屈原をたずねて(28)  山田 善仁

 こうして頃襄王21年(前278,屈原62歳)非情の秦将白起(びゃっき)は,西陵を出発し楚の歴代先王の墓「夷陵(いりょう)」を焼きつくし,怒濤の如く郢都(えいと)に押し寄せ,また竟陵(きょうりょう)の地も収め,楚国の旧山河は秦に併呑されて行った。
 頃襄王の軍は敗れ,陳城に逃れたが36年病んで没し,子の考烈(こうれつ)王が立つ。
 楚の春申君(しゅんしんくん),斉の孟嘗君(もうしょうくん),趙の平原君(へいげんくん),魏の信陵君(しんりょうくん)の四君時代を出現し,秦の勢威(せいい)を抑えたが,考烈王22年(前241),楚は諸侯と連合し,秦を伐つも利あらず,反対に都を陳城から東方の寿春(じゅしゅん)に移す。
 秦王政(後の始皇帝)は,前230年,韓を滅し,翌年趙を滅す。前225年に魏,前223年に楚が滅ぶ。翌年燕,前221年に斉を滅して中国全土を統一し,秦王は始皇帝と称す。
 悪名高いとされる秦の宦官(かんがん)趙高(ちょうこう)はこうであった。
 春秋戦国時代,趙家は斉国の王族であった。秦に亡ぼされた時,遊女同然の辱(はずかし)めを受けた母を趙高は目に焼きつけた。秦を倒す野望に燃え,宦官となって秦の始皇帝に近づく。始皇帝の死後,丞相となり二世皇帝胡亥(こがい)を自殺に追い,自ら皇帝を夢みたが,暗禺を装っていた三世皇帝子嬰(しえい)に殺される。
 秦の抑圧に各地で打倒蜂起,前206年秦滅ぶ。
 「楚,三戸といえども,秦を亡ぼすは必ず楚ならん」の如く,楚の項羽(こうう)と劉邦(りゅうほう)が秦を倒し,劉邦が漢の国を建国する。以後,東晋,劉宋,唐,南宋から現代まで,中国の文化を高め勝利して来たのは,楚人であり楚の文化であった。
 孔子等が進めてきた改革に馴染めぬ者達が,中原の書を携えて楚に亡命し,夏,殷,周初の古代の文化と相まって,独得の楚の文化を導き,完成させたのは屈原であった。(儒(ジュ)という字は需(ジュ)が音符。雨と而(じ)とを組み合わせた形。而は頭髪を切って,まげのない人の形で,神に仕える人を巫祝(ふしゅく)という。日照りの時の雨乞いは巫祝たちによって行われ,需とは雨を需(もと)め,需(ま)つの意味となる。その雨乞いをする巫祝を儒(ジュ)という。祈りを捧(ささ)げる巫祝を焚(や)いて雨乞いをすることもある。)
 司馬遷(しばせん),王羲之(おうぎし),杜甫に代表される「漢の文章,晋の書,唐の詩」もみな楚の風土から育っている。
 日本の「記紀」も,朝鮮の「三国史,三国遺事」もその端々から,「楚辞」の遺風に多々慣ったものである事は否めない。

隣 り の 花       石渡 路子

 隣りの家の庭に,アネモネの花がきれいに咲いています。去年の今頃,私たちは徳島に来ました。今,その時と同じ風景を見て,一年経ったのだと思いました。あたかもアネモネの花がリセットボタンのように,時間を戻してくれました。この一年で色々なことがありました。
 「年々歳々花あい似たり,歳々年々人同じからず」という言葉がありますが,本当にそうだと思わされます。一年経って,花は以前と同じように,きれいに咲いてくれましたが,もう二度とこの世界では会うことができないという別れもありました。別れの悲しさは,私たちに永遠への思いを与えてくれます。
 そのような私たちに,聖書は永遠を指し示し,私たちに希望を与えてくれます。私たちがこの世界だけで終わるものではないこと,永遠の世界へと続いているものであることを教えています。

「草は枯れ,花はしぼむが,われわれの神の言葉はとこしえに変わることはない」イザヤ40:8

船 旅          石渡 修司

 福岡に一年振りに行ってきました。神学部を同期で卒業した友人が福岡にある教会の牧師として招聘され,その就任式のお祝いに出席するためです。福岡に三年過ごす間に親しくなった人たちと会えるのも楽しみでした。出席者は多く,彼の人間関係の豊かさを見る思いがしました。祝会で,挨拶を依頼され,人前に出るのが苦手な私ですが,この時ばかりは意を決して,喜んでさせてもらいました。教会を代表して,お祝いに駆けつけたこともあって,教会の皆さんの気持をお伝えしました。じっと聞いていた彼も心に打たれるところがあったようで,目を真っ赤にして,涙がこみ上げていました。無理して来て,良かったなとつくづく思いました。
 徳島から福岡に行く交通手段は色々あって迷います。今回も,迷いました。速さでは飛行機が一番です。安さでは船です。その間に新幹線があるということになります。もうひとつ,到着時間も考える必要があります。今回は,朝の礼拝に出席したいということもありました。朝,着くことができるようにと,結局,船を選びました。船で行き来したことはありません。その上,このところ,海難事故が続いています。不安はありましたが,安さは大きな魅力です。
 徳島駅前から市営バスに乗って,オーシャンフェリーまで行きます。バスのダイヤが船の発着に合わせています。既に船は着岸し,荷物や車の下船乗船も行われていました。徳島からの乗船客は私ひとりでした。東京から乗船した客がいました。子ども連れの家族,夫婦ふたりだけ,単身と様々な組み合わせで乗り合わせていました。
 乗客が少ないので,客室の使い方はゆったりでした。私は二段ベッドの大きな部屋の一ブロックをひとりで占領しました。波はありません。船が揺れることはありません。それでもデッキに出ると,風は冷たかったので,船室から外の景色を眺めました。ゆっくり移って行く景色を見るというのは,本当に贅沢な時間の使い方です。空は晴れていました。夕陽が空を朱色に染め,少しずつ暗くなっていきます。すべてがゆっくり動いています。
 こんなにも快適であれば,船旅はいいものだと思いました。徳島の市街地を走る車の喧騒から離れ,船の機関の振動に身をゆだね,ゆったりした時間を過ごすのは,心身に心地いいものです。今度は,東京まで船で行ってみようかと思います。よそでは得ることのできない,徳島ならではの良さをもうひとつ発見したと思っています。

君は愛されるために生まれた
              松林 幸二郎

 バルセロナ在住のSさんが,小児がん病棟に入院中の日本に憧れるダニエル君を,バイオリン教師のOさんと郊外の病院を訪れたときの体験を先週メールで知らせてくれました。
 “病室では3歳の子供も苦しい治療と激しい痛みに耐えていましたが,驚かされたのはその3歳の子供が,自分のことよりも8日に抗がん剤治療が予定されていた6歳も年上のダニエル君を心配し,気遣っていたことでした。
 一行が病院に着いたとき,ダニエル君は治療の前に服用しなければいけない薬が飲めなくてぐずっていましたが,Sさんが顔を出して「日本を持ってきましたよ」と挨拶すると一気に飲みほし,大喜びでバイオリンの音に聞き入りました。私たちは「君は愛されるために生まれた」の歌をローマ字に書きなおして全員に配り,意味をスペイン語で説明して一緒に日本語で歌えるようリードしましたが,この曲は子供たち全員と母親たち,看護師さんや医師にも大好評でした。歌を紹介した彼女たちにとっても,この歌詞が今までになく心の奥底に浸透し,深い感動に包まれました…。”
 私はSさんが伝えてくれた癌病棟の子ども達の話に深い感銘を受けました。一番同情されるべき小さく弱き幼い生命が,年上の人間を心配している…。この話を読んだ時,私自身も数日前職場であるGrossfamilieで体験したことを思い出しました。全盲で自由に自分の行きたい所にいけない重度障害をもつ車椅子のHさんが,人間関係で悩み自室に閉じこもったままの,外部の作業所に電車とバスで通うほど障害のずっと軽いPさんを,心配して慰め勇気づけ散歩に誘ったことで,Pさんが“本当かい? H君が僕の事を心配していたって?!”といい感動して部屋からでてきたのです。
 人が不幸なのは,病気や障害そのもののせいでなく,誰にも目がかけられなくなった時の孤独が人を不幸にするように思います。成果主義が幅を効かす現代社会で他を出し抜き,勝ち,睥睨することで,己の幸福と優越感を確保しようとする現代人には,Hさんの,人間がもてる最高の価値を認めることは決してないのではないかと思った一日でした。