長屋王異聞           三木 信夫

 今回「全国重文民家の集い」の幹事数人と,佐賀・大分・福岡地区の重文民家を見学して廻りましたが,なかでも福岡の横大路家/当主から「長屋王」が孫となる話が出たのには驚きました。実は群馬県の重文民家にも長屋王の末裔が今もなお「彦部家」として現存しているからです。当主の話をまとめてみますと横大路家の家系は古く,白鳳の頃女(むすめ)徳善乃君が采女(うねめ)として勤め,天武天皇の嬪(ひん)となり高市皇子(たけちのみこ)を産みその孫が「長屋王」というのです。正史は高市皇子は,天武天皇の第一皇子でしたが,母が地方豪族出身で,胸形(むなかた)徳善の女(むすめ)尼子娘(あまこいらつめ)であったため,七人の異母弟よりも下位八位でしたが,壬申(じんしん)の乱で天武天皇に代わって軍を指揮する等し,のち執政者として晩年は太政大臣となっています。その子が悲運の死を遂げた長屋王です。
 徳善乃君の生家は,お陰で兄弟の「赤胡」が上位から二番目の「朝臣(あそみ)」の姓(かばね)を賜っており,その家系が横大路家として今日まで残っていました。
 采女とは,全国各地の郡司の姉妹や娘で容姿端麗なものを奉仕させた後宮の女官の事で,定員も六十六人と定められ,また天皇の側室も,妃(=皇女)は二人まで,夫人(=貴族女)は三人まで,嬪(=采女)は四人までと定められていました。
 長屋王は伝記も無く,万葉集に五首の短歌があります。藤原不比等が養老四年(720年)8月に六十二歳で歿した時,長屋王は大納言でしたが721年正月従二位右大臣となり,724年2月4日聖武天皇即位で正二位左大臣となっています。房前ら藤原兄弟はかねてから天皇・皇太子随一の側近であり,左大臣の長屋王でも藤原兄弟との妥協政治でした。729年2月10日左京の人二名が「左大臣は天皇家お命を縮めようと呪っております。など云々」密告され,その夜軍隊が長屋王の邸を包囲し,翌11日邸内で罪を糾問し,12日長屋王とその子四王は自経(=自分で自分の首をくくって死ぬ事)させられ正妻の吉備内親王(=元正天皇の妹)も後を追ったのです。しかし長屋王の側室となっていた不比等の女とその子は放免されています。
 光明子の立后を画策する藤原氏から,皇族でないものを皇后とする事に反対の中心人物と目された長屋王は,誣告(ぶこく=事実を偽って告げる事)(続日本紀に記載)により抹殺され政権を巡る暗闘は藤原四兄弟の圧勝となったのです。(長屋王の変)
 その年の八月十日藤原夫人光明子の立后宣下が行われ,光明皇后の誕生でした。

                   【完】

 ビール              天羽 達郎

 毎日が時間に追われてゆとりなきも
      何故かビールを飲む暇はあり

 目も疲れ気も萎(な)え疲れて帰れども
      ビールを飲めばたちまちに癒(い)え

 ああそうかより努力        小林 金吾

 時代も変わり国も異なるが。エジプトのピラミッドにも「近頃の若い者は」と若者を批判する落書きがあったとの記事を新聞のコラムで読んだ。(社会学者:岩問夏樹氏)そのくらい,いつの時代でも年長者は若者に注文を付けたのだ。もちろん,そういう年長者たちに若者は反駁するが,その年長者たちも若い頃は先輩年長者に対して反発したはずだろう?
 人類の歴史の底流には,このような世代間の対立がずっと続いてきた。だから現代の先輩年長者だけが「近頃の若い者は」と言って居るわけではない。要するに,いつの時代でも国は違えども,先輩が後輩たちに自己の体得知識をもって苦言を呈して居ったのだろうが。これらの事柄を「ウルサイ」と聞き流すか,熟慮して参考にするかで自己行動に結果が現れるだろう。
 未成年者の犯罪行為,特に小中学生の「いじめ」の記事が新聞各紙をにぎわしているが,なぜだろう。加害者側であろうが被害者側であろうが,当事者
家庭は「自由な少子家庭である」という点が共通している。
 一日の始まりの朝食は各人の自由で,家族一同の顔合わせはもちろんなく,親権者の親は子供を構ってやる時間がないとして,子供を自由に伸び伸びと育てることが家族の方針とかで,「教育は学校で」との考えであり。子供の人格尊重のために干渉はしない現代の世相と片付けては居るが。
 各家庭において,朝が一番各人の「ゆずり合い」が可能であり,家族全員の顔合わせが出来やすい時である。朝食も,一同の顔合わせで和気あいあいとし,親子兄弟愛が生まれる場所であるが。統計でも,朝食をとって居る児童が優秀だとある。ゆえに,家族一同で朝食を共にし,話し合いをしている家庭の子供には,犯罪加害者も被害者もないだろう。行政も遅れ馳せながら家庭教育を見直している。
 社会に於いて責任的立場から離れたご仁も,過去には自分が歩んできた行動に目標や目的を持って進んできたはずだが…。
 還暦の言葉を耳にすると,一般に余命との言葉を口に出す人が多いが。何故に余命(アマルイノチ)という言葉を口にするのか。さあこれから,と飛躍的に与命(アタエルイノチ)と考えては…。志向に基づき,社会にお礼のボランティアなど考えることが出来たら。他者にゆだねることなくご自分で逝く歳を設定して,残り○○何年と言葉に出せば。
 自己の全知全能が切蹉琢磨し,やる気細胞が各気幹に指令してやる気を起こさせ,目標達成へと寄与されるもので。未来を予測しながら「アーダ,コーダ」と夢を見ながら努力をしただろうか。その種まきをしただろうか? 充分な手入をして居るだろうか?
 自己信念の不足と時代の世情に流されるご仁が多い。敬神崇祖の言葉があり,信仰は自由だが。しかし,産声をあげる前から縁にしの深い氏神さまや,ご自分のご先祖さまに対して日々の礼拝はされて居られるだろうか。周囲を見れば意外と少ないのは何故だろう。「自由社会の今の時代に神仏など…」とのご仁も居られるが,ご自分が歩んできた結果が今の生活であることを悟らなければ。
加齢とともに前かがみになりやすいが老いたからと自認をするが,老いたから前かがみになるものではない。
 人は話をするとかお経を上げるとか,声を長く出すと腹の空気が出て腹が引込む。自己丹田の「へそ」から三糎下の下腹をふくらませる姿勢をすると良い。共に歩くときなども,下腹をふくらませるくせ付けることである。姿勢が良くなれば自分の思考力も増し,心が晴れ晴れするものである。
 私も目標設定まで残り二十三年と自負し,ボランティアに自己業務にレジヤーにと日々自ら運転しながら楽しんで居る。お蔭様で元気・健康そのものである。

                   合掌
                結果子 勝豊

スイス サ ン ティ ス 連 峰
              松林 幸二郎

 一昨夜,一週間の勤務先(Grossfamilie)からのテシンでの休暇合宿Feriennlagerから,(ハイディは週半ばから半分参加)帰宅しました。
 スイス イタリア語圏のテシンでは夏服で過ごせたのに,こちらはすっかり冷え込んで,慌てて薪をくべました。同じスイスなのに,言語も文化も気候もまったく違うのにはいつも感心させられます。
 今朝は,朝から綺麗に晴れ渡り,サンティス連峰と抜けるような蒼い秋空を背景に,庭に咲き始めた日本のコスモス,ダリア,アスターなど秋の花々が逆光のなかで,美しく映えています。