歓びの輪っか     大西 時子

発案!する。 言葉で語る。
大小にかかわらず波紋が伝播していく。
行動に移す。 わくわくしている。
小さいハードルは超えて刺激となる。
いくつかの山もたちはだかる。登る。
たいてい越えられない山はない。
ここまではまだまだ平地だ。
だが一旦「思いグセ」の罠にひっかかってしまうと小気味よく走っていた愛車も一気に減速してしまう。ここが正念場,とっておきの「魔法」を使うことにしている。
意識
究極の意識に同調することだ。
「良くみる,よ〜く見る」
アクセルを踏み込み自身の幻覚を踏破していく。
ひとつ「恐れ」が消え「自由」領域が広がる。
歓びの輪っかが広がる。…………,
なんてことが私の日々に繰り返されています。
日常のとるに足りない些細なことも楽しく踏み出す勇気を持ちたいと思っています。

天岩戸が開くとき 人は神に帰る 3
               三村 隆範

 この世に生まれたとき神は,人になった。
 この世を去るとき人は,神に返る。
 それならば,この世にいる間も神のままで暮らしているのじゃないだろうか。
 もともと,すべてが神ならば人も神である。
「いや,人間は神によって作られた物で,人間は神ではない。」という人もいるが,人間的見方で見るなら,人は神によって作られたことになる。
 人間は,相対的・二元的にものごとを見て把握するから,作った物・作られた物と見てしまう。
 自分の髪の毛や爪は,自分から切り離されても私の髪の毛であり,私の爪である。同様に神からいくら切り離しても,それは神である。
 だからこの世の全てのものは,神である。
相対的に見ている間は,人は人間であるが,全てを絶対・永遠・自由に見るようにようになれば,人は,神に帰ることになる。
 人間は,持てる感覚を発達させ,幸いにしてというか意識を獲得した。
 しかし,獲得したその意識に振り回され,奈落の底に落ちるはめになってしまった。せっかく獲得した自由意志をうまく使いこなせないのである。
 本人は,
「私は,私の勝手でしょ!」と自分の考えを自由に使っているように考えているのですが,実は大きな間違いを犯して,自由に使えていないのに,私は,自分の考える正しい方向に向かって進んでいると思っているのです。目の前には暗黒の世界が広がっているとも知らずに・・・・。
 生物は,感覚を持っています。快・不快という感覚です。意識が発達した人間は,ますます早く不快から快の方に向かおうとするのです。しかも他の動物と違って自分の考えた(現実にはない)快に向かって進み出すのです。そこに大きな落とし穴があるのです。
 現実には,一つしかない物を快・不快に見た事から人間の世界は始まっているのです。
 天岩戸が開く前。つまり現実は一つである事に気づけば「踊る阿呆」の世界で暮らすことができるのです。
 ・・・踊る阿呆に 見る阿呆
      同じ阿呆なら 踊らなソンソン・・・