私がいるから大丈夫   月岡 功

 昭和時代の右翼の巨頭といわれた頭山満の弟子であった中村天風という人が様々な揉め事を解決しに行ったときにこのようなことを言ったらしい。
 ものすごい自信である。このような自信家がその場にいて事態を把握してコトに当って居れば揉め事も発生しなかったのではないかと思われるが,現実には日和見主義が横行し,優柔不断に終始してコトを大きくしている。
 われわれの周囲をみても「私がいるから大丈夫。」と言っている人,そしてそのようにコトを収めている人は少ないような気がする。名実共に「私がいるから大丈夫。」という人は貴重である。
 揉め事というのは地縁,血縁など人のつながりの中で発生し,また,収まっていくものであるから揉め事の本質を的確にとらえ関係者の利益を確保できるような解決策を打ち出すことができる人であろうと思われる。
 義理人情を重んじた古い日本の社会であれば通用したことが,インターネットや携帯電話が普及し,知識や経済がグローバル化,フラット化しつつある今後の社会でも通用しうるかどうかは不明である。
 それでも,先行き不透明な世の中においては虚勢であったとしても「私がいるから大丈夫。」と言える人が居れば心強い限りである。
 ネットビジネスなどにおいては,様々なノウハウや考え方を示して大衆を動かして成功を収めている20代の人々が大勢出現してきている。このような人々を旗頭として担いでいくかそれとも自主自立,独立独歩の道を歩むか思案の為所である。

モネの家

 剣山の遊歩道       平 澄子

 5月3日に剣山へ行って来ました。いつものように朝6時に出発して,神山,木屋平を通って,8時30分に見の越に着きました。駐車場は県外車でいっぱいです。
 今回は,いつもと違って遊歩道コースを歩くことにしました。少し時間はかかるけど,歩きやすいし,人にも逢う事が少ないので,本当に楽に登る事が出来ました。
 頂上に行って,人の多さにびっくりしました。
 あくる日,新聞で見たのですが,この日は1300人が剣山へ訪れたそうです。
 毎回思う事ですが,元気で登れた事に感謝です。
 次は次郎牛(じろうぎゅう)へ。

お宮詣り        橋本 節子

 好天気に恵まれた5月3日に,3月9日に産まれた二人目の孫(葵(あおい))を抱いて,近くの神社(秋葉神社)へ家族でお宮詣りしました。
 秋葉神社は神主さんがいないため,その足で眉山ロープウェー下の天神社まで行きました。
 そこで滝本宮司さんや神子さん達に優しく出迎えていただきました。
 やがてドーン,ドーンと厳かな太鼓の音と共に心身共に引き締まるような神主さんの祝詞に只々感動しました。
 30分程で終了しましたが,何だか神様に葵の健やかな成長をお願いし,ほっと一安心しました。

 天の岩戸が開くとき 人は神に帰る 11
神がみえる         三村 隆範

 神はみえる。神が見えていても見えない人には見えない。見えているものを神と認めないと神は見えないともいえます。見えると「もの」になり,「それは神ではない。『もの』だ。」となるのです。「『もの』は『もの』で,神ではない。」と言います。見えない人は,「もの」としか見えないのです。「もの」は,ものだけではないのです。
 人は「もの」を見て喜んだり,怒ったりするのです。「もの」を見て,それが喜びに見えたり,怒りに見えたりするのです。ものが神と見える人は,神と共に生きる人で,いつも神と共に暮らしている人です。神と共に暮らす人は,いつもよろこんで生きる人です。
 ですから,よろこんでいる人を見るとそこにも神がいることを知ることができます。それは,神様を見る初歩的で簡単な方法です。
 一方,怒りの姿を見た時,そこに神を見るのは少々難しい事ですが,そこにも神がいることを見ることは出来ます。
 しかし,それは,自分を高めるために解かなければならない課題です。目を反らさずよく見つめていれば,必ずそこに神を見ることが出来ます。
 ですから,「もの」や「出来事」の内側に潜む,神が見えたら「いつもよろこんで生きる」ことができるようになるのです。