ったこと,考えたこと,行ったことが全部自分に返ってくる。

徳島城が国史跡に指定   尾野 益大

 江戸時代,阿波・淡路を治めた徳島藩主蜂須賀家が14代,約280年間住んだ居城跡「徳島城跡」(徳島市城内)が1月26日,国史跡に指定された。淡路島の洲本城が既に国史跡になっていたから,本藩の方が遅かったことになりようやくかと思う反面,喜ばしい。
 城内の国の名勝「旧徳島城表御殿庭園」のほか,石垣,内堀などの遺構の残存状況が良好で戦国末期から近世の築城技術の変遷を知る上で重要な点が評価されたようだ。
 史跡の指定範囲は,三層三階の天守閣などがあった東二の丸を含む城山全体,南麓の藩主の居館跡に建つ徳島城博物館,その周辺の徳島中央公園,藩主が隠居した居館があった内町小学校などのエリアとなっている。
 徳島城は1585(天正13)年,領主として阿波に入国した蜂須賀家政が豊臣秀吉の命令で同年築城に着手。土佐の長宗我部元親や比叡山の僧侶らが協力して翌年,城の中心部が完成。その後も石垣の拡充を続け,大手筋の石垣は元和・寛永期ごろ完成したという。
 徳島城の建築物は1875(明治8)年,ほとんどが解体され,唯一残っていた「鷲の門」も戦災で消失(平成元年に復元)した。遺構としては表御殿庭園と,阿波の青石で築かれた石垣,堀の一部が残っている。
 特に城跡西側の旧寺島川沿いにある石垣には,石垣を登る敵に対して鉄砲を撃ちかけた防衛施設の「折れ曲がり塀」を支えた土台の「舌石(柱台石)」が約35m間隔で残っており,貴重な遺構とされる。
 県内には,徳島城以外にも,徳島藩主蜂須賀家墓所(徳島市)がある万年山と興源寺が指定されているほか,中世三好氏の居館があった勝瑞城館跡(藍住町),丹田古墳(三加茂町),郡里廃寺跡(美馬市),阿波国分尼寺跡(石井町),段の塚穴(美馬市)−の国史跡が6件ある。

『けものみち』    鶴岡 とみ子

けものみち
ぽてぽて ぽてぽて
わたしは歩いてゆく

誰も歩いてない新雪の上を歩くのが
おもしろい
キュッ キュッ キュッ キュッ

だけどたまには誰かが歩いた跡を
歩く方がラク

広い舗装された道路よりも
けものみちの方がスリルがある

だけどさ あんた!
罠にはまるなよ
あれは痛いからね

そう言ってる矢先に
今日は心が罠にはまった
どうやったらしかけが緩まるのだろう
キュ〜ン キュ〜ン