人は何のために生きているの?
               相原 雄二

 私はモラロジーの教学を通して,人間生活の一生を,「品性完成」を目的として生きるという価値観を学びました。それと,どのような困難に直面しても,人生を主体的,積極的に生きていくための心の姿勢も学びました。毎日生活を送るうえで,意識的,無意識的,いずれにしても,いろいろな問題(健康,経済,家庭,その他人間関係等々)に遭遇します。その時過去に時間をさかのぼって人生をやり直すことはできません。また,他の人に自分の境遇を代わってもらうこともできないのです。したがって,自分自身が目の前に起こった問題を,どのような心で受けとめ解決し,改善するかを学習してまいりました。しかし,長いことその意味が,そのことがどのようなことであるか分かりませんでした。
 そして漸く,人生の目的である「品性完成」が,どうゆうことで,どういう意味かがやっとのことで掴ませていただきました。
 そのお答えは1ヶ月先の「阿波風」1月号で書くことにして,今回は,最高道徳的な示唆を最後に掲げておきます。
 1.現象の理を悟りて無我となる。
 1.自ら運命の責めを負うて感謝す。
 1.他を救うにあらず己を助くるにあることを悟る。
 1.深く天道を信じて安心立命す。
 以上4つの格言は,「最高道徳の格言」より抜粋いたしました。

馬齢累積して古稀に達す!!
                 山田 章

 晩秋になり,茄子の収穫も終わりました。どの苗も,葉先が紫色をして紅葉して来ました。取り残した実がソフトボールの大きさになり張り切った姿は,今年は良く頑張って来た,生まれて来て良かったと,全身に現している様でもあった。どこから見ても,今の此の時を!!感謝している様でもある。此の苗の目に見えない大地の中には,しっかりと根付く太い根子が何本もあり,その末端には良樹細根と言われる細い根を,一本につなぐ事が出来るとすると何万キロという長さに成ると聞きます。ちょうど私達が,親の恩や社会の恩恵が心の支えとなって来て,その全ての中に自分が今日ある命が今日ある為には,親祖先が永遠につながり存在する事を思う時,万物助け合って育っている姿を見ている思いです。七十年を顧みて,真実を見る勇気(愛)が沸いて来ました。今は日常のありとあらゆる事は当然の出来事であり当たり前の事であると,全てを受け入れられる広い心こそ,自分が育てられている事の有難いという心の思いではないでしょうか? 自分の人生に気付く太い根子である,親の恩,国家社会の恩,心の支えとなっている恩に一歩近づき,喜んで頂く様,安心して頂く事が出来る様に,前進する事が大切なのではないでしょうか。此の様な事が,人生に満足感にしたる事ではないでしょうか。只今の残りの少ない時間を,生かされている事に感激し,感謝をして,此の恩恵に何らかの形で答えられなければ,と思っております。
 残された茄子を,多くの友人に食べて頂くべく配っております私です。

人生という電車で   石渡 修司

 久しぶりに,横浜に帰りました。羽田までの飛行機は徳島の雰囲気をそのまま運んでいました。ところが,飛行機を降り,出口に近づくと雰囲気が変わってきます。横浜に向かうため,京浜急行に乗ると,あたりの雰囲気はすっかり変わっていました。夕方の時間帯ということもあって,仕事を終えた人たちで電車はいっぱいです。座席に座っている人も立ってつり革を握っている人も静かです。本を読んでいる人,ヘッドホンで音楽を聞いている人,ゲームをしている人,携帯電話にメールを打っている人などさまざまです。皆,隣には,まるで人がいないかのように,すっかり自分だけの世界に浸っています。いつもは他人を意識しながら生活している人たちが,ここには大勢の人がいるのにもかかわらず,他人を意識しないでいいのです。それどころか,他人に無関心であることを装うことで自分を守ろうとしています。その表情は感情を押し殺し,能面のように固まっています。一時も早く,この電車から降りたい,解放されたいという気持ちを内に秘めているのです。ここに喜びなど一片もないというつぶやきが聞こえてくるようでした。
 これは通勤電車の中だけのことではありません。私たちの人生がこの通勤電車の中と同じになっています。自分の人生という電車の中で,ぶつぶつ不平不満を言っています。通勤電車ならば途中で降りることができますが,私たちは人生という電車からは降りることができません。そうであるからこそ,この人生という電車の中で喜びを見出していきたいものです。
 聖書には,その解決のヒントがあふれています。
「心に喜びがある人には,毎日が祝宴である」〔箴言5:15〕

一緒に食事を      石渡 路子

 このところ,色々な人と一緒に食事をする機会が増えました。教会という所が,人が訪ねてくる機会の多いこともあります。それに加え,少しのものでも一緒に食事をすることで,ずいぶんと親しくなることができるということがあります。なによりも,食べてくださった方に喜んでもらえるということが料理する者に嬉しい励みになっているからだと思っています。
 「野菜を食べて互いに愛するのは,肥えた牛を食べて互いに憎むのにまさる」〔箴言15:17〕
 ネパールに行った時のことです。料理にカレーが出されることが多かったです。客の私たちのカレーには鶏肉が入っていましたが,招いてくださった人たちにはひとかけらの肉も入っていないのです。ネパールの人たちにとって肉は富裕の象徴です。金持ちでなければ,肉は食べることができません。私たちを食事に招いてくださったネパールの人々は肉を食べることはできませんが,私たちに精一杯のもてなしをしてくれました。愛にあふれていました。聖書の言葉のとおりです。
 徳島に来て,野菜は,本当に多くの人からいただきます。畑で野菜を摘んでいる人に声をかけたところ,無料でいただき,びっくりしたこともあります。本当に野菜は安くて豊富です。お金をかけずにできる料理でおもてなしできることを本当に嬉しく思っています。ネパールでの体験が心にしみじみと想い出されます。