修身と道徳に付いて
        天香具山神社宮司 橘 豊咲

 修身とは自分の行いを正して修めること。
 道徳とは人の守るべき正しい道のこと。
 道義とは人の守り行うべき正しい道のこと。
 公徳とは社会生活上守るべき道徳のこと。
 以上の語義は指針として似通っていて,人として此の世に生を受けて,肉親と家庭生活を送りながら,年を経て小学校,中学校,高等学校,大学,大学院で学ぶことは,日本人としての教育の基本法に従って,教養を身につけて人格の形成をなし遂げるべく,教育の機会均等に浴することが要(かなめ)であると思う所以である。然し家庭の経済事情,その他の事由にも依るが,専門学校,大学の学部を選んで技術を習得することも肝要であると思う。
 しかし最高学府を卒業したからと言って天狗のようになり,傲慢になる者が出ないとは限らないのである。私は,神職の現役になって十数年経て,当時の文部省の教育モニターとして二年間,月に一回所定の通りレポートを送り,又奈良県の県政モニターを一年間経験しました。人間は学問のみではなく,温情があって指導力も当然身に備わらないと人格者と言えないのである。駅周辺に未だに煙草の吸い殻が落ちていたり,電車の車内で席を譲らずに狸寝入りをする者,これは学生一般を問わずに心得るべきで,ガムを噛んだりした後始末をするのかしないのか判らない。女性,学生がホーム,待合室で煙草を吸ったりしても喫煙場所で無い処のマナーが良くない。
 ミニスカートで足を組んだり,ピアスをつけている学生。穴が開いたり態と破ったズボンを穿いたり。言葉では,それはマジかよ。何時洗髪したかわからない頭。修身教育を受けた小生の世代では考えられない愚かなことで,暑い頃に胸の隆起がちらりと見えたり,内股まで見えるのは風紀上好ましくないのである。高令でもあるから,見えても見えない振りをするのも処世術の一つかも知れない。

 川柳               橘 香林

   電車待つ 女性胸部に 涼(りょう)を入れ

   ネクタイを 取るかはづすか 夏盛中(さなか)

 俳句

   陽炎(かげろう)の 立ちて香具山 午(ひる)下がり

剣山と松浦武四郎   尾野 益大

 幕末の探検家・松浦武四郎(1818〜88年)は「北海道」の名付け親として知られている。その彼が170年前,徳島の最高峰・剣山へ登っていた。ただ登るだけでなく,現在は使っていない地名を記した貴重な紀行文と絵図も残している。北海道の探検を始めたのは28歳のときで,それまで見聞を広めようと諸国を遍歴していた19歳の出来事だった。
 武四郎が剣山へ登ったことは「松浦武四郎自伝」「四国遍路道中雑誌」を見ると分かる。武四郎は3カ月かけて四国霊場巡りを終えた後,箸蔵寺から「怒竃」(つるぎ町の土釜),「鳴滝」(同)を経て1836(天保7)年6月17日,剣山に登頂した。箸蔵寺から吉野川を渡り,鳴滝,土釜までの間,旧貞光町から入ったか旧半田町から入ったかは分かっていない。また,登山道のルートもはっきりしていない。
 山頂から神山町の焼山寺山を眺めて「春に焼山寺に登ったとき南海第一と思ったが,今日は剣山の孫に見えた」と記し,剣山全体の印象を「シャクナゲが多くクマザサに覆われている。石鎚山も雲間に突出している。平家が源氏に追われてきたことも感涙を催す」と書いている。
 絵図は「劒山表之図」「裏山之景」という題の2枚が存在し興味深い地名を残している。山頂を「劒嶽」,その横に「西岳」と記述。劒嶽は現在の宝蔵石,西岳は三角点付近を指すとみられる。県内2番目の高峰ジロウギュウまたは3番目の三嶺を指すと推測される「加霊山」の名前もある。現在の「御花畑」や「龍光寺」のほか,行場とみられる「大ノゾキ」の墨書きもある。
 武四郎の剣山登山については,平凡社が発行した新書「松浦武四郎と江戸の百名山」(中村博男著)に詳しく紹介されている。当時の登山は交通,宿泊だけ考えても大変だった上に,地名,伝説まで調べている。絵図は特に貴重な剣山の資料といえる。
 武四郎は,四国霊場を回る途中,横峰寺から石鎚山も往復している。彼は三重県松阪市出身で,美しい渓谷美と森林で知られる大台ケ原を愛し,亡くなると分骨をしたほどだ。北海道の探検家に違いはなかったが,近代アルピニズムの先駆けでもある。温かく接したアイヌ関係の著作を残すなどアイヌの研究者でもあった。

屈原をたずねて(12)   山田 善仁

 「橘頌(きっしょう)」の後段はこうである。
(5)嗟爾(あわれなんじ)の幼(わか)き志は,ものと異なるところあり。
 独(ひと)り立(た)ちよそに遷(うつ)らず,豈喜(あにこの)む可(べ)きものならずや。
(6)ねは深固(ふか)くして徙(うつ)され難(がた)く,こころ廓(ひろ)やかにして求(むさぼ)ること無し。
 世に蘇(さか)(疎)りて独り立ち,横(しげ)れども流(はびこ)らず。
(7)心を閉(とざ)して自(みずか)ら慎(つつし)み,終(つね)に失過(あやまち)せず(終不)。
 徳を秉(まも)りて私(わたくし)無く,天地(あめつち)とあい参(なら)べり。
(8)願わくは歳(とし)つき謝(あまたす)ぎゆくとも,与(とも)に長らく友たらん。
 淑離(うるわ)(麗)しくして淫(みだら)ならず,梗(たけ)くして其(そ)れ理有(あやあ)り。
(9)その年歳(よわい)少(わか)しと雖(いえど)も,そのとくは師(し)と長(あお)ぐ可(べ)し。
 行(おこな)いは伯夷(はくい)に比(たぐ)う,あがめ置きて像(のり)と為(な)さん。
 若木の橘(たちばな)の性状の美を自身に重ねて,理想の人間像を託し,橘を長く師とし友として,屈原は生涯をこの考えで貫いている。

        (竹治貞夫,中国の詩人屈原)

 屈原が若き時代に作った「天問」や「橘頌」詩経,楚辞と共に倭国に伝来された。
 聖徳太子が摂政の時代に手掛けたとされる日本最初の記録史は後々に,政敵である大臣蘇我氏の血を葬り去った中臣鎌足一族(藤原氏)の天下になって,帰化した百済系の書記官等が編纂(へんさん)し「古事記」を作る。それには殷,周,漢の祭祀,或は政事(まつりごと)が,朝鮮風倭国志として,脈々と引継がれている事を垣間見る事が出来る。

腹の立つ虫       本多 幸代

 私にとって一番厄介な虫です。
 今迄何ともなかったのに動き始めてあばれます。
 暫くおさまりません。
 早くおさまってほしいと思いながらも気が済む迄あばれています。
 どうすればいいのと呼びたくなる思いとは反対にあばれます。
 何年この虫と付き合っているのだろうか?
 何日になったら消えてくれるのでしょう。
 多分その時は私も存在しないでしょう。
 その日迄あばれる日が少なくなるよう,努力するしかないでしょうネ。