三木家ホームページを作成して
三木 信夫 田舎が雪で覆われる12月から翌年の3月近くまでは,毎年私は別宅で冬篭りです。あまり外出の少ないこの時期が机に向かっても充実した気持ちで仕事が出来ます。外は寒いので,潜在的に身体が外出拒否反応をして頭脳だけが回転しているのかも知れません。 三木家ホームページアドレス |
考古学からみた阿波のくに(3)
(徳島大学公開講座より) 天羽 達郎 徳島大学病院の建て変え工事の時,弥生時代の畠が見つかった。弥生時代といえば一面の水田を思い浮かべるが,阿波では吉野川が暴れ川であるため水田に適する所が少なく畠がけっこう多かった。弥生時代前期までさかのぼる類例は,福岡県小郡市三沢蓬ヶ浦(ふつがうら)遺跡,三重県松坂市筋違(すじかい)遺跡に次いで3番目であるが,前2者より完全な形で発見された。今後耕作土壌を洗浄し,どの様な種子が検索されるかたのしみである。おそらく米以外の穀物の種子がたくさん出てくるであろう。因みに続日本紀によれば阿波の国は米が少ないので税は麦でよろしいという記述があるそうだ。阿波はもともと粟の国といわれており古事記によれば「この島(四国)は身一つにして面(おも)四つあり,面ごとに名あり,粟国を大宣都比売(おおげつひめ)と謂ふ」とある。大宣都比売が速須佐之男命に殺された時死体の頭に蚕,目に稲種,耳に粟,鼻に小豆,陰(ほと)に麦,尻に大豆ができた。すなわち五穀の神様大宣都比売の国が徳島である。このような物語ができた背景には畠作物が数多く取れる土地柄ということがあげられる。少なくとも北海道ではこんな話は生まれない。 完 |
平成二十年の祈年祭を奉仕して
天香具山神社宮司 橘 豊咲 三月九日,日曜日,半オーバーも要らない程の好天である。近鉄大和八木駅前,橿原市コミュニティーバス第三便,十時二十分発,橿原市昆虫館行のマイクロバスに乗車,かしはら万葉ホール,藤原京資料室前を通って七つ目が南浦町である。十時四十五分下車,新任の区長辻宅に着く。更衣後二社分の榊の祓串(はらいぐし)玉串(たまぐし)に紙垂(しで)の取付けをする。昼食後徒歩約二分の天岩戸神社に着く。正午のサイレンが鳴り終わった頃である。数名の役員と共に祈年祭の準備を済ませて,宮司としての十二回目の祭典奉仕が始まる。参進の笛を吹奏(すいそう),修祓(しゅうばつ),献饌(けんせん),大祓詞(おおはらへし)奏上,祝詞(のりと)奏上,神社役員一般参列二名に鈴の祓いを終えて後刻祭具の片付をする。約二十分後,香具山頂の国常立(くにのとこたち)神社前である。午後一時過ぎ,堺市からの中年の男女数名に簡単な挨拶で説話をして後,祭典執行,仝四十分頃出屋敷の天香具山神社に着く。地元の役員共に諸準備の後小憩,次第通りに祭典を始めて二時三十分,三社の祈年祭を終えて後刻九名と直会(なおらい)をする。社務所兼集会所で,瓶から湯呑に清酒を受けて拝載,別寅の蒲鉾(かまぼこ)を適当に小切ったものを,そのほか,甘辛の駄菓子をつまみにして二合半ぐらい飲む。五臓六腑(ごぞうろっぷ)に泌(し)みわたると言いますね。直会の終了直前,役員の誰かが,大中小三本のははかの樹の大きな方を,観光シーズンに入る前の近日,切るから清祓(きよはら)いをしてもらったら,との一声で,殆ど生きている小枝の無いははかの樹伐採(ばっさい)のための,切麻(きりぬさ)の祓いを奉仕,古木,名木と言っても腐ってしまっては如何(どう)にもならないとの結論である。役員全員見守る中に修祓清祓いが終わって後,地元の役員を残して,区長外数名と天岩戸神社の垣内(かいと)まで酔覚ましに徒歩で帰途に向かったのである。 子(ね)の年(とし)に香具山頂に登り来て, 香具山に喜寿(きじゅう)の祝(はふり)役員と, 山辺の道を想いて徒歩で行く, 孟宗(もうそう)の竹薮(たけやぶ)今日は揺(ゆ)るぎ無く, |
忌部の話 十六 「伊勢神宮」 その四
尾野 益大 伊勢神宮は20年に1度,神殿を新しく造り替える「式年遷宮」という制度がある。正殿をはじめ御垣内のすべての殿舎,御門を別の敷地に新造し,殿舎を飾る調度品の「御装束」や武具,楽器などの「御神宝」の計1576点も新調する。 |