ひょんなことからパソコンに興味を持ちました。それ迄は,絶対に必要のないものと思っていたのです。 鳴門店で「阿波と古事記」の勉強会をしています。どんなものなのかと思ったのがきっかけでした。古事記のことは分かりませんが,いろんな方のコメントを読んでいるうちに,1つのことにもそれぞれの思いが一杯つまっています。 いつの日か,私も何かコメントを書き込みたくなりましたが,書き込めないままでした。 ある日,「簡単な一文字でいいんや」と言われ,恥をしのんで書き込みました。 いつもの様に皆さんのコメントを読んでいると,私への返事があるのです。嬉しくなって,今も簡単な文ですが書き込んでいます。とっても楽しいです。(カゲで娘が笑っています。あれ程いやがっていたのにと。)
天岩戸が開くとき 人は神に帰る 8 阿呆について 三村 隆範
・・踊る阿呆に 見る阿呆 同じ阿呆なら 踊らな ソン ソン・・・ 何のためにこの世に現れたのかわからない。 気がつけばこの世にいた。 あれもしたい。これもしたい。と思っていても,時期が来れば,旅立って往かねばならない。 また,あの世に何をしようと思って行くのかもわからない。 このように生き物は,生かされて生きている。ですから,この世に現れたら,そのまま生きているのですが,人間だけは少し違うようです。 そのまま生きていたらいいのですが, 「アレが いや…」「これが いや…」 「こちらがいい」と選択できるでのす。自由に選択できるから,いつも幸せな日々が送れるようになると思うのですが,そうはいかないのが現実です。 なぜそんなことになるのでしょう。 それは,「 阿 呆 」になれないからです。 人をはずすと阿呆になるのです。 阿呆は,阿保です。人偏をとると阿呆です。 阿保は,阿を保つことです。 阿は,すべてを現しますから,阿を保つことが阿保ですが,人も他の生き物も阿を保って生きている(生かされて)のですが,人間は,阿をはずすことも出来るのです。先にも書いたように 「アレが いや…」「これが いや…」 「こちらがいい」と選択できるのです。 ですから,人でいて人をはずす,つまりそのままで良しと思えるようになると人でいて神になるのです。 ・・踊る阿呆に 見る阿呆 同じ阿呆なら 踊らな ソン ソン・・・ これは,どちらも同じだ。いつも良しの心意気を唄っているのです。