歳 月               本多 幸代

 今月弟の25回忌の法事がありました。
 早いものでもう没後25年にもなるんだと,自分の年を思ってしまいました。
 弟はまだ32才という若さで世を去りました。気持ちのやさしい弟でした。母の悲しみようは言い表せません。母迄が後を追うのではと周りのものは心配しました。外出する迄2年くらいかかりました。でも強い母です。
 その母も83才です。今も元気にバイクに乗って墓参りしています。弟の死がなかったら,私もこの徳島には縁がなかったかも知れません。
 自然一杯のこの徳島で生活出来ることに感謝しています。

あの空をおぼえてる    平 澄子

 竹野内君7年ぶりの映画「あの空をおぼえてる」いよいよ封切です。
 さっそく観て来ました。
 今までの役どころと違って,娘を交通事故で失った父親の苦悩を語らずして表現していました。
 明るい幸せな家庭が一瞬にして暗闇の中へ……。
 あちらこちらですすり泣く声が……。涙なくしては,観られない映画です。
 私も娘の送迎でやっと観る事が出来ました。

美しい神山森林公園   橋本 節子

 4月6日,絶好のお花見日和となり,さっそく神山森林公園のさくら祭りを見に出かけました。
 山に登り始めると,登り下り,両車輌共に,ゆっくりゆっくりでした。
 その道中は両脇が桜で埋め尽くされ,桜のトンネルの中からそのまままるでメルヘンの桜の園に入って行くようで幸せな気分でした。
 さて,上の広々とした公園ではソメイヨシノやヤマザクラなど約3000本余りが満開となり,多くの花見客の家族連れで賑わっていました。
 桜の見事な事はさることながら,広々とした敷地内の草木の手入れや整備が行き届いているのには素人の私でもよく分かり,心地良く歩かせてもらいました。
 でももっと感動したのは,森林公園の整備し尽くされた中,ゴミの一つも落ちていなかった事です。これには感動しました。大きなゴミはもとより,タバコの吸い殻,ペットのフンも全く出ていなかったのです。それぞれが自分のゴミは自分で責任を持って,持ち帰ったのだと分かった時には,徳島県人のマナーやモラルがここまで向上したのかと,とても驚きました。管理しているスタッフやボランティアの方々のここまで来るまでの御努力は大変なものだったと……。
 天皇陛下も来られた美しい神山森林公園に,今更ながら感動しました。五月の頃にも又行きたいと思いました。

天の岩戸が開くとき 人は神に帰る 21
生きる人・生かされる人 三村 隆範

 すべての人は,生かされている。
生きている人は,ほんのわずかだ。
 多くの人は,「生かされている」と思って,あるいは,そう言って納得している。
 しかし,私は生きているのだ!という。
 死んだ人が,「私は生きている」と言っているのを聞いたことはない。
 ましてや,石や木が…,犬や猫が…。「生かされている…」と言うのも生きている人間が言うことである。もっと生きていることを自覚して生きていることを謳歌して(喜び)生きて居たいものです。
 生きていることは,そのままが喜びであり,そのままで喜べるのです。生きている人には,自覚があり,生きていると感じるからこそ喜ぶことができるのです。もし生きていないのであれば喜ぶ事はないでしょう。だから私は,自分のしたいことをして喜びを謳歌して暮らしていこうと思っています。それこそが人間に与えられた力です。人は人らしく生かされていこうと思います。
 若かった私は,それなりに生きて,それなりに,何かに向かって生きてきましたが,つき詰まる所,何をしていたのかわからぬままにウロウロとさまよっていたのです。ですから何をしているのかわからぬままに生きてきたのですから,それは,生きていたというより生かされて来たのです。
 目前のことは,その時々に判断して生きているのですが,いったい何をしようとして,そうしてきたのか…?わからなかったのです。
 わけのわからぬまま,喜怒哀楽の渦に巻かれ,巻かれていることも自覚せぬまま,ただ苦しさや悩み,迷いだけが心の底にどっかりと居座っている事だけは,自覚されることでした。
 まったく,仏教でいう所の「無始よりこのかた無明(明らかでない)の世界をさまよっているのです。」
 もちろん,浮いたり沈んだりしているのかも知れませんが,阿波踊りで謳うように
 わたしの心も浮いてきた
       エライヤチャ エライヤチャ
            よい よい よい よい
 と生きて暮らしていきたいものです。