九州の重文民家を訪ねて(2)      三木 信夫

 山口(やまぐち)家

 十九世紀後半の建物で,筑後川河口近くの干拓地にある「漏斗(じょうご)造りの家」で,棟の左右の端に馬の耳のような飾りがあり,日本民家の中でも最も特徴的なロ型寄棟造りの茅葺屋根の農家です。棟を四方に廻すので棟より内側は漏斗のようになっていまが,説明版を読まないと外見では見えないのでわかりませんでした。雨水は中央より土間上部を通って西面の軒下まで続く瓦製の大樋で排水される仕組でした。

 旧川打(かわうち)家

 十八世紀前半の建物で,コ型寄棟造り茅葺の農家で,初期の「くど造り」の家です。
 伊万里街道に面した建物でしたが,道路拡幅で同街道を六百米西に移築されていました。
 「くど造り」とは真上から見ると「コ」の字になっておりカマド(くど)の形に似ているのでこのように呼ばれています。

(つづく)

火防(ひぶせ)の神 秋葉神社について
        天香具山神社宮司 橘 豊咲

 阿波風28号に橋本さんの,秋葉神社の御利益についての文章を拝読いたしました。
 昭和31年4月,神職の資格取得のため,名古屋の熱田神宮境内の神職養成所に入学,現在は熱田神宮学院になっております。学院の教室で勉学中,透明の硝子を通して視界に入ったのは,大きな屋根瓦の秋葉寺で今でも印象に残っています。明治までは秋葉権現と言って,その市内の或る神社との習合であったと考えられます。
 昭和32年3月末に養成所を卒業して,内定の尾張一宮の眞清田(ますみだ)神社とは別の,静岡の北遠州春野町の秋葉神社に神縁があった次第です。全国に約2000社の同名神社の本宮に奉職することになり,同級生と実務の勉強と,950mの奥宮の整地作業に専念しました。火の神様で参拝して祈祷を受けるには,消防自動車で,岐阜,長野,愛知,静岡,神奈川が多く,浜松から約2時間の距離でも,真夏以外に毎日,2〜3百人の祈祷があって神様の御利益があり,御神徳を大勢の人が受けられた次第です。里の宮の鳥居から石段の数まで記憶していませんが,拝殿前まで登るのが大変です。何百年以上の歴史があって,秋葉山本宮で勉強した神主は短期間で書道の有段者になる人は多く,毎日天竜川の支流の気多(けた)川を間近に眺めて修業する訳です。太平洋戦争で敗色濃厚となり,南方より数百機のB29が飛来して,秋葉山の頂上の真上に勢揃いをして東西南北に方向を変えて爆撃に向かったと言う。地元の年輩の人が枕を高くして眠れなかったとの由。900m辺りから富士山の雄姿を眺めることで気持ちが晴々として,登山,下山の繰り返しの一月毎の山上勤務で,3週間で複数の神職と交替。下山して祈祷と神饌田(しんせんでん)の農業をやりながら一年の月日が流れて,33年3月中頃,加賀一宮に転勤した次第です。
 来る4月30日阿南市の神社の参列の折,お会いできるかと思っております。
 現在二俣(ふたまた)線の西鹿島(かじま)より山上へのバスの便があって奥宮の社務所兼参籠所(さんろうしょ)に宿泊可能だと思っています。

硫黄島(1)      天羽 達郎

 今年の2月中旬,クリント・イーストウッド監督の映画『硫黄島からの手紙』を見た。米軍の艦砲射撃で島の形が変わってしまったという周囲わずか22キロの小さな島での話だ。今次大戦の最激戦地で米兵1人が1メートル進むのに2トン近くの弾薬が投入されたという。日本軍は全延長18キロの穴を掘り,水も無ければ食料も無く,地熱で暑い中を戦った。米軍最強のマリーン部隊が3倍の兵力で4日で陥すつもりが36日もかかった。しかも死傷者の数は米軍の方が多かった。米軍は焦っていた,サイパンを出撃した爆撃機が零戦に撃墜されるので,足の短い護衛戦闘機は硫黄島から飛ばす必要があったのだ。
何としてでも硫黄島を占領したい。だからあのような激しい戦闘になった。その硫黄島に私は行きそくったことがあった。
 昭和50年だと思う,東京都立豊島病院にいたとき都庁より電話があった。南鳥島南方の海上で漁船の中で喧嘩が起こり船員が腹を刺された,誰か外科の医師が救助にいってほしいとのこと。だれも手を上げなかった。そこで私が行くことになった。まだ35歳の頃で馬力があったからねぇ〜。船はそのとき硫黄島に向かっているという。硫黄島には米軍が作った施設が残っておりそこで手術が出来る。豊島病院から滅菌した手術器械と医薬品を持って行き,看護婦を連れてそこで手術をやれという。羽田空港よりヘリコプターで航空自衛隊千葉県木更津基地に飛び,そこから軍用機に乗り換えて硫黄島に行くのだそうだ。看護婦にも活きの良いのがいて手を上げてくれた。知らせが入ったのは午後も遅い時間だった。夕方より準備をはじめ院内で待機した。出発は早朝の予定。

(つづく)

忌部の話 四 「遺跡と遺物 その一」
               尾野 益大

 三好,細川時代の中世,蜂須賀時代の近世だけではなく,阿波徳島は,古代から海を渡る優れた能力,技術,情報を持っていた。
 一つの証明が阿讃山脈の麓に点在する古墳群。これらのうち特に古い時代の被葬者は,邪馬台国から大和政権にかけて大きな影響を与えた有力者の墓といわれる。その一つ鳴門市大麻町の墳丘墓「萩原二号墓」(二世紀後半から三世紀初頭)が,埋葬施設の構造から国内最古の前方後円墳ホケノ山古墳(三世紀半ば,奈良)のルーツであるという点だ。
 この説を強調する奈良県香芝市二上山博物館長の石野博信・徳島文理大教授が三月末,現地を訪れて「埋葬施設を重視すれば,ホケノ山古墳の被葬者は阿波の海洋民。萩原二号墓の被葬者の孫の代にあたる」と語った。阿波の海洋民の力は中国・朝鮮と交易を進めていた近畿の弥生人の瀬戸内,日本海の海上ルートを確保するため不可欠だったようだ。
 古代阿波の海岸線は現在もより内陸にあった。大麻町は海岸部か吉野川沿岸で,板野にかけて国際貿易港が存在していたという。萩原二号墓の埋葬施設の構造,積み石の技術などのほか,徳島市国府町の国造家跡の遺跡から出土した国内最古の「論語木簡」からも分かるように当時,阿波も中国・朝鮮と交易を進めていて,潮と風を待ち,天体を観察する優れた航海術があった。
 忌部が千葉(安房)のほか,伊勢,紀伊などへも海を渡ったことを考えるとき,萩原二号墓の時代の有力者は,のちの忌部一族と考えるのが自然だろう。当時,国府の勢力と血縁関係にはなくても大きな勢力の一員であり当然,交流があったとみるべきだ。萩原二号墓の青石を取り上げても明らかに吉野川南岸産であり,持ち運んでいる。
 忌部と関係がある大麻比古がまつられた阿波一の宮・大麻比古神社が近くに鎮座していることも,鳴門・板野古墳群と忌部が縁があることを補強する事実とみていいのではないだろうか。
 中世から近世にかけて活躍した阿波水軍は忌部の航海術を引き継いでいたといえるだろう。