お遍路さんの季節    新居 弘悠

 少しづつですが暖かくなってきました。
 四国もお遍路さんの季節がやってきます。気候がよくなるとお遍路さんの数が増えてきます。
 バス会社に聞いたところでは真夏や真冬にお遍路さんを募集しても集まらないそうです。やはり春秋はシーズンのようで,札所へ行っても観光バスが何台も並んでいて,本堂・大師堂の前で落ち着いてお経を上げることもできません。
 このシーズンが過ごしやすいかというとそうでもないようです。実際には暑かったり寒かったりでなかなか快適とはいきません。特に雨が降ると大変です。
 しかし雨の日はいいことがあります。
 雨の音が周りの音をかき消してくれます。また,昆虫も動物も静かに身を潜めています。
 晴れた日の騒々しさとは違った世の中に自分一人だけしかいないような感覚が味わえます。
 読経もゆっくりとできます。

皇室典範に関する有識者会議の10人へ (1)
                          相原 雄二

 首相の私的諮問機関である「皇室典範に関する有識者会議」が,女系容認,長子優先の報告書をまとめて,小泉首相に提出した。その内容とは,万世一系と言われる男系天皇制の下で2665年間,今日まで連綿として護られてきたわが国の伝統中の伝統である皇室に,畏れ多くも礼を失し皇統を論ずるに足りぬ内容であった。
 座長は『この結論は日本の歴史や文化,文明,伝統というものを元にして作ったのではない。』また,『現実の問題を見て考えた』とおっしゃるのである。同じ日本人でありながらこのような結論を出す不埒な事を言う人がおることに愕然とした。
 問題の一つは,現実の問題(世論)です。確かに,天皇直系の男子の継承者がおられず,皇統が断絶する危機がございますが,ここでこそ過去の歴史を繙くことにより,どのようにしてこれらを乗り越えてきたかが分かるはずです。たとえば武烈天皇崩御の後です。応神天皇の男系の5世孫,男大迹(おおと)王です。男大迹王は継体天皇として即位され,武烈天皇の妹,手白香皇女(たしらかのひめみこ)を后に迎えられました。実に10親等もの隔たりがありました。次は室町時代の称光(しょうこう)天皇崩御の後です。第101代称光天皇は若くして崩御され,皇子がおられませんでした。このため北朝第1代のこうげん光厳天皇まで遡り,そこから分かれた家系のふしみの伏見みや宮家のひこひと彦仁親王が即位され,後花園天皇となられました。この方は,称光天皇からは8親等の隔たりがありました。そして3度目が,江戸時代の後花園天皇の後です。第118代後花園天皇は21歳の若さで崩御されました。やはり皇子がおられません。このため,先代のかんいんのみや閑院宮のりひと典仁親王の第6皇子で当時8歳だったさちのみや祐宮(もろひと師仁親王)殿下を天皇の養子とした上で世継ぎとする旨が決められました。これが,後の第119代光格天皇で第113代ひがしやま東山天皇のそうそん曾孫に当たられます。光格天皇は,先代の後花園天皇とは7親等の隔たりがありました。なお閑院宮家は宝永7年(1710),新井白石の建議によって創設された宮家です。まさに皇室の繁栄なくして日本の繁栄なしとの考え,ますます宮家創設の意義は極めて大切であると思われます。
 平成の今日,昭和22年10月に当時日本を占領していたGHQ(連合軍最高司令部)の圧力により11宮家の方々が皇籍を離れしんせき臣籍へ降下され,これにより宮家は昭和天皇の弟宮のちちぶのみや秩父宮家,たかまつのみや高松宮家,みかさのみや三笠宮家のみとなり,後にこれらの宮家の親王がひたちのみや常陸宮家,かつらのみや桂宮家,たかまどのみや高円宮家を創設され,平成になって皇太子殿下の弟宮が秋篠宮家を創設されました。ところが秩父宮家,高松宮家,常陸宮家には,お子様がおられず,あとの宮家のお子様も女子ばかりで,男子はお生まれになっていません。そこで占領政策によって皇籍へ降下された宮家の復活を平成の世論として挙げ,有識者会議での男女同権の安易な考えを払拭しなければなりません。
 現実の問題を見て考えた,と言うのであればなぜこのような先人の智慧を謙虚に学び結論を出すと言うのが,本当の有識者でしょう。歴史上8人10代(御二人が2度践祚されている)の女性天皇がおられます。これらの方々は,次の男性継承者が皇位につかれるまでの畏れながら中継ぎ役を果たされたのです。この8人の女性天皇は,皇位につかれたときはすでに夫君は先立たれておられるか(寡婦),生涯独身を貫かれた方ばかりですので,男系が守られ女系には至っていないのです。マスコミが男女平等,男女同権などと書いておりますが,畏れ多くも御皇室,皇統を論ずる場合に決してそれを当てはめてはなりません。どちらが上で,どちらが下という次元で考えるのではなく,男は男としての役割,女は女としての役目というのがあるのではないでしょうか。

(つづく)

夢は叶う☆    出越 恵子(Hana)

hanaはそう信じるヽ((●^∀^●))ノ

自分が何をしているときが一番楽しいか☆
ココロから楽しいことをしていたい☆

心の中で密かに願ってみる☆
現実と想像の区別がつかないくらい
思いっきり楽しい場面を想像してみようヽ((●^∀^●))ノ
一人にやけるくらい楽しい場面☆
なりたい自分を想像してみよう♪
いつかその夢は現実になるんだわっヾ(´д`*)
思う事ってとっても大切d(●´ω`●)○o。

紀行文集「南の探検」が復刊     尾野 益大

 かつて,蜂須賀正氏(まさうじ,一九〇三年−五三年)という名前の世界的鳥類学者がいた。ドードーなど絶滅鳥の研究で特に有名だったという。彼は旧徳島藩主蜂須賀家の十八代目当主で元侯爵,貴族院議員だった。徳島ともゆかりが深い人物といえるだろう。
 彼は16歳で日本鳥学会に入会。日本生物地理学会を設立したほか,山階鳥類研究所や日本野鳥の会の運営などに貢献。同研究所では,正氏が寄贈した絶滅鳥カロライナインコの標本が今でも大切に保管されているという。
 先日,正氏が六十年余り前に著した「南の探検」が,平凡社から復刊された。学術探検でフィリピン諸島を訪れた際,新種の鳥を発見したり原住民と出会ったりした経験をまとめた紀行文集・平凡社ライブラリーの一冊だ。
 一九二八年十二月から四カ月間かけてフィリピン最高峰アポ山を初登頂した際の現地の状況や発見した同国特産の鳥や動植物,接触した複数の部族の原住民について詳細な記録と写真を掲載。ニューギニアの探検記録や当時交流していた学者の思い出などにも触れている。担当した編集者は「正氏さんが世界中の学者と対等に交流していた一流の国際人だったことも垣間見られる」と話している。
 正氏は,アフリカでゴリラを見た初の日本人としても知られ,架空の鳥・鳳凰についてのユニークな研究も残していて「ホーオーと鳴く東南アジア産のセイラン」と結論付けた業績は今でも支持を得ているという。アポ山の峰の一つに「ハチスカ」,沖縄・先島諸島の間に動物分布境界を示す「蜂須賀線」の名も残している。
 「南の探検」の旧本は一九四三(昭和十八)年に出ているから実に六十二年ぶりの復刊となる。この機会に徳島ゆかりの先人の存在を知り,理解を深めてはどうだろうか。