九州の重文民家を訪ねて(3)
                三木 信夫

旧境(さかい)家

 肥後民家村に移築されたもので,文政十三年(一八三〇年)の建物で,正面は何の変哲もない寄棟造りに見えますが,裏は後谷型の二つの家系のコ型寄棟造り茅葺の農家で,先に説明しました旧川打家のような造りです。
 外壁は,柱の外側の少し離れた位置に建ちあがって,独立した壁体の造りとなって,少し内側に傾斜して造っている珍しいものです。

旧矢羽田(やわた)家

 日田市ふるさと資料館横に移築されていますが,十九世紀初めの建物で,屋根の形に特徴があり,前谷型の二つ家系の家で,上手に角屋(つのや)の座敷があるコ型寄棟造りで茅・杉皮葺の農家です。屋根は茅葺に見えましたがよく見ると杉皮葺でした。

行徳(ぎょうとく)家

 天保十三年(一八四二年)の建物で,正面に瓦葺玄関を構えた鍵屋形式の家屋で,茅葺の大屋根はL型寄棟造り,桟瓦葺の庇や下屋がある医師の家です。江戸時代の玄関は,格式を表現した構えで,家族以外の特定の人が出入りするところで,庄屋等を除けば一般の民家にはありませんでした。

(つづく)

硫黄島(2)      天羽 達郎

 午後10時過ぎに船から無線が入った。『水を飲みたいと言っているが飲ませて良いか』これは死ぬなと思ったので飲ませてやれと伝えた。間もなく死んだ。それで沙汰止みとなったが,翌日都庁より院長を通じて謝辞が伝えられた。行かなかったので別に謝辞なんかいらないのになと思ったが,上司で古参の医師が『ありがたく頂いておけ』といった。要するに引き受けたという事実が大事なんで都庁はこれで面子が立ったことになるんだよ,役所とはそういう所だよと。へえ〜そんなものかなあと何となく納得したような気になった。
 この硫黄島の戦闘で米軍は日本軍の強さが身に染みたという。それがその後の日本を有利に導いた。ポッタム宣言に『我々は日本人を皆殺しにも奴隷にするつもりもない』という一文を入れ,沖縄戦のあと九州上陸をしなずにすむように,日本が降伏しやすい様にしたのだ。現在硫黄島は自衛隊の基地になっているので個人では勝手に行けない。毎日埼玉県入間基地から真水を運んでいるという。戦死者2万2千のうち6割以上の約1万3千5百名の遺骨はまだ土に埋まったままだが,米軍が種を播いたねむの木が生い茂り当時とは景色が変わってしまっているそうだ。

(完)

南浦三社の祈年祭奉仕について
        天香具山神社宮司 橘 豊咲

 平成19年弥生(やよい)11日,香具山地区南浦町三社の祈年祭執行の日で,私が14社の宮司に就任してから12年目,祈年祭は11回目を奉仕して感慨無量の心境でした。今年は暖冬で一回の降雪もなく,当日は前日より低温で高齢故貼るカイロで奉仕しました。
 正午孟宗竹の薮(やぶ)も静かで,米虫(こめむし)責任総代外数名参列,宮司もやや緊張して参進の笛を吹奏,修祓,献饌(けんせん),大祓詞(おおばらいし),祈年祭祝詞奏上,鈴祓(すずはらい),玉串奉奠(たまぐしほうてん),撤饌(てっせん)と次第通り終わって挨拶退出,小憩無しに152mの香具山に向かって参進。宮司は行列の最後尾で,三歩進んで一歩後退しながら登って途中,イザナミ神社で拝礼1時過ぎ山頂に到着,風速7,8mで懐中烏帽子(えぼしかいちゅう)が揺れても飛ばなかった。準備の後国常立(くにのとこたち)神社,タカオオ神社(かみしゃ)の祈年祭斎行(さいこう)後下山のルートに向かって,一段30糎余の丸太を埋めた階段を滑(すべ)らないように降りて,所要約15分,天香具山神社境内に到着。1時50分,天香庵(てんこうあん)にて小憩。準備の後,櫛眞知命(くしまちみこと)を祀(まつ)る本殿真下の割拝殿で,祭典執行2時過ぎ終了会30分,責任総代以下十名,一般二名参列厳粛裡(げんしゅくり)に三社祈年祭終了会40分天香庵にて直会準備,合汁11名で簡単な直会を宮司の乾杯弥栄(いやさか)で開会,終始和やかな座談会の様に刻(とき)は進み,結局冷酒散供(さんく)の御酒(みき)を除いて一升八合で直会のお開(ひら)き解散。

 「薮(やぶ)静寂(しじま) 祝(はふり)の緊張(きんちょう) 浅き春」

 「ゴム草履(ぞうり) はく神主(かんぬし)の 俯(うつむ)きて
  息継(いきつ)ぎながら しんがり登拝(とはい)」

 「皇御祖(すめみおや) 古代に坐(ま)しし 狭(せま)き室(むろ)
  御霊(みたま)穏(おだ)いに 今見そなはす」

 すべての思いを家族に 32
 嫁から学ぶ
        田上 豊

 嫁は,滋賀県から嫁いできました。現在三人の男の子に恵まれています。当家にとっては孫の誕生は喜びの他有りません。
 嫁が来てくれて,私の六十歳定年も実現できました。感謝です。
 連日,仕事と育児に奮闘しています。特に子育てと教育に多くの良いところを見せてくれています。子育ては,親育てと言いますように親子共々に育っていくのでしょう。先日も長男(十歳)を抱きしめていました。遊びの中からでしょうが孫長男は,はにかみながらも嬉しそうな顔をしていました。この様な事も大切です。
 私の一番嬉しいことは,ご仏前を大切にしていることです。仏壇は私の両親が祀られています。子供の教育も兼ねているのでしょうが,孫達がかわるがわるお供え物を持っていきます。先祖を通して物を頂く訓練をしているのでしょう。又,長男と次男(八歳)には手伝い仕事を与えています。風呂掃除と食器の整理等です。
 食器は自動洗い機から戸棚に器別に入れるお手伝いです。このようにお手伝いも教育の一環でしょう。
 子供達にクラブ活動ではサッカーをさせています。心身の鍛練を目指しているのでしょう。
 私達には先祖があり現在の自分があります。自分から子孫へと繋がっていくのでしょう。代々の繋がりを大事にしたい物です。