三木家古文書について(その3-2)
               三木 信夫

 宛行状に出てくる地頭とは,平家滅亡後,鎌倉の源頼朝が義経と叔父の行家を捕まえ,治安の維持にあたるためといって北条時政に後白河法皇と直接談判させて,諸国に守護を,各地の土地や荘園に地頭を置き,それらに鎌倉の御家人(=頼朝に直接従っている家臣)を任ずる事を文治元年(1185年)11月勅許されました。阿波国では守護は置かれても地頭は置かれず,荘公の別なく地頭が置かれるのは承久の乱(1221年)後とされています。地頭とは,もともと貴族や平家の荘園に貴族が任命して,年貢の取り立てやその地方の治安維持にあたらせた荘園の役人でした。この任免権を頼朝が持つこととなり,鎌倉幕府の力は,ひろく貴族等の荘園の中にも深く入りこんで全国的に勢力を拡大していったのです。地頭はこの土地を管掌して時と共に支配力は大きくなり,荘園制もだんだんと崩壊し,武士が治める世がこの鎌倉時代から始まったのです。

 三木古文書
 正意宛行状(文永3年=1266年)


    わたつりや内の事
 右の件之わたつりや内におきては,新次郎
 大夫安村の處に宛て下す處実(じち)なり,
 但し此のわたつりや内は地頭名(みょう)也,
 安村は百姓也と雖(いえど)も志有るに依り下し
 宛つる處,件の如き也
  文永参年二月 日
                正意(花押)

解説
特別に三木安村に地頭名を与えるというもの。

ペンパールEthelを尋ねて3万里(2)
               天羽 達郎

 そして,約30年振りに文通が再開した。今度は僕の方にかなりの英語力がついたためにあまり不自由はなかった。長女由布子が高校2年の春,語学練習を兼ねてイギリスへホームステイに行った。エセルさんがわざわざロンドンまで会いに来てくれた。ミロムから500kmはあると思う。朝6時の汽車で出たそうだ。そしてお土産に彼女の住まいの近く,イギリスで一番美しい地方The Lake District(湖水地方)の写真集をもらった。次女の菜美もホームステイに行った。今度はホストの方と電話で話がついていてエセルさんの家まで行った。菜美は数年後また機会がありもう一回会っている。肝心の私はまだ会えてなかった。そのうち女房が死んだ。開業まもなくだったので大変だった。それでまた数年間文通が途絶えてしまった。
 平成16年の夏,長女が突然イギリスに行こうと言い出した。もう65歳だしラストチャンスだと思ったので,暮れ正月休みを利用して子供たちと行くことにした。手紙を出したら,あいにく彼女はイングランド南部の友人宅で家族とともにクリ手配をしてしまったので決行した。湖水地方の中心地ウィンダミア湖畔に宿を取った。イギリスの冬は雨期でほとんど毎日しとしと雨が降っていた。

 Going on Windermere,
 I can’t find the end of the winter sky,
 Only the lake is to be seen
 Faintly in the rain.

 ウィンダミアを行けども冬空限り無き
        そぼ降る雨に湖水かすみて

                (以下次号)


写真:ウィンダミア湖

阿波と古事記DVDのリリースにあたり
               新居 洋子

 多くの皆様方のご協力により,予てより念願しておりましたビデオの製作発表をすることができました。この紙面をお借りして,ここに心より感謝を申し上げますとともに,お慶びの意をお伝えしたいと存じます。
 今回恐れ多くも天の岩戸の御前で,天照大御神の役をさせていただきました。たいへん見に余る光栄でございましたが,この役で,恐れながらこの時の天照大御神のご神意のほんの一粒でも感じさせていただいたのでは,と有難く感謝申し上げております。
 と申しますのは,この世に生を受けた人間は,悲しむことがあってはならないと言うことです。
 この地球上には,原因と結果の法則つまり因果律という法則があります。これは,法則ですので,誰が,いつ,どこで,行っても同じ結果になると言うのです。万有引力もそのひとつでしょう。
 スサノウの大暴れで,ついに悲しんだ天照大御神は,天の岩戸にお隠れになり世の中が真っ暗になってしまいました。天照大御神はみんなのリーダーですので,自分のみならず,全員が悲しむ結果となりました。
 リーダーは悲しんではならない。いつも喜んでいなくてはならない。人は誰でも誰かのリーダーなのだから,人はいつも喜ぶことが大切なのだと言うことを悟らせて下さったと思います。
 幸福は心の持ち方が大事と思います。心の持ち方で,幸せになったり不幸になったりします。どんな時も,「ああ、幸せと思うこと」この心の持ち方で,全てが好転する事を教えてくださっていると思います。
 昔から「笑う門には福来たる」とか,キリストは「いつも喜んでいなさい」と言ったということですので,私達の祖先は2000年以上も前から,因果律の法則を発見し,悲しいときも,踊って,楽しむ阿波踊りという形で,喜ぶ術を知っていたのではないかと,思います。
 そう言うことで,「古事記」と書物は,単に歴史書とか,逸話とかいうだけの物ではなくて,もっと,身近な,生き方のお手本とも言うべき書物とも言えるし,また,人生哲学的な書物とも言えるのではないかと思うのです。

忌部の話 二十二 「国造」その二
               尾野 益大

 古代の粟(阿波)を統治した国造の一族が粟凡直(あわのおうしのあたえ)だったことは「先代旧事本紀」の中の「国造本紀」に書かれている。そして「新編 姓氏家系辞書」(太田亮著,昭和49年)では,粟国造は「粟忌部氏族…国造本記に見える…粟忌部の宗家である。阿波忌部の阿波拓殖は応神帝以前の事であるが,一国としての国造の任命を見たのはこの時と考えられる。この国造家を粟凡直という。…」としており,粟凡直についても「粟忌部氏族…粟国造家の氏姓である」と記し,粟凡直が阿波忌部であることを明らかにしている。
 「凡直」は古代の氏姓制度のもと,職掌を示す姓(かばね)を指し,阿波だけでなく他国の旧国造家にも認められた。国造制度の廃止後も吉野川一帯に粟凡直の名前は記録が残っている。
 石井町中王子神社の国造墓碑に刻まれた「粟凡直弟臣」を除いてどんな人物がいたのか。
 まず,粟凡直国継が奈良時代,板野郡在住。「板野郡荘を寄進した」との記録がある。粟凡直貞宗は板野郡出身の平安期の役人。都へ出て下級役人として働き「宿祢」の姓を賜った。粟凡直豊穂は奈良から平安期の役人で正六位上。阿波国出身で都で働いていたと考えられる。粟凡直成宗は板野郡田上郷の戸主として902(延喜2)年の戸籍に記されているが不明な点がある。
 粟凡直鱒麻呂は板野郡出身で平安期の役人。清和天皇,陽成天皇に仕え「宿祢」姓を賜った。粟凡直若子は藤原不比等の四子の一人・藤原房前の妻になった。房前が737(天平9)年に亡くなった後も都で活躍。外従五位下に叙せられ「板野命婦」と呼ばれ正倉院文書にも登場する。粟凡直の一族は,墓石が造られるより古い時代から続くとされる。つまり古墳に埋葬された氏族の系譜を引く。例えば,鳴門市の萩原墳丘墓(2世紀後半,3世紀前半)宝幢寺古墳(4世紀後半),天河別神社3・4号墳(3世紀後半),板野町の愛宕山古墳(4世紀後半)など。当時,一帯は海岸。水銀朱や青石を近畿の摂津,河内,大和に運ぶ港湾の拠点で,粟凡直の一族の先祖は強大な力を持って統治していたと見られる。
 徳島市国府町の気延山東端にも矢野古墳群がある。そのうち宮谷古墳は3世紀末に造られた徳島県最古の前方後円墳で三角縁神獣鏡3点などが出土した。名方郡に住んでいた粟凡直は矢野古墳群の系譜を引くといわれる。