三木家古文書について(その3-1)
               三木 信夫

 三木家は鎌倉時代すでに大きな勢力を有して,文永3年(1266年)2月地頭名に属する「わたつりや内」を三木安村に与えるという宛行(あてがい)状を種野山地頭職代官よりもらっています。
 鎌倉幕府成立までは,貴族中心の世で地方の政治は真剣に考えられず,地方の人達は自分の力に頼る以外生きる道はないと考え,実力を持った地方の富裕な豪族や平安時代から名主(みょうしゅ)と呼ばれていた地主の一部が,もともと自分の土地を自分で守るために経済力を背景に武力を蓄え,地域の人に信用を得て事実上支配する村落領主となり,武士としてその土地をもとにして主従関係が出来ていったのです。中世までの階級は貴族・貴種(=僧職者等)・百姓(=庶民全般)で区分されこの百姓から武士が誕生したのです。
 吉野川南岸の忌部山から高越山・美郷・木屋平にかけて,旧麻植郡山地部の大部分を掩う広大な地域を占めている種野山(麻植山)は,麻植忌部などを通じて朝廷と深く結んでいた為に貴族社寺の侵食を受けず国衛領(こくがりょう)(=朝廷領)として残されていた処です。その一部(三ツ木・中村)を三木家歴代の安村が三木名(みょう)として支配しておりました。この宛行状は名前を正確に「新次郎大夫安村」と記載しております。大夫(たいふ)は五位の通称でもあり,この時はすでに当時の武士として支配していたのです。

ペンパールEthelを尋ねて3万里
               天羽 達郎

 昭和27年(1952),私の通う桑野中学校にペンパールクラブが出来た。当時,第二次大戦が起こったのは国どうしに誤解があったのが原因のひとつだと考えられ,それを防ぐには若い人達が早いうちから外国の人と文通をしあい,お互いに理解を深めることが大事であると言われた。それでサンフランシスコに本部を置く国際文通クラブができ,日本支部は大阪枚方に置かれ,各中学校に呼び掛けがあった。桑野中学校でもクラブを作り1級上のHさんが会長になり僕も参加した。メンバーは5人ぐらいであったと思う。
 本部からは支部を通じてアメリカ,イギリスなどの中学校のメンバーを紹介され,僕の相手はイギリスのカンバーランド(現在のカンブリア)のミロムに住むエセルさん(写真)になった。初めて手紙を受け取った時の嬉しさは今も忘れない。しかし手紙の中の単語は教科書に全然出てこないものばかりで意味が分からない。当時はろくな辞書もなく本当に苦労した。とくにI have had -.などと同じ単語が現在形と過去形がなぜ続くのだろうと不思議に思った。現在完了形のことをまだ知らなかったのだ。当時の英語のレベルの低さがわかる。僕の方は貧弱な英語のため,なかなか手紙がかけなくて随分と不義理をした。それでも彼女は筆まめで手紙をくれた。その後僕は進学のため千葉そして仕事は東京で,彼女は結婚してニュージーランドへ行き手紙も途絶えた。そして約30年が過ぎた。
 徳島に帰ってきたとき老朽化した家を建て替えることになった。家の中を整理していると古びたアルバムがあった。その中にここに掲載してある写真を発見した。あまりの懐かしさに,その写真を焼き増してお父さん宛に手紙を出した。エセルさん今どうしているかって。そしたら本人からすぐ返事がきた。ニュージーランドから帰ってきている。子供が生まれなかったので男と女と一人ずつ養子をもらった。そして昨年11月夫が突然死んでしまい,本当にうろたえて落ち込んでいる。今はすこし持ち直したが,父がこれを読めといって手紙を持ってきたとき本当に嬉しかった。これは神様が私を励ますために,あなたに手紙を書かせたのだと思う,とあった。(以下次号)

忌部の話 二十一 「国造」その一
               尾野 益大

 「国造(くにのみやつこ)」とは,大化以前の大和朝廷の地方官を指す。当時,国造は一定の範囲の最高首長が大和朝廷から任命されて軍事を含む地方行政を把握していた。
 石井町中王子神社には国内最古級の「粟国造墓碑」が国造の貴重な史料として伝わる。しかし,これが造られた養老7(723)年といえば,大化以降であり,本来なら都から派遣された国司が阿波の行政を行わなければならないのに郡の長官である粟凡直弟臣がまだ,国造として地位を保っていたことを示すと同時に吉野川流域では粟凡直の一族がずっと以前から統治していたことを証明している。
 先の墓碑からは,粟凡直弟臣が実際に行政をどこまで司っていたかは不明だが,少なくとも大嘗祭で定められた阿波忌部の伝統的な役割と関係があるのではないかと考えられる。特に麁布の貢進は重視されたであろう。
 考古学者・森浩一氏は,大化以降の国造を「新国造」であると指摘し「大嘗祭のように十数年あるいは数十年に一度おこなう祭祀でのそれぞれの国の伝統的な役割は国司では対応することはできず,そういう国に新国造がおかれていると考えている」と記している。
 阿波国造の名として,8世紀に「粟凡直若子」,「粟豊穂」が文献に表れているという。新国造については,阿波忌部が開拓した紀伊,安房にもおかれており「大嘗祭での慣例を記憶し伝承」すると森氏は書いている。
 阿波の国造は,観音寺木簡でも判明したようにとてつもなく強大な独自の力を持っていたようだ。つまり,論語木簡からは国司とは無関係に国造家自体が中国系の博士を招いて論語を学んでいたことが分かったし,「板野国守」と墨守した木簡からは,国造の力が強すぎて本来国府に住むべき国守が国府周辺に住めず板野に住まわされたことが明らかになったのだ。

すべての思いを家族に 48 自己実現
自分自身が自己実現をする。
大事なのは今,幸せ?
   田上 豊

 幸せは自分の心の中に有ります。
 人を喜ばせたら幸せになるよ。
 人を楽しませたら幸せになるよ。
 人のお手伝をすると幸せになるよ。
 幸せの種って自分の内に成るよ。
 幸せの種は探せばいくらでもあります。
 心が通じ合う人が一人でも居たら幸せなのです。
 相手に思いやりを忘れるとすぐに愛が切れてしまうのです。
 思いやりって愛なのです。
 ありがとうと言う言葉は花なのです。
 お陰様の言葉も花です。おはよう,こんにちは,今晩は,さよならの言葉は皆,花なのです。感謝の言葉,挨拶の言葉は皆全部,花です。花は相手の心を癒すのです。
 出会う人は全部自分を磨いてくれる人です。感謝です。
 現在,楽しんでいる時間,喜んでいる時間,笑っている時間合計は何時間?
 悲しんでいる時間,悩んでいる時間,怒っている時間,人の悪口を言っている時間の合計?
 悪い方を合計すると悲惨になりますよ。それほどマイナスの時間が多いのです。
 考えてみるぐらいは許されるでしょう。計算するぐらいは許されるでしょう。
 誰もが幸せを目指しているでしょう。幸せになるために一生懸命働いているのでしょう。
 でもね,一向に近づいて来るとは思われないのです。先生を見ても自分達の先輩を見ても確信が持てないのです。たまに幸せそうな先輩を見て聞いてみますと諦めたと言うのです。
 喜んだり,楽しんだり,笑ったりしているのは,ほんの短時間だったり瞬間だったりなのです。これで運命を良くすると言ったって無理ですね。
 先生や先輩に聞いても無理だよね。自分達が楽しんだりしていないものね。
 幸せにはコツがあり,不幸は癖が有ると言ったね。思い出して見ようよ。