皇室典範に関する有識者会議の10人へ (1)
相原 雄二
首相の私的諮問機関である「皇室典範に関する有識者会議」が,女系容認,長子優先の報告書をまとめて,小泉首相に提出した。その内容とは,万世一系と言われる男系天皇制の下で2665年間,今日まで連綿として護られてきたわが国の伝統中の伝統である皇室に,畏れ多くも礼を失し皇統を論ずるに足りぬ内容であった。
座長は『この結論は日本の歴史や文化,文明,伝統というものを元にして作ったのではない。』また,『現実の問題を見て考えた』とおっしゃるのである。同じ日本人でありながらこのような結論を出す不埒な事を言う人がおることに愕然とした。
問題の一つは,現実の問題(世論)です。確かに,天皇直系の男子の継承者がおられず,皇統が断絶する危機がございますが,ここでこそ過去の歴史を繙くことにより,どのようにしてこれらを乗り越えてきたかが分かるはずです。たとえば武烈天皇崩御の後です。応神天皇の男系の5世孫,男大迹(おおと)王です。男大迹王は継体天皇として即位され,武烈天皇の妹,手白香皇女(たしらかのひめみこ)を后に迎えられました。実に10親等もの隔たりがありました。次は室町時代の称光(しょうこう)天皇崩御の後です。第101代称光天皇は若くして崩御され,皇子がおられませんでした。このため北朝第1代のこうげん光厳天皇まで遡り,そこから分かれた家系のふしみの伏見みや宮家のひこひと彦仁親王が即位され,後花園天皇となられました。この方は,称光天皇からは8親等の隔たりがありました。そして3度目が,江戸時代の後花園天皇の後です。第118代後花園天皇は21歳の若さで崩御されました。やはり皇子がおられません。このため,先代のかんいんのみや閑院宮のりひと典仁親王の第6皇子で当時8歳だったさちのみや祐宮(もろひと師仁親王)殿下を天皇の養子とした上で世継ぎとする旨が決められました。これが,後の第119代光格天皇で第113代ひがしやま東山天皇のそうそん曾孫に当たられます。光格天皇は,先代の後花園天皇とは7親等の隔たりがありました。なお閑院宮家は宝永7年(1710),新井白石の建議によって創設された宮家です。まさに皇室の繁栄なくして日本の繁栄なしとの考え,ますます宮家創設の意義は極めて大切であると思われます。
平成の今日,昭和22年10月に当時日本を占領していたGHQ(連合軍最高司令部)の圧力により11宮家の方々が皇籍を離れしんせき臣籍へ降下され,これにより宮家は昭和天皇の弟宮のちちぶのみや秩父宮家,たかまつのみや高松宮家,みかさのみや三笠宮家のみとなり,後にこれらの宮家の親王がひたちのみや常陸宮家,かつらのみや桂宮家,たかまどのみや高円宮家を創設され,平成になって皇太子殿下の弟宮が秋篠宮家を創設されました。ところが秩父宮家,高松宮家,常陸宮家には,お子様がおられず,あとの宮家のお子様も女子ばかりで,男子はお生まれになっていません。そこで占領政策によって皇籍へ降下された宮家の復活を平成の世論として挙げ,有識者会議での男女同権の安易な考えを払拭しなければなりません。
現実の問題を見て考えた,と言うのであればなぜこのような先人の智慧を謙虚に学び結論を出すと言うのが,本当の有識者でしょう。歴史上8人10代(御二人が2度践祚されている)の女性天皇がおられます。これらの方々は,次の男性継承者が皇位につかれるまでの畏れながら中継ぎ役を果たされたのです。この8人の女性天皇は,皇位につかれたときはすでに夫君は先立たれておられるか(寡婦),生涯独身を貫かれた方ばかりですので,男系が守られ女系には至っていないのです。マスコミが男女平等,男女同権などと書いておりますが,畏れ多くも御皇室,皇統を論ずる場合に決してそれを当てはめてはなりません。どちらが上で,どちらが下という次元で考えるのではなく,男は男としての役割,女は女としての役目というのがあるのではないでしょうか。
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