三木家ホームページを作成して
                三木 信夫

 田舎が雪で覆われる12月から翌年の3月近くまでは,毎年私は別宅で冬篭りです。あまり外出の少ないこの時期が机に向かっても充実した気持ちで仕事が出来ます。外は寒いので,潜在的に身体が外出拒否反応をして頭脳だけが回転しているのかも知れません。
 パソコンに向かって一日中画像処理や文を書くことは,やろうとしている事が終わるまではぜんぜん苦になりません。今回はそんな合間に少しずつ三木家のホームページを作成し,インターネットに登録しました。ホームページの作成は,アウトラインと構成を考え,歴史以外は出来るだけ文章を少なくして,画像を多く使う方向で検討。ホームページの顔となる表題のインデックスをどのような構図にするかなど等。ぶら下げる解説項目を,重要文化財,四季,歴史,イベント,リンク等とし,表題は,現建物が武家の遺構であるところからタイトルを「三木館(みきやかた)」として三木山の遠景(写真)を使用しました。
記入文字は大きさやスタイル・太さ・色・配置など,画像の修正・配置・大きさ等,更には画面の背景色など,グラフィックデザイナーとしての知識や感性の必要性を感じました。出来上がったものは,不満もありますが今後少しずつ修正する予定です。ご意見下さい。メールは月1回くらいしか見れません。

 三木家ホームページアドレス
URL:http://www.ab.auone-net.jp/~jmiki/
yahooEmail :awajmiki@yahoo.co.jp

考古学からみた阿波のくに(3)
(徳島大学公開講座より)
               天羽 達郎

 徳島大学病院の建て変え工事の時,弥生時代の畠が見つかった。弥生時代といえば一面の水田を思い浮かべるが,阿波では吉野川が暴れ川であるため水田に適する所が少なく畠がけっこう多かった。弥生時代前期までさかのぼる類例は,福岡県小郡市三沢蓬ヶ浦(ふつがうら)遺跡,三重県松坂市筋違(すじかい)遺跡に次いで3番目であるが,前2者より完全な形で発見された。今後耕作土壌を洗浄し,どの様な種子が検索されるかたのしみである。おそらく米以外の穀物の種子がたくさん出てくるであろう。因みに続日本紀によれば阿波の国は米が少ないので税は麦でよろしいという記述があるそうだ。阿波はもともと粟の国といわれており古事記によれば「この島(四国)は身一つにして面(おも)四つあり,面ごとに名あり,粟国を大宣都比売(おおげつひめ)と謂ふ」とある。大宣都比売が速須佐之男命に殺された時死体の頭に蚕,目に稲種,耳に粟,鼻に小豆,陰(ほと)に麦,尻に大豆ができた。すなわち五穀の神様大宣都比売の国が徳島である。このような物語ができた背景には畠作物が数多く取れる土地柄ということがあげられる。少なくとも北海道ではこんな話は生まれない。
 最後には前方後円墳の話。平成13年の講義で北條芳隆助教授(現東海大教授)は前方後円墳のルーツは阿波,東讃岐,西播磨であった可能性が高いという。しかも日本最古の前方後円墳は鳴門市の萩原墳丘墓で,長径わずか27mである。それは最古の巨大前方後円墳桜井市の箸墓古墳(長径286m)より数十年古く,しかもそれの祖型がいくつか見られるという。その一つが前方部が細くて短いということで,円墳の上にものを運ぶ通路に使っていたらしい。それが発展して鍵穴型の前方後円墳になったという。前方後円墳がなぜあのような奇妙な形になったかはこれで合点がいく。徳島の古墳時代は小型のものばかりが数多く作られ,他の地方より100年早くその終焉を迎えている。
 以上徳島における考古学の学習メモに私見を交えて述べた。古代の徳島は近畿の文化を受け身的に捕らえたのではなく,能動的積極的にかかわってきたらしい。それを思うとわくわくする。


平成二十年の祈年祭を奉仕して
        天香具山神社宮司 橘 豊咲

 三月九日,日曜日,半オーバーも要らない程の好天である。近鉄大和八木駅前,橿原市コミュニティーバス第三便,十時二十分発,橿原市昆虫館行のマイクロバスに乗車,かしはら万葉ホール,藤原京資料室前を通って七つ目が南浦町である。十時四十五分下車,新任の区長辻宅に着く。更衣後二社分の榊の祓串(はらいぐし)玉串(たまぐし)に紙垂(しで)の取付けをする。昼食後徒歩約二分の天岩戸神社に着く。正午のサイレンが鳴り終わった頃である。数名の役員と共に祈年祭の準備を済ませて,宮司としての十二回目の祭典奉仕が始まる。参進の笛を吹奏(すいそう),修祓(しゅうばつ),献饌(けんせん),大祓詞(おおはらへし)奏上,祝詞(のりと)奏上,神社役員一般参列二名に鈴の祓いを終えて後刻祭具の片付をする。約二十分後,香具山頂の国常立(くにのとこたち)神社前である。午後一時過ぎ,堺市からの中年の男女数名に簡単な挨拶で説話をして後,祭典執行,仝四十分頃出屋敷の天香具山神社に着く。地元の役員共に諸準備の後小憩,次第通りに祭典を始めて二時三十分,三社の祈年祭を終えて後刻九名と直会(なおらい)をする。社務所兼集会所で,瓶から湯呑に清酒を受けて拝載,別寅の蒲鉾(かまぼこ)を適当に小切ったものを,そのほか,甘辛の駄菓子をつまみにして二合半ぐらい飲む。五臓六腑(ごぞうろっぷ)に泌(し)みわたると言いますね。直会の終了直前,役員の誰かが,大中小三本のははかの樹の大きな方を,観光シーズンに入る前の近日,切るから清祓(きよはら)いをしてもらったら,との一声で,殆ど生きている小枝の無いははかの樹伐採(ばっさい)のための,切麻(きりぬさ)の祓いを奉仕,古木,名木と言っても腐ってしまっては如何(どう)にもならないとの結論である。役員全員見守る中に修祓清祓いが終わって後,地元の役員を残して,区長外数名と天岩戸神社の垣内(かいと)まで酔覚ましに徒歩で帰途に向かったのである。

 子(ね)の年(とし)に香具山頂に登り来て,
        祈年祭の奉仕嬉しく

 香具山に喜寿(きじゅう)の祝(はふり)役員と,
        弥生(やよい)の祭(まつり)仕え奉らむ

 山辺の道を想いて徒歩で行く,
        香具山麓の小道行くなり

 孟宗(もうそう)の竹薮(たけやぶ)今日は揺(ゆ)るぎ無く,
        祈念の祭恙(つつが)無く済(す)む

忌部の話 十六  「伊勢神宮」 その四
               尾野 益大

 伊勢神宮は20年に1度,神殿を新しく造り替える「式年遷宮」という制度がある。正殿をはじめ御垣内のすべての殿舎,御門を別の敷地に新造し,殿舎を飾る調度品の「御装束」や武具,楽器などの「御神宝」の計1576点も新調する。
 式年とは定まった年という意味。天武天皇が定めた。
 さて,忌部氏は式年遷宮で極めて重要な役割を担った。造営の新材を採る任務だ。特に伊勢神宮で最も神秘的で何人も見ることが許されないご神体同様に扱われる神聖な「心御柱(しんのみはしら)」の伐採と造形に当たった。中臣氏でなく忌部氏だけが携わった。心御柱は伊勢神宮草創の当初まで遡ると見られる。つまり,忌部氏が伊勢神宮のもともとの造営に関与したことを証明する事実といえる。心御柱は「忌み柱」とも呼ばれている。
 内・外宮の正殿に安置される御神体の鏡は,その心御柱の床上に祭られている。心御柱は正に「天照大神」が寄り付いた憑代(よりしろ)と考えられる。新材の伐採は吉日を選び,祭儀を経て忌部氏が正殿まで運んだ。地鎮祭は中臣氏ととり行った。重要だったのは新材を供給する巨樹の森が伊勢神宮周辺に広がっていたことだ。そして周囲の山に「鷲」の文字が使われた山があり,阿波忌部の祖先・天日鷲命との強い関係が大いに推測できる。
 式年遷宮は皇室第一の重事。天皇の発意で行われ,2013(平成25)年に行われる次の第62回は,今上天皇が2004(平成16)年「次期遷宮の準備に大宮司以下よろしく努めるように」と述べた。
 ちなみに第一回は690(持統4)年の内宮遷宮と692(持統6)年の外宮遷宮を合わせていう。20年に1度という間隔は14世紀前期までは守られたが,その後,戦乱と窮乏で乱れた。寛正3(1462)年の次は天正13(1585)年にあり,実に123年間も中絶した。織田信長や豊臣秀吉の寄進のおかげだった。外宮も永享6(1434)年の次は永禄6(1563)年と129年の間隔が生じた。中絶以前は19年目に行ったが,江戸期以降は20年目の実施が定着した。遷宮は内宮,外宮を別々の日に行っていたが天正期以降は同年同月に行っている。