天の岩戸が開くとき 人は神に帰る 13
神の現れに気づく
 三村 隆範

「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く,その道も広々として,そこから入る者が多い。しかし,命に通じる門はなんと狭く,その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。」   マタイ 7:13
 見えぬ神が現れ,人は神を見て神を知る。
 見える世界から見えない世界への旅が始まる。門の向こうは見えていて見えない世界だ。
 人は見えている世界で喜び感動を求める。喜び感動を求めることは,その対象物である喜び感動する物があるから,喜び感動することができる。喜び感動することに出逢わないのに,喜び感動することはない。しかし,その喜び感動は人によって異なり,ある人にとっては感動するが,ある人にとっては感動しない。喜び感動する物は一定の決まった物ではないということがわかる。すべての物は,喜び感動することのできる対象物ということになる。
 自分の気に入ったことが起こると感動し,気に入らぬ事は喜ばない,人間としてごく自然の思考・行動パターンである。それは,全ての物をこれは好き,これは嫌いと分けている事である。いいかえれば,これは神,これは神でないと人は分けている。だからいつまで経っても人は神に近づくことはないし,喜びで満たされる事もない。
 全ての現れていることは神の現れであり,神そのものだ。人間にとっては,計り知れないことが起ころうとも,それは起こった。
 人は,自分の考えに合わそうとし,その自分の考えをこの世に現そうと努力をする。しかし,その人間の考えが,この世に現れるか現れないかは,神の決めることであり,自然は,日々自然の流れを現して流れている。
 天の岩戸の門をくぐるには,自分の入りづらい,不都合な所に入口があるようだ。広い道は通りやすく歩みやすい。すでに通っている道は探さなくても今歩んでいる。
 道の前に立ちふさがる,閉ざされた扉の前で「どうしたらこの扉の中に入れるのだろう」と思った瞬間に,私はその中に入っている。
「開けごま・・・」と私は呪文を唱えたのだ。


〔編集後記〕

 すべての生き物は,ただひたすら生きる事に向かって生きている。しかし,人間だけは,「する。しない」で生きている。しかも大人になる程,それがひどくなる。
 生まれた頃は,ただ「しよう」と思うことをして生きてきた。経験を積む程,出来る事だけして,出来ない事をしなくなる。

       【真瑠吾視比古(まるごしひこ)

 発 行 サークルアマテラス 阿波風の会
           題字 坂本真人
           制作 三村隆範
           編集 真瑠吾視比古

 「何か書いて投稿していただけませんか。」とすすめられても「後で,いいものが書けたら」と言って断られる場合が多いです。すばらしい自分があると思いすぐ書けないのです。
 ありのままの自分を見せて,いつも最高の自分を見せて生きているのですから,本当はすぐに書けるはずです。すばらしい自分があるから,いますばらしい自分を現わしているはずです。
 書くことは文字が現れてきますから,自分が自分を見ることになり,自分の考えを修正しまとめ自分が向上していくのです。ですから,書くことは自分を他人に見せているのではなく,本当は,自分を見つめ,自分を知ることになるのです。ですから,書き続けていると自分が大きく向上していくことがわかります。
 「阿波風」(投稿誌,無料)を,月一回の予定で発行しています。投稿していただく内容は,書く方の自由な題材で,その月にあったこと,感じたこと,考えたことなど,何でもいいのです。
 四〇〇字か八〇〇字までの原稿をお待ちしています。もちろん一行でも一文字「あ」だけでもいいです。    締め切りは毎月15日です。
   心より,ご投稿お待ちしています。




  宇宙の漂いは
  風となり波となり現れ
  広がっていく

見えていて見えないものは
見えるものを通して見える
その瞬間が
あの瞬間に見えるなら
幸せ色のつつまれる