東スイス日本人会の新年会
              松林 幸二郎

 私が代表を勤める東スイスの日本人会,東スイスねっとわーくの最大のイベント,それだけに膨大な準備のいる,新年会が今度で5回を数えるに至りました。70数名の東スイス在住日本人が会員で,その中で男性は2人です! 国際結婚をして男性が他国に住むというのは希有な例であることを語っています。
 新年会は年々,参加者も増え,今年は70名を越え,年齢層も広がって,年齢差に関係なく楽しんでおられる嬉しそうな表情をみますと,言葉にならぬ感動が湧き上がってくるのを押さえることができませんでした。会費なし,会則なしという極めて緩やかな形で東スイスねっとわーくが5年前に発足したとき,正直いってこれまで継続するであろうとは考えてもいなかったのです。
 さまざまな経過を経て,スイスという祖国より何万キロも離れた異文化のなかに身をおき,日々日の丸を背負ったような精神的緊張感をもちつつ,幸せな家庭あるいは夫婦関係を築いていくことは決して容易ではありません。そんな同胞に少しでも役に立つような情報を提供するとともに,同じ日本人として連帯しつつ,励ましあい,助け合っていきたいという願いから発足させたのが東スイスねっとわーくです。どれだけ目的が達せられたか知るよしはありませんが,これまで消滅せずに来れたのも,会員の励ましとか感謝の言葉に加え,自己犠牲という言葉が死語になった感のある現代において,何の金銭的な報酬を求めることなく,手弁当で発足時から献身的に働いてくださった世話人会のメンバーのおかげであろうと深く感謝しております。
 その発足時から,屋台骨として大切な働きをしてくださったお二人が,今回の新年会を機に新人にバトンタッチされます。OSNにとって大きな損失であるに違いありませんが,こういった会は4〜5年で役員は交替していくのが理想であるのかも知れません。新しい世話人の方がどんな新風を吹き込んでくださるか,楽しみにしつつ,退任される2人の日本人女性と彼女の働きを陰で支えたスイス人夫に深く感謝の意を表した2007年の幕開けでした。

何かが始まる     月岡 功

 四月から習い事や趣味などを始める人は多い。
 年度の初めが四月であり,学校や企業,官公庁など事業を四月からスタートさせることに影響を受けているのかもしれない。
 また,四月からの季節は万物が成長に向かって活発に活動を始める時期,人間も肉体的精神的活動が活発になってきているのかもしれない。
 昔は一年の計は元旦にありといわれていた。
 前年は計画を練る時期,プラン作成は前年の12月末までに終えて,元旦にはその年行うべきことは明確になっている。
 一月から三月の間は,四月以降の行動の実施のための諸準備を行う時期と位置づけられる。
 個人の趣味などでは思いついたが吉日という場合もある。ただ,春に思いつくことが多いということもあるのではないかと思う。
 書道や絵画などのように今すぐにはじめられるものもあるが,園芸などでは売っている花を買ってくるということでもしなければすぐには楽しむことはできない。
 春に自分で育てたチューリップを楽しもうとすれば前年の12月頃までには球根を植えつけておかねばならない。夏の家庭菜園にナスやトマトが欲しければ今すぐに行動を起こそう。
 「始め良ければ半ばの成就」,「百里を行くものは九十里をもって半ばとする。」,「終わりよければすべてよし」などの励ましを受けて,せめて5年は継続するという決意を持って行動を起こそう。
 四月は躍動感にあふれる時期である。この時期に何かをスタートさせよう。冬の時期に行った十分な思案と準備を杖として。

モネの家

屈原をたずねて(16)   山田 善仁

 次に「湘君(しょうくん)」と「湘夫人(しょうふじん)」である。
 「山海経」の中山経には,洞庭の山に帝の二女が居り,常に江渕(こうえん)に遊ぶと伝えられる。この天帝の二女が,いつしか帝堯(ぎょう)の二女で,帝舜(しゅん)に妻(めあわ)された娥皇(がこう),女英(じょえい)の伝説(舜は晩年南征して崩じ,蒼梧(そうご)に葬られたが,二妃はその後を追うて及ばず,江湘(こうしょう)の間に溺死(できし)したという話)と結びつけられて,湘水の二人の女神は娥皇と女英という事になった。又,長女の娥皇は舜の正妃であるから君と曰(い)い,次女の女英は降(くだ)して夫人と曰う。
 司馬遷が記した「史記」の始皇(秦の始皇帝)本紀に,始皇の28年(西暦前219年,仙薬を求め徐福を東海へ遣した年)江(こう)に浮かんで湘山の祠(し)に至り,大風に逢った時,始皇帝が「湘君」は何の神ぞと問うと,博士(はかせ)が堯の女(むすめ)で舜の妻となったものが此(ここ)に葬られたと聞いております,と答えたので,始皇帝は大いに怒り,刑徒3千人を動員して,湘山の樹(き)をすっかり伐(き)らせ,山を赭(はだか)にしてしまったという。この博士の答えは,その伝承を物語っている。
 「湘君」と「湘夫人」の歌詞の内容は劇的で複雑であるが,ともに女神に対して媒女(なかだちおみな)に扮した巫を伴った特定の祭巫(男性)が愛慕の情をささげつつ追い求めることを述べている。しかし湘君も湘夫人も舜の妃であって,最後はかなわぬ恋に終わるのである。
◎「湘君」の詞を掻摘(かいつま)むとこうである。
 湘君は遥か彼方の湘水(しょうすい)の中洲(なかす)に立っている。祭巫はこれを慕うて桂舟(けいしゅう)を漕ぎ出して近づくが,湘君はこちらを顧みようとせず,夫君の舜を思ってか少し歯を見せて微笑,しきりに舜が作ったとされる鳳(ほう)の翼を像(かたど)った簫(しょう)の笛を吹いている。(場面は湘水の北に洞庭湖が広がり,その北に長江が流れている。)
 北に去る湘君を追うて祭巫は,薜茘(へいれい)のすだれ,(けい)のとばり,(そん)の櫂(かい),蘭(らん)の旗(はた)と,すべて香草香木で出来ている飛竜(はやぶね)を駕(した)てて湖上をめぐり渡る。しかし,湘君の姿は遙かに隔たり,陽(しんよう)の彼方を流れる長江のほとり一面に霊光を輝かせていた。
 一向に近づけぬ媒女(なかだちおみな)はやさしく気づかって余(わ)が為に吐息する。涙あふれて,ほろほろと落ち,君を恋い慕いて胸を痛める。なおも舟を進めついに長江の北渚(ほくと)にある祠堂に来たが,湘君の姿は無い。そして,余(わ)が(かけだま)を長江の中(うち)に沈(しず)め,佩玉(おびだま)を水(れいすい)の浦(いりえ)に沈めて,芳草の州(すさき)に杜若(はなみょうが)をとり,せめて此の世の女(おみな)に贈ろう。
 よき時は再び得(う)ること可(かな)わねば,聊(しば)し逍遙(そぞろあるき)してやすらわん。と祭儀を結ぶ。
◎「湘夫人」の詞も,湘夫人に近づいたり遠のいたり,或いは我を召し給(たま)うと聞き,神婚生活を営む水中の宮殿の空想に耽(ふけ)る。宮殿の建築の資材は,すべて香草香木である。
 室(やかた)を水の中(なか)に築き,之(これ)を荷(はす)の蓋(とま)もて屋根を葺(ふ)く。(あやめ)の壁,紫貝(しばい)の壇(なかにわ),芳椒(はじかみ)を播(ぬ)りて堂(たかや)を成(かざ)る。桂(かつら)の棟(むなぎ),蘭(らん)の(たるき),辛夷(こぶし)の(うつばり),葯(よろいぐさ)の房(へや)。甘美な空想はここまで。夫である舜が葬られている九嶷山(きゅうぎさん)の神霊が山神の群れを遣わして湘夫人を迎えに来たのである。そこで逢う瀬の夢は空しく絶たれる。
 そして「湘君」と同じく,余(わ)が袂(たもと)を長江の中(うち)に沈め,余(わ)が(はだぎぬ)を水(れいすい)の浦(いりえ)に沈め,州(すさき)ににおう杜若(はなみょうが)を摘(つ)み,さらば遠い人に贈ろう。よき時はしばしば得(う)ること可(かな)わねば,聊(しば)し逍遙(そぞろあるき)してやすらわん。で結ぶ。
◎「湘君」も「湘夫人」も求めて得がたい男女の恋愛の情に託して,祭者である人間が,湘水の二女神に対する敬慕の意を示したものである。

(竹治貞夫,中国の詩人。屈原)(目加田誠,詩経楚辞)

千羽鶴         近藤 隆二

 妻の勤務している会社の会長(創業者)さんが先日入院されて手術もされました。
 日頃お世話になっているご恩に報いるためと,病気平癒をお祈りして家族で千羽鶴を折ることにして嫁いでいる娘にも手伝ってもらって1人平均200羽折ることに決めました。色が15色あるので,3色ずつ5人で折ることになりました。約1週間で折れました。
 糸で通して束ねて仕上げ,日曜日に家族で千羽鶴と病気平癒の御守りを持参。会長さんは感激していただき,合掌してお受取下さいました。付き添いの方も感動していただき,私達も感激しました。
 「鶴は千年,亀は萬年」と昔から言われて,鶴は長寿の代名詞のように言われています。
 法学博士廣池千九郎先生は語録の中で「鶴が千年も寿命を保つのは腹八分目に食うからじゃ」と教訓されています。「腹八分目に医者いらず」とも言われます。「宥座の器」も空の時は傾き,ほどよく水を入れると正しく水平を保ち,水をいっぱい入れるとひっくり返ります。ほどよく入れるとは八分目のことで,物事は一歩ひかえることが大切であることの教訓です。