ほのかな甘み     相原 雄二

 さあ,どのくらい経ったのだろうか。
 小学生の頃,学校の授業が終わると転がるように家に帰り一升ビンを抱えて飛んで行きました。
 近くのお寺に走り込み,釈尊像の頭上に甘茶をそそぎ訳も分からないまま,そそくさと参ってからお坊さんより,思い思いに持っていったビンなどに,まけまけに甘茶を入れてもらうのです。
 もちろんその前に自分の渇いたのどに,しこたまごちそうになってから,持ち帰ります。その一升ビンの甘茶を自慢げに,おふくろに見せたとき,にこっと笑ってくれたおふくろの顔を今でも鮮明に覚えています。
 昔,この地では花まつりといって,甘茶をいただく風習があり,春の風物詩の一つでした。お釈迦さまの降誕を祝して行う法会を灌仏会(かんぶつえ)というそうですが,その日が4月8日,奇しくも母の命日となりました。
 その母も,今年の法要で一七回忌を迎えました。
 この季節が来るたびに,ほのかな甘茶の甘みと,懐かしい母の思い出としてよみがえります。

倪雲(ニイユン)さんと祖谷のかずら橋
               芝山 靖二

 倪雲さん(06.10.1〜07.3.31まで半年間徳島県県民パートナーシップ事業で徳島大学に留学。中国南通市出身,栄養士,一児の母)留学を大変な努力で支援した濱さん御夫婦はこの半年間の間に北は北海道(雪祭り)南は沖縄,広島,大阪,京都,東京はディズニーランドまで日本全国を案内した。帰国まで後10日となった先月21日(春分の日),最後の観光地として「祖谷のかずら橋」に4人で出かけた。
 当日は穏やかな暖かい絶好の行楽日和になった。私の車に皆同乗して一路祖谷へと向かった。途中車のなかで中国と日本の話で盛り上がった。日本に来て一番驚いた事,人が少ない,どこもきれい,皆親切,少しはお世辞もあるが大変日本を誉めてくれる。日本を非常に気に入ったらしく何時か機会をつくってもう一度来たいと何度も言った。今の中国は40〜50年前のスモッグで一杯だった日本を思い出す。
 祖谷の方は先ず,「石の博物館」へ行ったが天気の良い祭日と言うのに私たちが入館して出て行くまで他の来館者はただの1人もいなかった。
 かずら橋近くの町が運営する駐車場は祖谷の大きな谷に大きくせり出した立派な駐車場だ。このために架けた立派な橋と合わせて総工費90億円だそうである。これも祭日と言うのに一割ほどの利用である。金利代にもならないのではといらぬ心配をしてしまう。
 祖谷温泉は大変良く4人で心ゆくまで春うららの祖谷を満喫して帰路についた。

屈原をたずねて(17)   山田 善仁

 次に「大司命」「小司命」である。
 司命とは星神で,大司命は人の生死を統べ司り,小司命は年少(わか)い,人の子嗣(しし)の命を司る。
 「史記・天宮書」によると,司命の星は北斗星の魁(かい)の前にある「文昌宮」六星の第四星を言い,元来北方の神である。
 人間は大司命の神の御(あやつ)る陽気によって生まれ,陰気によって死ぬ。歌詞は,神巫と祭巫が交互に唱う。
◎広々と天門(あまつみかど)を押し開き,群がる黒雲に私は乗って旋風(つむじかぜ)に先駆けせしめ,雨(にわかあめ)に塵(ちり)を清めさせる……。
 高く飛びしずかに翔(かけ)り,清風に乗り陰陽の二気を御(あやつ)り,あなたとともに斉(つつしみかしこ)みて,帝(あまつかみ)を導いで九崗(きゅうこう)のやまに之(おもむ)かん。(楚王の始祖である北方の帝(せんぎょく)を楚の郢都(えいと)の鎮めの山である九崗山に導いて来て,祭るのである。)
 瑤(たま)なす麻(しま)の花(食すれば寿命を長くするという香しい白色の花)を折(たお)り,離居(さりゆ)く神に遣(おく)らんとすれど,老いはいつしか迫り極まれど,神はいよいよ疏(とおざ)かる。
 竜(たつ)の車に乗り高く駝(は)せて天に昇って行く。人を愁(うれ)えしむるも奈何(いか)にせん,願わくは今のとが無き(節度に欠点の無いこと)が若(ごと)くあらん。固(もと)より人の命は当有(さだめあ)り,合うも離れるも,ままにはならぬ(司命の星神と離れて逝(ゆ)くのである)。
◎秋蘭と麋蕪(びぶ)と堂(みどう)の下(もと)につらなり生え,緑の葉に白い華,香は高く身にまとう。
 人は皆,美子(まなご)有るに,君は何を以て愁え苦しみたまう。……美(みめよ)き人(みこ)は堂に満ちているのに,私にばかり目くばせされる。入るにも言わず,出(い)ずるにも辞(つ)げず,旋風に乗り雲の旗を載(た)つ。悲しみは生きながら別れるにまさるは莫(な)く,楽しみは新たに相知るより楽しきは莫(な)し。と男性神巫は唱いつつ,昇天しながらも天上より唱う。
 女(なんじ)と咸池(あまのいけ)に沐(かみあら)い,女(なんじ)の髪を陽(あさひ)てる阿(おか)に晞(かわ)かさん。美(みめよ)き人(みこ)を望(ま)てども未(いま)だ来たらねば,風に臨(ふ)かれ(なげ)きつつ浩(たか)らかに歌う。その後を女性祭巫が唱う。
 孔雀(くじゃく)の車蓋(かさ)に翡翠(ひすい)の旗,九天(おおぞら)を登(かけ)り慧星(ほうきぼし)を撫(しず)め,長剣をとって幼(おさなご)をかい抱く,君こそ民のかしらとなるに宜しき神。

いとしの……。          大西 時子

カウンターに星野富弘さんの本が置かれていた。教会の牧師さんが置いていかれたそうである。星野さんの絵に添えられたことばが好きだ。

  よろこびは
  束の間のこと
  悲しみも また
  明るさの中で思えば
  ちっぽけな かたまり
  朝の庭に
  燃えつきた線香花火の
  玉を見つけた

ふうちょうそうの花が描かれていました。

夏休みの夜の子どもたちの喧噪のあと。
しらじらと明けた庭先に打ち捨てられたような花火の燃えかす。
幼い心の悲しみや不安も沈んでいた。
祖母が植えた花畑のふうちょうそうを視界の端に捉えていた。
私の心象風景に柔らかく重なって印象深い詩です。
想い出のなかの翳りは「ふうちょうそう」の華やぎに和らいで朝の光の中に溶けていった。
よろこびと悲しみの残骸が静かに日々を受け入れていくように。