三木家古文書について(その2-2)
               三木 信夫

 三木家古文書 忌部長者下文
        文応元年(1260年)12月2日


 この文書は鎌倉時代の1260年,亀山天皇大嘗会が行われた11月16日の後に,京師の忌部氏長者から三木宗時入道への下文(くだしぶみ)で,尚友なる者が命を奉じて出したものです。

            (花押)
       下     宗時入道
        早任先例可為上御殿人也
       右不可隋左右長者也,先
       例有限為御殿人之状如件
        文應元年十二月二日 尚友奉
       宗時入道所

 文面の内容は,
「宗時入道は,早く先例に依って,荒妙の御衣(みぞ)を供進する上御殿人(かみみあらかんど)に為るべきである。このことは,麻植忌部集団の左方長者・右方長者の支配に随わなくてもよい独立した御殿人とする。荒妙を供進するには期限があり,御殿人とするこの書状の委細は前に述べた通りである。」
 この原文から私なりの訳をしましたが,読者の皆さんはどのように解釈されますか。

 紫陽花          天羽 達郎


 雨あめの雨のあじさい雨あめの

         あじさい見ゆる君ありし日の

賀立神社大祭に参列の感想と郷里の神話
   天香具山神社天岩戸神社宮司 橘 豊咲

 水無月二十二日に大和の一神主として,未来永劫(えいごう),脳裡から忘れることができない程の感動を覚えました。来年も健康である以上,阿波の由緒ある神社の拝殿に上って,阿波古事記研究会の天羽会長及新井さん共に参列して,奏楽,銀鈴の祓いを職袴,狩衣(かりぎぬ)で奉仕させていただき度思っております。蒲生田岬から,風光明媚な橘湾の遙か沖の伊島を眺め,潮流の変化,干満に依って,飛び石が増えたり減ったりする現象が素晴らしく,往時さながら白兎が,時折飛び跳ねる様に見える波涛(はとう)が印象に残っています。
 私の郷里の口能登(くちのと)のJR羽咋駅(はくい)から半島の外浦の沿岸を,旧私鉄能登線の廃線の跡地が自転車道に変化して,能登金剛まで続いていますが,此処から約七キロ,羽咋市一の宮,滝,柴垣(しばがき)の海岸に到達して浜に下りて約百メートル余りで,海水浴場で知られている長手島(ながてじま)の渡り口に着きます。時間帯に依りますが,干潮ならば履物を手にして素足で,一尺ぐらいの浅瀬を渡って数十メートル,満潮の場合狭い海峡となり,数十個の先の尖った石の頭しか見えません。満潮の折は大人でも足元を掬(すく)われる事があるので,子供は監視人の居ない時に渡らない方が良いです。海峡の左右は意外に深く景色を見ることは危険ですね。能登一ノ宮気多大社の主神は大国主様で,長手島に白兎が渡る途中,鰐(わに)に襲われ皮を剥がされ,鳴き苦しんでいるところを,命に助けられたと言う神話伝説が今の世に残っています。長手島に渡ると直に七面堂の建物が見えてきます。島の進行方向の右側の先端が漁港としての数十メートルの防波堤があって,島の周囲は深く初心者は泳げないと思われる所以です。苔むした岩となって暗礁が多く,石塊群が海中に在って沖に続いているようで,小学生の頃,漁師らしき人が,伝説では龍宮城の入口で有ったかも知れないと聞かされた事を想い出しましたが,神話伝説には尾鰭(おひれ)が付くのが古老の話で,眉唾物(まゆつばもの)と思ったら子供心に其場所に近寄らない方が賢明だと今でも覚えています。
 賀立神社の鎮座地は不便だと思っても,土着の人等は信心の厚い人が多く,不便だと思う人は殆ど居ないと思います。平成二十一年の春秋の月の何れかに,由緒ある古社の記念の祭典には是非共参列奉仕を考えて居ります。阿波の国の皆様方には,一度天香具山(あまのかぐやま)に登拝したいと思う方は,連絡をもらったら都合の悪い場合を除いてご案内します。
 一五二メートルの低い山ですが,阿波の元山の岩屋の如く,天から降下したものと信じて国の常立神社,たか大神の神社は雨風の神で,大和の龍田大社の主神であり,頂上の続きの,浅い谷を越えて二百メートル程行くと,イザナギ神社が在って,イザナミ神社は中腹より下あたりの樹木に囲まれた聖地です。愛宕社(あたごしゃ)は火の神で,民家から程近い付近に畑もあって,緩い丘に鎮座されて居ます。

還暦記念スイス/パリ旅行
              松林 幸二郎

 “次の同窓会は松林のいるスイスでしようよ”との岐阜の山奥の全寮制高校で,同じ釜の飯を食ったS君の提案に,すかさず元生徒会副会長のT君が“行くのは,S,お前位だよ”と一笑されたというメールが届いたのは昨年の5月でした。
 2年前に敬愛する私の名古屋の叔母が癌で亡くなる前まで,23年前に私たちの案内で,オーストリアとスイスを旅したときの,さまざまな楽しい思い出や,威厳と共に立ちはだかる壮大な白い山々や鏡のように美しい湖といったアルプスの大自然の情景が,折りに付け話題になったとのことです。そのことが闘病する伯母の心を和ませ,痛みを忘れさせてくれたということを伯父から知らされて,この世の生を終えるまで,同胞に夫婦で何時の日も語り合える共通の話題をプレゼントするためにも,S君らの夢を叶えたいと計画を始めたのは1年も前のことでした。
 日本の定年は還暦を迎える60才ということで,私たちの年代もそろそろ社会の第一線を退くころで,少なくとも4-5組の夫婦の参加があるものと予想いたしました。しかし,現実は夫婦して2週間家を空けて,スイス/パリを悠々と旅行出来る同期生はほとんど無く,T君の予想もあながち間違っていなかったことを知らされました。
 結局は,夫婦が一組,同級生2名合計4名という小さなグループとなりましたが,これがどんな小さな希望にも応えられ,体力,天候などによって計画を臨機応変に変えられるパーソナルなものとなり,むしろ大きな幸いをもたらしたと言えます。また,これらは私たちの里帰りのたびに,心から歓迎してくれた彼らへの恩返しともなったことを幸いに思いました。
 一人を除いて,海外も飛行機も生まれて初めてでしたので,“2日が2週間に感じられる”という彼らのことばが伝えるように,感動と感激は筆舌しがたいものであったように思われます。2週間のスイス/パリでのガイド兼運転手兼通訳の任を終え,彼らをドゴール空港に見送ったおり,彼らの生涯に残るであろう想い出作りの手伝いは出来たのではと,安堵と嬉しさに疲れた身を委ねたものでした。
 日本という小さな島国を,生まれて初めて外から眺めて,彼らの視野もうんと広がり,価値観も人生観も大きく変わったように思います。この経験をてこに,これからの人生を前向きに開いていってくれれば,計画や準備に費やした膨大な時間やお金も無駄にならないだろうと思いました。