大嘗祭と阿波忌部(4)   三木 信夫

 ここで「位階」についてふれておきます。位階は古代朝廷の地位や序列を示すもので,大宝律令施行時(701年)では,人口六百万人のうち五位以上は125人,769年の称徳天皇の時代には三百数十人となっていました。五位以上と六位以下では待遇に大きな差があり,五位以上は位階に対して位田・位封・位禄・従者等が支給され,宮中の宴でも五位以上が参内出来るいわば貴族と目される人々で,麻殖忌部にも中央忌部を凌駕するほどの位階に叙せられていた事実です。地方の郡司以下には,位階の上に外(げ)の字がついた外位を与える事で外の無い内位と差別していました。
 現在の考古学では,忌部氏が6世紀の中頃則ち西暦550年頃この旧麻植郡に現れた事が,忌部山型石室古墳の築造で推定していますが,私は房総半島への移動とか未調査の磐座(いわくら)遺跡などから実際はもっと古い3世紀頃でないかと考えています。
 忌部氏と中臣(なかとみ)氏は共に朝廷の神祭に奉仕してきた大族で,日本書紀神代上第七段に「相与(あいとも)にのみ祈祷す」とあり,対等の立場で祭祀を掌っていた事が記載されています。その忌部の宗家は天太玉命の子孫として皇室の神事に仕えた。忌都廣成撰「古語拾遺」では天太玉命が忌部系の神々を率いてと書かれていますが,日本書紀は忌部系の神々を対等に記載しております。忌部氏は優しい氏族で,開拓するにも先住民を押しのけて進出する事はしなかった様です。ただ忌部は権力志向もなく古代祭祀を敬虔に守り続けて,時代の変化に対応した生き方が出来ず,段々衰退しています。しかし阿波の忌部はフロンティア精神を持って日本各地に進出して開拓し,その土地土地に土着し発展しています。反対に中臣氏は,権力指向を持って「まつりごと」に対応し,中臣神道が日本の宮廷神道をリードして,その元に忌部神道が入った形態で扱われて来ています。大化の改新で功のあった中臣鎌足が死の直前「藤原」の姓を賜りますが,文武天皇2年(698年)「藤原鎌足が賜った藤原姓は,その子不比等(ふひと)とその子孫だけが使用し,神事に携わっている意美麻呂らは中臣姓を名乗れ」という詔が出され,不比等一族は「政治」を,中臣意美麻呂系は主に宮廷神事をと,中臣一族の中で祭政分離と氏使用の限定が行われ,これにより祭政一致のまつりごとが始まります。忌部はだんだんと祭祀の中枢から除外され位階も従六位止まりとなっています。日本後紀によると延暦22年(803年)3月14日「右京人正六位上忌部宿禰濱成等,忌部を改め斎部となす。」とあります。忌(いむ)=古語は(宗教的な気持ちで)穢れを避けて,身を清め慎む。齋(いむ)=(宗教的気持ちで)清めたの意。略字は斎仏教の伝来で「忌」という漢字が嫌われる様になり京師の忌部が「斎」の字に替えたのですが,地方の忌部はとらわれず替えていません。
 地方忌部は古語拾遺に拠ると,阿波・安房(あわ)・出雲・紀伊・讃岐(さぬき)・筑紫・伊勢がありますが,一部の現地調査等では阿波からきて開拓したという伝承が多く,開拓した地域は阿波忌部の末裔だとして阿波の人達よりも胸を張って堂々としており,それぞれの地に阿波忌部の祖神天日鷲命が祀られています。
 阿波忌部氏人の麁服貢進は,上古以来より光明天皇を最後として577年途絶えましたが,復活して大正天皇,昭和天皇,今上天皇と調進しています。

                (つづく)

 手力男神と朝潮太郎   天羽 達郎

 奄美大島出身で物凄い大男の,朝潮太郎という相撲力士がいた。先代の朝潮である。今親方になっている朝潮は室戸出身で,その体格は丸っこい感じである。しかし先代は顔は幅広く彫りが深く,眉と揉み上げは黒々と太く長く,髭は濃く,肩幅広く手足は長く,いかつい体であった。昭和30年前半に活躍した。栃錦と先代の若の花の両横綱,いわゆる栃若時代の大関で,勝つ時は物凄く強かった。千秋楽に栃若と三巴の優勝決定戦で圧勝したことがあった。昭和33年の春場所かなぁ〜。
 そのころ古事記の話が映画になった。天照御大神の天の岩戸隠れの場面で手力男神(たじからおのかみ)の役をやったのがこの朝潮太郎である。天照御大神は永遠の美女と呼ばれた原節子,知恵の神の思金の神(おもいかねのかみ)には柳家金吾楼,天の宇受売の命(あめのうずめのみこと)は誰だったか忘れた。天の安の河原(あまのやすのかわら)で神々が相談している姿は,その白くだらりとした服装からしてなんだか乞食が話しあっているようだった。隣席にいた女子高生達も同じ思いをしたらしく「乞食みたい〜」といってきゃきゃ笑っていた。手力男神の朝潮太郎は「俺は知恵がないが力があるんだ」とか何んとかうそぶき,上半身は裸で濃い胸毛を出し逞しい腕で天の岩戸をぐいっと開け,天照御大神を引っ張りだした。
 朝潮は不思議な力士でした。立ち会いから一気に相手を土俵の外へ持って行くさまは凄まじい物で,それをまともに受けて耐えられる力士はいなかった。私は横綱若の花が立ち会いの一撃で土俵の外にすっ飛んだのを見たことがある。とにかく強い時には滅法強い。しかし負ける時が妙なんですねえ。若の花との一番で土俵中央で四つに組み朝潮有利もう勝ったと思った瞬間,急に腰砕けになってすーっと自分から尻餅を突くようにして転ぶんです。みんな呆気にとられていました。そのほか蛙がバタッと背中から仰向けに落ちて,手足を曲げてだらしかなく宙に浮かしているような格好で負けることがあるんです。どうしてそうなるのか分からない。横綱にはなったけど短命でした。
 その朝潮が日本人の胸をスカッとさせることをしているんです。ある作家が書いていました。まだ大関になる前,米軍が日本占領中のできごと。朝潮がつばの広いソンブレロのような帽子を被り,浴衣の上に国定忠治が使うような縦縞入りの薄い合羽のようなものを羽織り,肘を曲げ両手を腰のあたりに当て,雪駄をがらがら鳴らして京都の町を歩いていたそうです。何か考え事をしていたらしく眉間にしわを寄せ難しい顔をし,帽子の下からは太い揉み上げが見え異様な雰囲気だったそうです。進駐軍の兵隊が観光にきていてたむろしている中に彼は目もくれず一直線に入って行ったそうな。そうしたらアメリカ兵がみんな黙って道を譲りこわごわと朝潮を見ていたそうです。これを見てこの作家は胸がすかっとしたそうです。
 僕は手力男神というとどうしてもこの朝潮太郎とイメージがだぶってしまいます。

発想の変換(目的の考え方)     小林 金吾

 敬神崇祖の言葉は,萬ず人々はご承知のことであるが,実際の行為は,かけ離れて居られるご仁が多いのではと思われる。
 人間がこの世に生を受ければ氏神様に初宮参りをされて居り,氏子として,神の子としての縁を結ばれたもので,その後はお食い初めや七五三参り,また氏神さんのお祭りに何かと神との縁(えにし)があるはず。
 ご自分の家に宮司さんに,また家族以外の人に頼まれて神棚祭祀をしただろうか?
 思い出して下さい。ご先祖の誰かがまたはご自分が,我が家や子供の将来の事を考えられて神々様をお迎えした筈だろうが,要するにお招きしたのであるが……。朝にご挨拶,夕方にお礼感謝,就寝どきのご挨拶をして居るだろうか。
 お招きしてお給仕もせず一日の挨拶もせず,困ったときの神頼みでは?
 ご自身が神になったつもりで考えてみて下さい……。
 家に不浄ごとが生じたときなど神棚に白紙を張って何ヶ月もほったらかしにして居るご家庭を見受けることがあるが,考えて下さい。家の神棚は人に頼まれたものでもなく,また預かって居るのでもないので,我が家の守護神として善きことも悪しきことも共にご報告するのが人のとり行う道である。だから姿が変わった時より挨拶どきの柏手は「しのび手」音のしない柏手にてご挨拶,ご報告をするものである。
 氏神さんにも不浄ごとが生じたら直に報告するものである。「鳥居さん」より内には入らぬことである。家に於いてはお給仕品は日常と変わりなく行うことが生存して居る人の取る道である。神には眷属さんが居ることを心にとめ居いて下さい。またの折りに。

             結 果 子 勝 豊

叺(カマス)      近藤 隆二

 最近は使われておりませんが,お米を入れるワラでつくった叺(カマス)と言う袋があった。叺はお米を八分目入れて二分折って縄でしばって一俵(約60?)になっていた。
 口偏に八で叺,口偏に十で叶(カナウ),口偏に十一で吐(ハク),という漢字になり,十一ですべてを吐き出すことになる。
 宥座の器(ゆうざのき)の教訓に「満つれば則ち覆る」「中なれば則ち正し」「虚なれば則ち欹(かたむ)く」と言う教えがある如く,月も満つれば欠ける。満ち足りないように心掛けて,八分目の生活をする。家でも収入でも自分と家族の為だけに使っていると満ち足りた生活になっていると教えて頂きました。二分(20%)人様の幸せに役立つよう犠牲を払って,いつも八分(80%)にすることが自分と家族と家の運命を守り,安泰に過ごすことが出来る。
 「腹八分目に医者いらず」「鶴が千年寿命保つのもエサを八分目しか食べないから」「宇佐八幡宮の階段が99段」「奈良の千手観音は手が999本」「日光の陽明門の柱は一本だけ逆縞にしてある」皆長く続くように一歩譲ってある。満ち足りないように叺にすることが重要であると教えて頂きました。