菩薩と羅漢       近藤 隆二

 仏教の修業法に,自力・他力の二方法あることが法学博士廣池千九郎著道徳科学の論文8冊目416頁に書かれております。「仏教の経典に基づきて画き,もしくは彫刻せるところの羅漢の人相と菩薩の人相とを比較する時には,甲の人相をば実に苦労を重ねたる容貌としてこれを現し,乙の人相をば実に柔和温厚の容貌としてこれを現し如来の相と髣髴たるものとしてあります。この二者はともに仏教の修業を積みすでに如来の次位に達せる高徳の人々ですが,その主として自力を用いて自己の最高品性を造らんとする所の羅漢の相と,主としてその精神的伝統の諸仏に奉仕し,その力に依拠して人心救済をなさんとする所の菩薩の相との相違は両者の平素における心遣いの剛柔の差を示し,おのずから私達に自我没却の必要を感じさせる。最高道徳における最高品性完成の法は,この菩薩の修業に類似せるものにて,もっぱら神を信じ,神の法則すなわち自然の法則を守り,その範囲内において自力を用いるのであります。」と論文に書かれております。私達も人様のお世話をさせてもらう場合に自力のみでするのではなく精神伝統に奉仕,報恩しながら神様につながり,神様に縋り,神様の力を借りて,人様のお世話をさせて頂くことが私達の品性向上と安心・幸福になっていくことを教えて頂いております。最高道徳では神仏に直接祈願し依頼せず,必ず精神伝統を通じて神・仏につながることの重要性を教えて頂いております。銀行でお金を借りる場合でも自分自身に信用がなくても,軍功に信用のある人が保証人になってくれればお金を貸してくれるのと同様に,私自身は神様に信用がなくても,神様の信頼されている精神伝統が頼んでくれれば私達にも御守護して頂ける道理です。

素人と玄人    芝山 大輔

 先月の原稿に昨年3月からこちらに戻り,仕事を始めたと書かせて頂きました。よってまだまだこちらの仕事に関しては「素人」の域であると考えております。
 1月25日付けの日経新聞のコラム「春秋」に素人と玄人についての記載がありました。
 元々素人というのは「白人」,玄人というのは「黒人」と表記していたというのが定説のようです。確かにある領域において,全くの素人というのは手を染めていないという意味でも「白」,玄人は手を染めたのか,汚れた?のかは不明ですが「黒」というような想像がつきます。
 そのコラムは宮崎県知事に当選した政治の分野での素人,東国原氏への期待を込めた言及でもって締め括ってありましたが,玄人,即ち公正な判断ができる人という図式には当てはまらないという事象は多々あるような気がします。
 昨今問題視されている,耐震偽装問題にしても然り,汚れたという意味での「黒人(くろうと)」が存在することは間違いありません。
 教育の現場における玄人と言えば,教師であり,教育委員会,日教組などがそれに当たると考えますが,こちらも最近の指導方針については如何なものかと首を傾げることが多い気がします。
 「万人に対して公平な教育指導」なのかもしれませんが,資本主義社会の日本に於いて,運動会の順位をつけない,子供が喧嘩になった時は先に手を出した方よりやり返した方が悪い等々・・・
 私の好きな言葉に「公平必ずしも公正ならず」というものがありますが,この教育現場に於ける矛盾はこの言葉通りのような気がしてなりません。
 こちらの仕事に就いてそろそろ1年が経とうとしておりますが,「白人(しろうと)」の考えをどこかに持ち続けることのできる「黒人(くろうと)」になっていきたいと願う今日この頃です。

屈原をたずねて(14)   山田 善仁

 九歌の初めの「東皇太一」は,一般の祭巫が合唱合舞する迎神歌である。
【1】きょうの吉(よ)き日の辰(とき)も良し,うやうやしく将(まさ)に上皇(あまつかみ)を愉(なぐさ)めまつらんとす。長き剣(つるぎ)の玉(たま)の珥(つば)もと撫(おさ)うれば,さやさやと腰の琳琅(おびだま)鳴れり。
 (【1】は祭巫のいでたちを描いている)
【2】瑤(たま)の席(むしろ)を玉(たま)もて(おさ)え,盍(あわ)せて将(まさ)に瓊(たま)と芳(はな)とを把(ささ)げまつらんとす。恵(けい)につつみし肴蒸(まつりにく)には蘭を藉(し)き,桂(けい)の酒と椒(しょう)の漿(みず)とを奠(そな)えん。
 (【2】は供え物のしつらいを描いている)
【3】枹(ばち)ふり揚げて鼓(つづみ)を拊(う)ち,〔笙(しょう)のふえ吹き簧(ふえのした)を鼓(ふる)わせん〕。緩(ゆる)き節(ふし)を疏(の)べて安(しずか)に歌い,(ふえ)と瑟(こと)を陳(つら)ねて浩(たか)らかに倡(うた)わん。
【4】霊偃蹇(みこまいあそ)びて(あで)やかに服(よそお)い,芳(かおり)におやかに堂に満てり。五音(がくのね)紛(にぎ)やかに繁会(いりまじ)り,君(かみ)は欣欣(たのしげ)に楽康(やすら)ぎたまう。
 (【3】【4】は音楽と舞のさまを描いている)
 続いて祭神歌第一の「東君」から演じられる。「東君」は日神,太陽の神である。荘厳な日の出を拝し,これを祭る。
 祭場には,日神に扮する男性の神巫が独唱独演し,一般祭巫の楽舞も演ぜられる。
【1】暾(あかあか)と東(ひんがし)の方(そら)に出(い)でんとし,吾(わ)が檻(おばしま)を扶桑(ふそう)より照らす。余(わ)が馬を撫(な)でつつ安(おもむろ)に駆くれば,夜(よ)は皎皎(しらじら)として既(やが)て明(あ)けぬ。
【2】竜(たつ)の(ながえ)に駕(こまつ)けて雷(いかずち)の車に乗り,雲の旗を載(た)てて委蛇(たなび)かせり。長き太息(ためいき)つきて上(のぼ)らんとすれど,心低徊(たゆた)いて顧(かえり)み懐(おも)う。羌声(ああうた)と色(まいびめ)の人を娯(なぐさ)むるや,観(み)る者こころうばわれて帰る事も忘れつ。
 太陽は東方の湯谷(ようこく)で浴し,扶桑の木の上枝から空に昇る。下界を見れば,我を拝するため祭壇が設けられ,美しい巫の歌舞が行われている。そこでわが祭壇の檻(らんかん)を扶桑の枝から照らし,おもむろに昇って行く。杲々(こうこう)たる姿を地平線上に現した太陽が,悠然とたゆたいつつ,東天に昇るさまを巧妙に写している。
【3】瑟(こと)のいと(し)めて交鼓(こもごもかな)で,鐘(かね)うちたたきて(かねかけ)を瑤(ゆす)り,よこぶえを鳴らし(たてぶえ)を吹く,その霊保(かんなぎ)の賢(さか)しく(うるわ)しきを思(した)う。
【4】詩(うた)を展(の)べ律(しらべ)を会(ととの)え,舞(まい)に応(あわ)せ節(ひょうし)に合(かな)い,(かろ)やかに飛び翠(はげ)しく曾(かけ)れば,霊(かみ)つどい来て日を蔽(おお)えり。
 (【3】【4】は祭場で一般祭巫による祭祀の歌舞を描き,それを見るために百神群霊が下り集まる事を述べる)
【5】青雲(あおぐも)の衣(きぬ)白霓(うすにじ)の裳(も),長き矢を挙げて天狼(てんろう)を射る。余(わ)が弧(ゆみ)を操(たばさ)み反(かえ)りて西に淪降(しず)み,北斗を援(ひ)きよせて桂漿(けいしょう)を酌(く)む。余(わ)が轡(たづな)を撰(さば)きて高く駝(は)せ,杳冥(くら)きあまじを翔(かけ)りて東(ひんがし)に行く。
 「天狼」は野将と呼ばれ,侵掠(しんりゃく)を主(つかさど)る東方の悪星。「弧」はその東南にあり,九星から成り天弓と呼ばれる星。「北斗」は杓(しゃく)の形をした北斗七星。「桂漿」は桂香を加えた酒漿(さけ)。
 やがて日神は,途中弧星の弓で悪逆な狼星を射,もとの行路に反(かえ)って西に沈み,北斗の杓で酒を酌んで一日の労をいやし,再び東行して明日に備える。

        (竹治貞夫.国の詩人屈原)

天岩戸が開くとき 人は神に帰る 7
生きる(意の世界)について 三村 隆範

 亥年ですから,意之志士(いのしし)と年賀状に書きました。


 私は年男です。生まれ帰る還暦です。
 また,阿波はもと伊の国(倭国)です。
「い」とは何を意味しているのでしょうか?
「伊・倭・委・壱・葦・以・猪・意」など色々の漢字があります。
 年賀状には,「意」を使いました。
 私は,宇宙には「意」が充満していると思ったからです。その「意」の現れたことが「生きる」であると思うのです。
 生き物には「意」があり,人間は「意」が高度に発達しています。しかし,その高い意識に振り回されて,とんでもないことが起こります。
 阿波では,
・・踊る阿呆に 見る阿呆
  同じ阿呆なら 踊らな ソン ソン・・・

 と唄っています。特に何も感じず歌い継がれていますが,何も感じないのに,長く歌い継がれることは無かったでしょう。上手く表現できないが,何かを感じるから歌い継がれているのでしょう。多くの人は,この囃し詞を「踊る方(動)がいい」と思っているのです。しかし,よく読むと…
 動く(踊る)ものも,静(見る)も同じ阿呆だと見ているのです。その上で,踊らな ソン ソンと唄っているのです。踊らな ソン ソンとはどういう意味でしょう。
 動く(踊る)ものも,静(見る)も同じ阿呆だ。
 踊らな ソン ソン・・・決して身体を動かさなソンソンといっているわけではないでしょう。
 動いていても静止していても生かされているんだ。さぁ 踊ろうよ! 楽しいじゃないか!
 天岩戸の前では,みんな踊り出す。
     阿波は,深い「意」を秘めた国です。