人生の秋        松林 幸二郎

 我が家の東に聳えるリンデンバウムの梢の間から,秋の斜光が射し込みアルムに注ぎ,夢のように美しい朝を迎えております。30年近く,この時間は日が未だ昇らない暗闇のなかで出勤しておりましたから,いま改めて我々はこんな素晴らしい自然の中に我々は住んでいたのだと,コロンビアの義弟が栽培した豊穣でこくのあるコーヒーを楽しみながら,キッチンの外に広がる光景を眺めて感動に胸を熱くし,Wildの時期というのに鹿の親子がゆったりと草を食んでいるのがみえて,微笑ましく思ったものでした。
 3年半に渡る世界放浪の旅の末,30年近くまえにアルプスの麓に居を定め,家族を養い,この夏,末娘を独立させて,最後まで残った肩の荷を卸し,ほっと一息をついたと思ったら私も還暦がそこまで来ていました。里帰り中に日本での誕生日を前に,一足先にスイスの方で誕生祝いをもつ幸いを得ました。パーティーには,20年以上の友人達を招きましたが,秋休み中にも拘らず駆けつけてくれたのは,手伝いにきた次女サマラ夫婦を入れて19名。小さなアッペンツェラー農家の居間は最後の椅子まで埋まり,それ以上は居間の外に立ってもらうしかない状態でした。人生を長く生きた彼らの間には,多くの実りある会話も沢山あり,窮屈さも気にならなかったようで,夜がふけるのも忘れ,豊かな時を共有できたことは誠に感謝でした。
 私たちの地上での命は実に短いものであるけれど,“人生の秋”といわれるピリオドを迎え,休暇後さらに増える休日を人に仕えるために用いたいと願い,どのように使うか,この秋の一ヶ月の里帰りの間にじっくり考えてみたいと希っています。

家族の絆         近藤 隆二

 生涯学習セミナーでの講師のお話です。農繁期で田んぼを耕す時に耕耘機が故障して,農協の方に見てもらったら修理をするのに何日もかかるので新しい耕耘機を買うことになり,昼頃新しいのを持って来て,古い故障したのをトラックにのせて帰ってもらう時,ちょうど孫が幼稚園から帰ってきて「じいちゃん,この機械どうしたの?」とたずねたので「死んじゃったの」と言ったら,お孫さんが古い耕耘機に向かって両手を合わせて「長い間うちのために働いてくれてありがとう」と言っているのです。講師の先生は忙しい時に故障して,心の中は不平不満でイライラしていた所,お孫さんの姿を見て反省させられたと言われました。お孫さんは毎日両親といっしょにお仏壇の前で合掌してお経をあげているのだそうです。
 家庭の中で聖なる空間を持ち,毎日家族でお仏壇に向かって合掌し,礼拝していると,子供や孫の心の中に感謝の心が育ち,明るく暖かい家庭になり,家族の絆も深まっていきます。
 私も毎日朝夕,神棚と仏壇に礼拝し,家族の無事としあわせを祈願しています。自分の心が安心なことはこの上ないです。
 祖先を大切にお祭りし,両親の御霊に御安心して頂けるように,日常心がけて生活していくと,夫婦仲良く,兄弟姉妹仲良く,子孫が親孝行な子供になるように,その為には私達夫婦が神仏を始め,祖先祭をして,先祖を供養していくことがその原因となっていくことをモラロジーで学んでいます。

すべての思いを家族に 39 (運命共同体)
経 済 (2)
           田上 豊

 先に経済の大切さを書きましたが,我々には経済がすべてでないことは,ご承知の通りです。
 私達戦中派は貧しい日本の姿を知っています。そこから脱出するために経済中心主義で現在まで走ってきました。経済の豊かさと貧しさとは,家族の幸せには余り影響が在りません。
 しかし,貧しさの経験がある私達は経済を重視します。貧しさを知らない現代人は,どうしても浪費する体質になっています。特に今は格差社会になり,今まで裕福であった人たちが経済的に落ち込んでいるのに自覚がありません。必要な物を複数買う癖などがそれでありブランド物を手に入れたがります。やがて経済がピンチに向かいます。自分の力を知ることでもあります。
 ここでも自己中心の考え方がすべてを狂わすのです。貯めるのが好きな戦前派,使うのが好きな現代人,お互い好きという字を見れば両方とも自己中心です。
 親達は経済的苦しみを子供に与えない様に何もかも与えすぎたのです。甘やかして来たのです。
 経済は生き物と言われます。高度経済成長で何時までも経済は成長するものと考えていると大きな失敗をします。経済は生きているのです。加齢と共に収入も下降線をたどります。
 年金生活は増収することは望めません。家族の運命で経済も上下します。考えたいものです。

〈素粒子と現象界〉  大西 時子

 理数は私の最も不得意とするところです。いわんや物理をやである。その私が拾い読みした素人のちょっとした驚きを綴ってみたいと思います。
 あらゆる物質のもとである原子を構成する素粒子。あまりにも極微な世界で測定は不可能だそうですが,素粒子の存在がなぜ知られているかといえば加速器(これが何なのかも私にはわかりません)に残された素粒子の痕跡に寄ってなのだそうです。素粒子には摩訶不思議な深い面があり,観察者が観察した時以外は存在しないのだそうです。つまり関心を抱いた時にのみ物質化する性質があるようなのです。目をそらすと素粒子は空虚の中に消えて行く,不思議ですね。
 「素粒子を見る」という私たちの意思が働いた時忽然と素粒子は虚空から現れ出る。無限のあらゆる可能性の場のなかの波(物質化する前の素粒子の形態)を物質に変えているのは私たちの「関心」なのですね。思考を押し広げれば私たちの日常のなかにもこの仕組みが反映されてきます。
 自分が何に関心を払っているか何に心を寄せているかで,この現象界を創り出しているのですね。
 私たちは幸せと言う大局の流れの中で日々の事象を経験し乍ら生きています。
 一見不幸に見える出来事も実は気づきのための試金石,判断や評価を手放せば全ては大海のさざ波。大いなる信頼と安心感の中で無邪気に創造する心を楽しめばいいということのようなのです。