スイス人と日本人   芝山 靖二

 先月二週間スイスに行ってきました。それ位では何も分かりませんが,私なりに感じた事を少し。
 日本は国民総生産世界第2位の国です。それに対しスイスは21位の国です。日本人はお金を稼ぐ為に一年のほとんどを費やします。したがってある程度お金はあります。ですが,生活はほとんど仕事優先で,豊かな生活とは言えません。それに対しスイス人は生活を優先している様に見えます。日本では考えられませんが,レストランを経営している人が,6月の月はバカンスで1ヶ月休み。それから,各商店街でも休憩の時間,休みの日が大変多いので買い物客は営業時間を常に気をつけて居なくてはいけません。
 それからこんな事がありました。レンタカーを借りてある峠にさしかかった時,駅の前の広場に車がズラリと並んで何かを待っています。どうしたんだと聞くと,車を列車にのせるので列車を待っていると言う。なんでそんな事をするのと聞くと,この峠は列車のトンネルしかなく,車は全て列車に乗せて峠を越えると言う。24時間常にそうであるから,緊急の時などは大変不便ではある。日本であれば,何億掛かろうが何兆掛かろうが,いの一番に工事に掛かるだろう。ここにも日本との違い,福祉優先か,公共工事優先かが見える。どちらが良いかは,一概には言えないがスイス人と日本人の違いが見える。

椿泊は人情豊か     石渡 修司

 前回,神山町に行く時も道を間違えそうになって焦りました。今回は完全に道を間違えてしまいました。55号線をひたすら走っているつもりでいましたが,行けば行くほど,道は曲がりくねり,細くなって行きます。いくら地方の道路とはいえ,国道ともあろうものがこんなになるはずはなかろうと,思いました。案の定,とんでもない方に向かって走っていました。知らない所で,道を尋ねるのもそれなりの勇気がいるものです。一軒の小さなお店,昔で言えば,万屋(よろずや:何でも揃う店)に飛び込んで,「ここはどこでしょうか」と,妙な質問をしました。「どこに行きたいの」と,まともな答えが返ってきました。「椿泊です」。「それじゃ,まったく違うよ」と。本当に徳島の人は親切です。店の人全員が出てきてくれて,行くべき道を教えてくれました。
 なんとか,椿泊に入る分岐点を見つけ,曲がることができました。それから,椿泊までの遠いこと。本当に,この道でいいのでしょうかと心配になりました。途中でまた,人に尋ねました。「椿泊に行くには,この道でいいのでしょうか」と。言われるままに走り続けました。益々人家は乏しくなり,こんな所に集落があるのだろうかと不安が増し加わりました。
 桃源郷は人里離れたところにあるといいます。椿泊もまさに人里離れた海岸にある集落でした。そそり立つような山の下,うなぎの寝床のような狭い海岸に家並みが続いていました。家の軒下を通るようにして車は走ります。もう突き当たりかと思うと,直角に道は曲がって,まだその先があるのです。前から車が来た,どうしようと困っていると,向こうの車が郵便局のガレージに入ってくれました。すれ違うことができないので,かわせるところであれば,どこでも利用していいのでしょう。譲り合いの精神と人情が溢れる所,それが椿泊でした。是非,車で行くことをお勧めします。人情に触れ,きっと心が洗われることでしょう。

今,思うこと       相原 雄二

 今から31年前に天職としてメガネ専門店を独立開業いたしました。
 その時,行動の目標や指針とする標語として,次のようなスローガンを決めました。
「出会い,語り合い,尽くし合い」
 それが最近(1年前位い)には,その後に
「いつも喜び,すべてよし」
 それが近々には,
「人生,今が最高のとき」となりました。
 続けると,
「出会い,語り合い,尽くし合い,いつも喜び,すべてよし,人生,今が最高のとき」です。
 両親をすでに送り,子供を育て孫を授かる身になって観えて来たのが,多くのひとたちに,祈られ育てられた自分,これといった御恩報じも出来ていないこの私。これ以上の幸せを望むことは欲であると。
 今の自分で丁度よい。只ただ感謝するのみ。ありがたいことです。

幻想壹與(いよ)の蘭(一)    山田 善仁

 陳寿(ちんじゅ)博士殿,この前は,蜀(しょく)の国のお話をお聞かせ下さりありがとうございました。
 今日は倭国(いこく)の事をお聞かせ下さい。
 ああ良いですよ。安世(あんせい)王子さま(晋王(しんおう)の王子)。
 昔,馬懿(まい)おじいさま(司馬仲達(しばちゅうたつ),当時,漢民族は名字2文字より1文字を誇りとしていたので,通称馬懿と呼ばせていた)が,魏(ぎ)の皇帝に仕えていた時の事です。呉(ご)と蜀を相手に大変な戦いをしておりました。諸葛亮(しょかつりょう)(孔明(こうめい))のいない蜀を降とすのは,時間の問題でしたが,呉は精鋭な軍隊が多く,なかなか魏に降ちそうに有りませんでした。そこで魏の明帝は,景初2年(238年)高句麗国及び公孫渕(こうそんえん)を平定せよと,馬懿おじいさまに命を下されました。
 昔より司馬家は,帝の護衛を本職とする由緒ある家系で有り,戦は馬懿おじいさまの得意とする所でありました。
 千里万里も何のその,高句麗国,公孫渕及び倭国をも,ものの見事に魏の属国に加えて,背後より呉国を挟撃(きょうげき)にしたので有りました。そして明帝の景初2年6月,倭王卑弥呼(ひみこ)の使者,大夫難升米(たいふなしょうまい)(河川を掌る官,地方長官)等は帯方郡(たいほうぐん)に到着,天子に詣りて朝献せんと求む。その12月,洛陽(らくよう)にて女王を親魏倭王とし,金印紫綬,銅鏡100枚等々を賜ったのでした。
 陳寿博士殿,倭国は遠い遠い国なのでしょう。
 はい,安世王子さま。倭国は遠い所ですよ。公には出来ませんが,帯方郡より万2,000余里とは,10分の1の1,200里で,郡より狗邪韓国(くやかんこく)まで7,000里(実数700里),周旋(しゅうせん)5,000里(実数500里)とは狗邪韓国から奴国(どこく)(後のなこく)までの事ですよ。
 露布と申しまして,軍事機密の「一を以って十と成す」あれですよ。
 女王卑弥呼は奴国の高祖山に桜観,宮室を設け居処しており,事ある毎に弟が辞を伝え出入している。
 倭国には元南方系の吾倭主(あいぬ)という先住民族が住んで居ましたが,大陸より北方民族の移入以来,その混血民族が各々小さな国で興亡を繰返して来ました。中でも倭の奴国は,漢の光武帝の時代の中元2年正月,安帝の永初元年冬10月に倭王の使者が都洛陽に奉献して来た事が有る由緒ある国ですよ。
 邪馬壹国(やまいこく)とは倭国30国の事で有って,魏の最高実力者である将軍馬懿殿(司馬仲達)の息の掛かった所で在り,以後,馬懿将軍の字を取って邪(いつわり)の馬壹国(まいこく)を意とする邪馬壹国と呼んでおります。また邪馬壹国の都,奴国には13才にして女王に成られた宗女壹與(いよ)がおられます。元は伊都(いど)(怡土)国王の娘でしたが,将軍馬懿殿に見込まれて名を壹與としたそうです。